2024年4月28日主日礼拝メッセージ「共に福音にあずかる」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一9章19節〜23節。

新共同訳新約聖書311ページです。

9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

「共に福音にあずかる」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

皆さんは、人とコミュニケーションをとることに、悩んだことがあるでしょうか。

伝えたいことがあるんだけどうまく話せない、話しているのにうまく伝わらない、そんな経験がないでしょうか。

私は、日々、そのことに悩んでいます。

特に、私は、こうやって、みんなのまで話すのが一番苦手です。

まず、すごく緊張しますし、それに、なんかこう間違ったことを言っちゃいけないような、この雰囲気が、一番苦手で、いっつも、悩んでいます。

それから、会議の時の話しも苦手です。

今日も、礼拝の後で、総会がありますけれども、そういう場所では、とっても緊張してしまって、思うように話せなくなってしまいます。

言いたいことがあるのに、何も言えずに終わってしまうってことも、たくさんあります。

じゃあ、リラックスして話せる時は、うまく話せるかというと、そうでもありません。

そういう時はそういう時で、ついつい言わなくても良いことまで言ってしまうことがあります。

誰かが失敗した時に、「だから言ったのに…」って言ってしまったり、一生懸命頑張っている人に対して「何でそんなこともできないの…」って言って、傷つけてしまったり。

そんな時は、何であんなこといっちゃたんだろうって、とても後悔します。

そんなふうに、言葉っていうのは、とても難しい。

伝え方一つで、相手を傷つけたり、嫌な気持ちにさせてしまうことがあります。

きっと、皆さんも、思うように伝えられず、後悔したこと、こんなはずじゃなかったのにって思ったこと、あるんじゃないでしょうか。

実は、今日の主役であるパウロさんも、伝え方に失敗したことがありました。

パウロさんと言えば、イエス様のことを、たくさんの人たちに伝えて、たくさんの教会をつくっていった人ですけれども、そんなパウロさんも、伝えることに失敗した経験があるんです。

どんなふうに失敗したか。

失敗した原因の一つは、パウロさんの生い立ちにありました。

そもそもパウロさんは、幼い頃からエリートとして育ちました。

身分の高い家に生まれて、勉強もよくできたし、成績も優秀だった。

そんなパウロさんは、イエス様を伝える時も、どこか持っている知識とか、身分とかを使って、力づくで教えようとした。

たとえるならば、東大出身の人がですね「私は東大出身で、成績も優秀。

だから、私の言うことは真実です。

皆さんの知らないことを教えてあげましょう!」って、極端にいうと、そんなふうに、伝えていったわけです。

そしたら、どうなるでしょうか。

東大のことを知っている人たちは、すごいねって聞いてくれるかもしれない。

でも、そんなこと、全然知らない人たちは、どうでしょうか。聞いてくれないよね。

実際、パウロさんと同じユダヤ人の中には、パウロさんの言葉を聞いて、イエス様を信じる人たちもいました。

でも、そんなこと全然知らない外国の人たちには、通用しなかったんです。

話しても、全然伝わらない。聞いても、もらえない。

それでパウロさん、自信を失いました。

伝えることが怖いって思うほど、自信を失ってしまった。

もはや、力強く語ることができなくなってしまった。

でも、実はこれが、良かったんです。

パウロさんは、一方的に伝えるスタイル、「俺の話を聞け」ってスタイルから、「あなたはどう思う」って、相手と一緒に考えるスタイルに変わっていきました。

自分の考えを押し付けるんじゃなくて、相手の意見にも耳を傾けるようになっていった。

すると、今まで聴いてくれなかった人たちが、足を止めるようになり、伝えられなかった言葉が、伝わるようになっていったんです。

このことから、教えられるのは、自分の考えを押し付けているだけじゃ、伝わらないってことです。

「論破する」なんて言葉、皆さんも、聞いたことがあるかもしれません。

相手を、力づくで説き伏せる。

それは、語っている方からすると、気持ちの良いことかもしれませんが、しかし、それじゃあ何にも伝わらないってことです。

相手の意見も聞きながら、一緒に考えていく。一緒に聴いていく。

そうやって、心を合わせていくことが大事なんだ。

今日は、そのことを、心に覚えたいと思います。

お祈りします。

・伝える

今日のテーマは、「伝える」というこというです。

これは、クリスチャンかどうかに関わらず、全ての人に関わる、普遍的なテーマだと思います。

私たちは、関係の中で生きています。

家族、友人、学校、会社、地域、そういうつながりの中で生きています。

そうである以上、コミュニケーションは、避けて通れません。

どうしたら、自分の想いや考えを、相手に伝えることができるか。

これは、私たちが生きていくために、避けては通れないテーマだと思いますが、とりわけ、教会にとっては、欠かすことのできないなテーマです。

なぜなら教会は、福音を「伝える」ということを使命としているからです。

2000年以上もの長い間、教会は、絶えず、福音を伝えてきました。

伝えるということに、チャレンジし続けてきました。

もちろん、大分教会もそうです。

大分教会のミッションステートメントの中にも、「宣べ伝えます」という項目があります。

そこには、こう宣言されています。

宣べ伝えます:主の福音を聞いて私たちに喜びと平安が与えられたように、私たちもこの救いの知らせをすべての人に伝えます。

「すべての人に伝えます」って、すごい宣言だなと思いますけれども、それだけ「伝える」ということを大事にしているということです。

そんなふうに、特に教会にとって、「伝える」というテーマは、欠かすことのできない中心的なテーマです。

今日は、その大事なテーマについて、パウロを通して、考えてみたいと思います。

パウロといえば、キリスト教の歴史の中でも、最も偉大な福音宣教者の一人だと思いますが、一体どうやって福音を伝えていったのか。

伝える上で、パウロは、何を大事にしていたのか。

そのことを、ご一緒に、聞いていきたいと思います。

・なぜ伝える?

最初に、短く、動機の部分から、話したいと思います。

パウロがなぜ、福音を伝える者になっていったのか。

それは、パウロ自身が、福音によって救われるという経験をしたからです。

ご存知のように、もともとパウロは、イエス様を信じる人たちを迫害する側の人間でした。

使徒言行録の9章に、パウロの回心の場面が記されていますが、そこにもパウロが、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいた」と書いてあります。

そんなパウロでしたが、イエス様と出会って、180度人生を変えられていきました。

迫害者だったパウロが、イエス様の福音を伝える者になっていった。

それだけ、イエス様との出会い、そしてそこで示されていった福音は、パウロにとって、大きなものだったわけです。

イエス様の福音には、人を救う力がある。人を解放する力がある。人を生かす力がある。

そう確信して、パウロは、福音を伝えていきました。

今日の箇所にも書かれていますが、一人でも救われて欲しい、福音によって解放されてほしい、そう思いながら、パウロは、福音を伝えていきました。

・失敗

しかし、先ほども言ったように、パウロは、失敗してしまうわけです。

どこで失敗したかと言いますと、それは、第二回伝道旅行の終わり頃、アテネでの宣教においてでした。

パウロは、そこでも大胆に、イエス様のことを伝えたわけですが、結果は散々だったようで、失意のうちに彼は、その場を立ち去っていきました。

そして、やってきたのが、コリントだったわけです。

コリントに来た頃の状況について、パウロは、「衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安だった」と書いています。

あのパウロも、語ることが怖いと、そう思うことがあったんだということに、驚きますけれども、それぐらい大きな挫折を経験したわけです。

・挫折からの転換

でも、この挫折が、パウロを変えていきました。

それまでパウロは、幼い頃から培ってきた学識や教養、時には自分の出自すらも駆使して、説得しようと努めてきました。

この説得するとか、教える、上意下達的なやり方は、パウロ自身が受けてきた仕方だったのだと思います。

家父長制の中で、親が子を教える、親の言うことに子が従う。

それは、伝統的なユダヤのあり方だったのだと思います。

旧約聖書の伝統においても、預言者は、一方的に語ることが多いです。

相手が聞こうが聞くまいが構わないということさえある。

パウロ自身、そういう伝統の中で育ってきたので、教えるとか、説得するという姿勢は、ごく自然なことだったのだと思います。

でも、その方法が通用しないわけです。説得どころか、真剣に聞いてすらもらえない。

ある者は嘲笑い、ある者は無関心に、通り過ぎていきました。

パウロは自信を失いました。言葉の力も、失いました。

でも、この力を失うということが、大事だったんです。

それまでは、力によって、説得しようと努めてきたパウロですが、共感・共有のあり方へと変えられていきました。

一方的に語るのではなく、出会う人々の声を聞き、学んでいくようになりました。

一方的に変更を迫るのではなく、パウロ自身が、出会いの中で、変えられていきました。

それが、まさに今日の箇所で言われている、「奴隷になる」ということだったのだと思います。

続く箇所でパウロは、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになった」と書いています。

「律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになった。」

「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになった。」

「弱い人に対しては、弱い人のようになった。」

「すべての人に対してすべてのものになった。」

なんだか変わり身の術みたいに、まるでパウロが、相手に合わせて、キャラクターを変えっていったかのような、そんな書き方ですが、でも、パウロは、そんな器用な人間じゃなかったと思います。

パウロが意図的に変わっていったというよりも、むしろ、出会いの中で変えられていったということだと思うのです。

語ることに怖さを覚え、力強く語れなくなったパウロは、そうなることを通して、人の言葉に耳を傾けるようになっていった。

一方通行ではなく、双方向のやり取りが始まっていった。

そうやってやり取りをしていくうちに、自然と壁が取り払われ、心が通うようになっていった。

それが、「すべての人に対してすべてのものになった」ということだったんだろうと思うのです。

この転換が、パウロの宣教を、前進させていった要因だったのではないか。

福音を知っている者が、知らない者に対して、上から下へ、教えてあげるではなくて、一緒に考え、一緒に探し、一緒に見つけるようになっていった。

まさに「福音に共にあずかる」者へと、変えられていった。

これが、パウロの宣教を大きく前進させていったのです。

・出会いの中で変えられる

振り返ってみると、似たようなことが、私にもありました。

私自身、様々な出会いの中で、自分の考えや伝え方が問われたり、変えられるという経験をしてきました。

たとえば、子どもたちとの出会いもそうです。

子どもたちと一緒に礼拝することを通して、言葉が変えられたり、伝え方が変えられてきました。

子どもたちを通して、み言葉に開かれるということもありました。

最近でいうと、外国人の方々との出会いもそうです。

言葉が違う、持っている文化が違う、そういう方々に、どうしたらメッセージが伝えられるか。

問われていく中で、伝え方が変えられるということがありました。

そのように、一方的に語っても伝わらない、届かない。

どうやったら伝わるだろうか。

その試行錯誤の中で、自分自身が変えられるという経験を、時々に、与えられてきたように思います。

パウロは、その営みの大切さを、今日、私たちに、語っているのではないでしょうか。

・共に福音にあずかる

一方的に福音を伝えるというのではなく、一緒に考え、一緒に探し、一緒に見つけていく。

相手に伝えるだけでなく、自分も、共に、福音にあずかる者となっていくんだと、そうパウロは、語っています。

もちろん、パウロは福音を知っている者でした。

すでに、福音にあずかっている者でした。

でも、出会う人々と、双方向のやり取りをする中で、時に、相手の言葉によって教えられたり、救われたりする瞬間があったのだと思います。

伝える側、伝えられる側の壁が、いつの間にか取り払われ、共感・共有の喜びへと導かれていったのです。

これも、なんかすごいよくわかるなと思います。

私自身、こうして、毎週メッセージさせていただいていますが、時々、応答をいただくことがありまして、

今日のメッセージは面白かったとか、わかったとか、そういう言葉で、こちらが慰められたり、励まされたりすることが、多々あります。

毎週水曜日の祈祷会に、伊東さんがきてくださるんですが、伊東さんに「わかる」って言われると、とっても嬉しくなります。

もちろん、伊東さんだけじゃないですけれども、そうやって一緒に感動したり、共有したりできた瞬間が、私にとっては、一番嬉しい瞬間で、元気が湧いてきます。

そういう、共感共有の営みへと、今日、パウロは、私たちを、招いているのではないでしょうか。

一方的に伝える、「押し付け」的伝え方から、双方向のやり取りを通して生み出される「共感共有」へ。

挫折によって、力を失うことを通して、パウロは開かれていきました。

このことが、パウロの宣教を、大きく前進させていったということを、心に留めたいと思います。

力づくで伝わらない。

伝えたいと思えば思うほど、むしろ、力を抜いて、相手の言葉に耳を傾ける。

そして、一緒に考え、一緒に見つけていく。共にあずかっていく。共感し、共有するということを大事にしていく。

そこに、伝わる喜び、宣教の喜びがあるのだと思います。

この営みを、大切にしていきたいと思います。

お祈りします。

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