2024年2月18日主日礼拝メッセージ「神の晩餐」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書14章12節〜24節。

新共同訳新約聖書137ページです。

14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。

14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。

14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

14:15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。

14:16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、

14:17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。

14:18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。

14:19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。

14:20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。

14:21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』

14:22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、

14:23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。

14:24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

「神の晩餐」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も、子どもメッセージから始めたいと思いますが、

これは、なんのイラストでしょうか。

そうですね、これは、食事会をしているイラストですね。

とても楽しそうな食事会ですけれども、ちなみに、イエス様の時代の食事会は、どんな感じだったかというと、こんな感じだったそうです。

わかるでしょうか。寝ながら、肘をついて食べてます。

今、こんな食べ方をしたら、叱られてしまいますけれども、イエス様の時代は、これが普通だったそうです。

今でも、こんなふうに食べている地域があるそうです。

時代や場所が違うと、食べ方も、ずいぶん違うんだなって驚きますけれども、今日は、この食事会のお話です。

皆さんは、食事会を、開いたことがありますか。

まだ、流石にないんじゃないかと思いますが、でも、ちょっと想像してみてください。

もし、皆さんが、食事会を開くとしたら、誰を招待するでしょうか。

招待したい人を、思い浮かべてみてください。

仲の良い友達を思い浮かべたっていう人、手をあげてください。

家族を思い浮かべたっていう人は、いるでしょうか。

他にも、思い浮かんだ人がいるっていう人はいますか?

ありがとうございます。

なぜ、その人たちを、招待したいって思ったでしょうか。

一緒に食事をしたら楽しいって思ったから、っていう人。

楽だから、気を遣わなくていいから、っていう人。

それ以外の人。

ありがとうございます。

そうですよね。皆さんが手をあげてくださったように、きっと多くの人が、楽しい食事会をしたいと思って、仲の良い友達や家族を招待するって言うと思います。

それは、ごく当たり前のことだと思います。

でも、今日の箇所で、イエス様は、こんなことを言っています。

13節「食事会をするときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。」

友人も、家族も呼んじゃダメだって言われています。

なんで呼んじゃダメなんでしょう。

続きには、こう書いています。

「その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。」

「お返し」ってなんでしょう。

「お返し」っていうのは、お礼のことです。

招待してもらったお礼に、もっとおいしいものをご馳走してくれるかもしれない。

だから、呼んではならないって、イエス様は言っています。

なぜ、お礼してもらっちゃダメなんでしょうか。良いじゃないですか、お礼してもらって。何が悪いんでしょうか。

食事会をして、お礼してもらって、食事会をして、お礼してもらって、・・・そんなことが続いていくうちに、お礼してくれる人しか呼ばなくなる。

お礼してくれない人は、嫌な奴だって、思うようになってしまう。

そんな人間になるなって、イエス様は言っているんじゃないでしょうか。

続きには、こう書かれています。

「食事会をするときには、貧しい人など、お返しができない人を呼びなさい。そうすれば、神様がお返ししてくださるだろう。」

貧しい人など、お返しできない人を食事に招きなさい。

そうすれば、神様がそれを喜んで、あなたにお礼をしてくれるだろうって、言われています。

神様は、いつも、貧しい人たちと共におられます。

だから、貧しい人たちと共に食事をするっていうのは、神様と一緒に食事をするっていうことなんだと思います。

今日は、この二つのことを覚えておきたいと思います。

1、お礼してくれるかどうかで、人を選んだりしない。

2、貧しい人たちと食事をする=神様と食事をするってことなんだ。

今日はこのことを、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

イエス様は、宴会を開くときには、お返しができない人を招きなさいと言われます。

そうすれば、正しい者たちが復活するとき、つまり、神の国が来るときに、あなたは報われる。

神様が、そのことに報いて、良いものを与えてくださるだろうということです。

このことからわかるのは、神様が、お返しできない人たちを招くことを、願っておられるということです。

具体的には、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人が挙げられています。

イエス様が生きられた時代において、彼らは、社会的に排除された人たちでした。

ある聖書の註釈には、「失格者」とみなされる人たちだったと、記されていました。

ですから、宴会に招かれるということもなかったでしょう。

でもイエス様は、そのような人々こそ、招きなさい。

なぜなら、そのような晩餐こそ、神様が喜ばれる晩餐、神の晩餐だからだとおっしゃっているわけです。

先週は、神の国の話をしました。

末席にいる人たち、神様から最も遠くにいると思われていた人たち。

そのような人たちこそ、神の国に招き入れられるという話でした。

それに続いて、今日の話は、神が望んでおられる晩餐、神の晩餐の話ですが、言われていることは、同じだろうと思います。

お返しができない人たち、当時の社会の中で、まさに末席に置かれていた人たち。

いや、末席にすら、座ることが許されなかった人たち。

そのような人たちこそ、神様は、喜んで、食卓に招いてくださる。

お土産を持っていく必要も、お返しを気にする必要もありません。

誰もが、遠慮せずに食べたり飲んだりできる、それが神の晩餐なのです。

そのような晩餐、神の晩餐を整えるようにと、イエス様は招いておられるのです。

一方で、今日の箇所の後半に記されているたとえ話はどうでしょうか。

そこには、盛大な宴会を催した主人の話が記されています。

最初、私は、このたとえ話も、神の国の祝宴、神の晩餐の話だと思っていました。

盛大な宴会を催した主人は神様で、その宴会を知らせに行った僕はイエス様。

イエス様は、神の国の祝宴を知らせに行ったのに、当初招かれた人たちは、誰も来なかった。

それで主人は方向転換して、招いていなかった人々、先ほど、言われていました、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来させる。

これは、ユダヤ人から、異邦人への転換を表している。

イエス様が招いているのに、ユダヤ人たちは、それに応えようとしなかった。

それで、異邦人を招くことへと、救いの射程が転換されていった。

このたとえ話は、そのことを表しているというのが、伝統的な解釈です。

私も、最初、そのような話として、この話を読んでいました。

でも、それだと、イエス様がおっしゃっていることと、つじつまが合いません。

イエス様は、はっきりと、お返しできる人たちを、呼んではならない。

貧しい人、体の不自由な人、お返しできない人たちこそ、招きなさいと言われています。

それこそが、神様が喜ばれる晩餐、神の晩餐なのだと、おっしゃっています。

それなのに、たとえ話に出てくる主人が、最初に招いた人たちは、どのような人たちだったか。

畑を買うことができる人。

牛を2頭ずつ5組買うことができる人。

妻を迎えることができる人。

どちらかというと、彼らは、イエス様が呼んではならないと言った人たちだと思います。

確かに、たとえ話の後半には、イエス様が招きなさいと言われた人たち。

貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人が連れて来られる様子が記されていますが、それは、招いた人たちが来なかったからでした。

招いた人たちが来なかったことに、主人が怒って、そのはらいせに、彼らが呼ばれたという話になっています。

仕方なく、しょうがなく、あるいは、ドタキャンした人たちに対するはらいせとして、貧しい人たちが連れて来られる晩餐。

無理やり、強引に、連れて来られる晩餐。

それが、神の晩餐なのでしょうか。

私には、とても、そのようには思えないのです。

このたとえ話で語られている主人が、神様であるとも思えないですし、

このたとえ話で語られている晩餐が、神の晩餐であるとも、思えないのです。

では一体、このたとえ話を通して、イエス様は、何を語っておられるのかということが、問題になってくるわけですが、

私は、このたとえ話の中に、貧しい人たちや、体の不自由な人たちの置かれていた現実が、語られているのではないかと思います。

たとえ話で語られている主人というのは、神様などではない、どこにでもいる普通の主人。

自分が喜んだり、自分が楽しむため、あわよくば、見返りも得たいと、そんなふうに願って、宴会を開く、どこにでもいる普通の人です。

その主人が、宴会を開いた。

でも、誰もきてくれなかった。それも突然にです。

来ると言っていたのに、土壇場でキャンセルされた、ドタキャンされたわけです。

そりゃ怒るでしょう。

宴会の準備はもうしてしまっている。

怒った主人は、『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』と僕に命じる。

それでも、まだ席が埋まらないというので、もう誰でもいいから、とにかく、家をいっぱいにしてくれという。

その結果、確かに、その食卓には、貧しい人たちがいるわけですが、しかし、主人からすれば、所詮彼らは、単なる穴埋め。

怒りを鎮めるための、道具でしかない。

これが、あなた方の限界だろう。

貧しい人たちというのは、そのようにしか扱われない。

用意していた宴会に、誰も来ないというような異常事態が起こらないと、呼ばれない。

呼ばれたとしても、来なかった人に対する当てつけか、主人のはらいせでしかない。

それが、貧しい人や、体の不自由な人が置かれている現実だと、イエス様は、そうおっしゃっているのではないでしょうか。

そして、そんな人々に、そんな生き方をやめて、神の晩餐を整えなさい。

誰も来なかったから仕方なくとか、はらいせにとかではなく、まず、貧しい人々を招きなさい。

彼らを中心に、晩餐を、整えなさい。

それこそが、神の晩餐なのだと、イエス様は、おっしゃっているのだと思います。

このイエス様に対して、私たちは、教会は、どう応答していくでしょうか。

新型コロナウイルスに対する対応が緩和される中、教会での愛餐会も、再開するようになりました。

3年間できなかったということを考えると、大きな前進だったと思います。

でも、それでいいんだろうか。

教会のなすべき晩餐とは、なんだろうか。

私たちは、どんな晩餐を整えていくべきなんだろうか。

そのことを考えさせられます。

私たちが、食卓を囲むとき、その交わりから排除されている人たちがいないだろうか。

私たちは、誰と共に、食卓を囲むのか。

そのことが問われているように感じました。

イエス様は言われます。

お返しするすべを持たない人たち、それゆえに、宴会に招かれることのない人たち。

そのような人々と、共に、食事を囲みなさい。

その晩餐を、神様は喜んでくださる。

そのような晩餐こそ、神の国において開かれる神の晩餐、神の国の祝宴である。

そのような晩餐を整えなさいと、イエス様は、招いています。

この招きに答えていく時、そこにはどんな晩餐が待っているのでしょうか。

神の晩餐、神の国の祝宴とは、どのようなものなのでしょうか。

共に、そのような晩餐に、あずかっていきたいと願います。

お祈りします。

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