2024年3月24日受難週主日礼拝メッセージ「イエスの叫び」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、マルコによる福音書15章33節〜37節。

新共同訳新約聖書96ページです。

15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。

15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。

15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

「イエスの叫び」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

皆さんは、教会をイメージする時に、何を思い浮かべるでしょうか。

教会と聞いて、思い浮かべるものといえば、なんでしょうか。

おそらく、多くの人は、十字架を思い浮かべるのではないでしょうか。

十字架は、教会のしるしです。

私たちの教会にも、もちろん、十字架があります。

どこにありますか?

そう、講壇の後ろと、それから・・・、屋根の上に、十字架があります。

実は、他にも、十字架があります。

そう、礼拝堂の入り口の窓とか、教会の玄関の窓なんかにも、十字架があります。

もしかしたら、他にも、十字架があるかもしれません。

見つけたら教えて欲しいと思いますが、そんなふうに、教会は十字架を掲げています。

教会には、いろんな建物があります。

いかにも教会って感じの建物もあれば、家と同じようなつくりの教会もあります。

どんな建物の形をしていても、そこに十字架があると、「あ!教会だ!」って思います。

そんなふうに、教会といえば十字架、十字架といえば教会というほど、教会にとって、十字架は、欠かせないものだと思います。

でも、この十字架、そもそも何の道具だったか、知っていますか?(絵を出す)

実は、これは、犯罪者を処刑するための道具でした。

この絵にあるように、犯罪者は、この十字架に架けられ、処刑されていきました。

なぜ、そんな恐ろしいものが、教会のしるしなんでしょうか。なぜでしょう。

それは、この十字架に、希望があるからです。

イエス様は、この十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、死んでいきました。

なぜ、私を見捨てるのか。

なぜ、私を助けてくれないのか。

なぜ、何も言ってくれないのか。

なぜなんだ神様!って、そう叫んで死んでいきました。

何の救いもない、最悪の終わり方です。

でも、そのイエス様が、復活させられていくんです。

十字架に架けられたイエス様に、もう一度、命が与えられていく。

これが、私たちの信じている希望です。

十字架は、苦難のしるしです。でも、同時に、希望のしるしです。

どんな苦しみの中にあっても、神様は共におられる。

神様は、決して、見捨てない。

神様は、必ず、私たちの祈りに、応えてくださる。

十字架は、そのしるしです。

苦しい時、辛い時。

神様いるのなら、何でこんなことが起こるのか。

なんで、助けてくれないのか。

なんで、何も言ってくれないのか。そんなふうに思う時、神様は、私たちと一緒におられる。

そして、私たちを、救いの道へと導いてくださっている。

十字架は、そのしるしです。

今週は、この十字架を、心に覚えながら、新しい一週間の歩みを、はじめていきましょう。

お祈りします。

キリスト教の暦では、今日から受難週に入ります。

受難週は、特に、イエス様が受けられた苦難に心を向ける時です。

今週金曜日の夜7時から、受難週の特別祈祷会を行います。

毎年行っているものでありますが、今年も、イエス様が、十字架に向かって歩まれた、最期の一週間の歩みを、聖書を読みながら、振り返ります。

お時間許される方は、どうぞ、お越しください。

今日は、そのようなことを念頭におきながら、聖書を読んでいきたいと思います。

選ばせていただいた箇所は、まさにイエス様が、十字架上で息絶える場面です。

そこには、イエス様の叫びが、記されています。

34節、三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

イエス様は、十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれました。

これが、イエス様の、生前最期の言葉でした。

神の子として、神に従い、神と共に生きられたイエス様が、大声を張り上げて「なぜ」と叫ばれた。

なぜ、見捨てるのですか。

なぜ、応えてくださらないのですか。

なぜですか。

そう叫ばれました。

しかし、神様からの応えはありませんでした。

居合わせた人々の中には、「エリヤを呼んでいる」という人もいました。

エリヤというのは、旧約聖書に登場する預言者の名前です。

生きながら、天に引き上げられていったという伝説の預言者で、終末の前に再臨すると信じられていました。

周りの人々は、イエス様が、そのエリヤを呼んでいると思ったようです。

「エロイ、エロイ」「我が神、我が神」という言葉が、「エリヤ、エリヤ」と呼んでいるように聞こえたのでしょう。

そして、エリヤが彼を降ろしにくるかもしれない。

何か、奇跡が起こるかもしれないと思ったのです。

でも、何の奇跡も起こりませんでした。

そして、イエス様は、再び大声を出して、息を引き取られました。

イエス様の歩みには、いつも奇跡がありました。

神様が、イエス様と共にいて、奇跡を起こしてこられました。

嵐の時には、イエス様が「静まれ」と言った途端、風がやみ、嵐がおさまりました。

重い皮膚病の人は、イエス様が「清くなれ」と言った途端、癒されました。

五つのパンと二匹の魚で5000人以上の人々のお腹を満たしたこともありました。

そのように神様は、いつも、イエス様と共にいて、困難な出来事を解決へと導いてこられました。

それなのに、この場面では、何の奇跡も起こそうとされません。

イエス様の叫びは、そんな神様に向けられています。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

イエス様は、神様がいるかいないかを問うているのではありません。

神様はいる。

確かに、共にいる。

「我が神、我が神」「私の神様、私の神様」イエス様は、十字架上においても、確かに神様と繋がっていました。

でも、だからこそ、わからないのです。

なぜ、私を、お見捨てになるのか。

神様はおられるのに、なぜ、何もしてくれないのか。

なぜ、助けてくれないのか。

なぜ、何も言ってくれないのか。

それが、十字架上で、イエス様が叫ばれた叫びでした。

このイエス様の叫びは、私たちの叫びでもあるのではないでしょうか。

昨日、ロシアのモスクワのコンサートホールで、武装した集団が、観客を銃撃するという事件が起こりました。

コンサートホールには、当時、6200人の人たちがいたそうですが、そのうち、少なくとも133名がお亡くなりになり、145名以上が負傷したと言われています。

なぜ、こんなことが起こるのでしょうか。

この事件に対して、ロシアのプーチン大統領は、この武装集団が、「ウクライナに向けて逃亡しようとした」、「ウクライナとの国境を越えるための窓口が用意されていた」と、会見でそう述べたそうです。

事実は分かりませんが、この言葉を聞きながら、この事件をも戦争に利用するのか。

殺害された人々のことなど、もはや、見えていないのかと、そう思わされました。

ロシアとウクライナの戦争、ミャンマー国軍による空爆、イスラエルによるガザ地区攻撃。

それによって、今も、多くの人々の命が奪われています。

神様がいるのなら、なぜ、こんなことになっているんでしょうか。

今年の1月1日に起こった、能登半島地震では、241人の方が亡くなられ、4名の方々が、未だ、行方不明となっています。

イエス様の叫びを聞く時、地震で家族を亡くされた方々の言葉が、重なって響きました。

なぜ、こんなことにならなければならないのか。

神様がいるのなら、なぜ、戦争は起こるのか。

なぜ、神様は、殺している人たちを、止めてくださらないのか。

なぜ、彼らをしたいようにさせているのか。

なぜ、罪もない人たちが、死ななければならないのか。

なぜ、こんなことにならなければならないのか。

これは、私たちの中にある叫びでもあると思います。

この叫びに対して、神様は、何もお応えになりませんでした。

そして、イエス様は、息を引き取られました。

でも、これが、終わりでないことを、私たちは知っています。

「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、叫んで死んでいったイエス様が、復活させられていくのです。

神様は、見捨ててなど、おりませんでした。

ここに希望があります。

祈っても、叫んでも、何の助けもない。

何の応えもない。

その沈黙の中で、苦しむことが、私たちにもあるでしょう。

いや、むしろ、そういうことの方が多いと思います。

聖書に記されているような、奇跡は、容易に起こることではありません。

祈っても、聞かれない。

叫んでも、誰も応えてくれない。

そんな時が、あるかもしれません。

でも、そんな時、そこに、イエス様はおられます。

祈っても応えられない。

叫んでも、助けがこない。

その沈黙の中に、イエス様はおられます。

苦しむ人々と共に、イエス様は、叫んでおられます。

マザーテレサは、「苦しみは、共に担われる時、喜びに変わる」と言いました。

一緒に叫んでいる人がいる。

一緒に苦しんでいる人がいる。

私は一人じゃない。

その想いは、私たちが生きる力となり、支えとなります。

イエス様は、今も、十字架にいます。

「なぜ」と叫ぶ人々と共におられます。

そして、神様は、そのイエス様と共に、苦しみ、叫んでいる人々を、どん底から、引き上げてくださるのです。

苦しい時、辛い時、祈っても、祈っても、応えが見出せない時、イエス様の叫びに心を向けましょう。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

一緒にそう叫びながら、イエス様は、共にいてくださいます。

そして、その叫びは、叫びで終わらない。

必ず、その先に、復活がある。神様の応えがある。

来週は、イースター、イエス様の復活を覚えて礼拝を献げますが、誰が復活させられていったのか。

十字架に架けられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、息を引き取られた、そのイエス様が、復活させられていったということを、忘れないでいたいと思います。

苦難は、苦難で終わらない。

苦しみを受けた者に、復活の命が与えられていく。

そのことを心に留めて、歩んでいきましょう。

お祈りします。

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