2022年11月20日メッセージ「古いわたしを手放して」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書7章18節〜35節。

新共同訳新約聖書115頁〜116頁です。

7:18 ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、

7:19 主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

7:20 二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」

7:21 そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。

7:22 それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

7:23 わたしにつまずかない人は幸いである。」

7:24 ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。

7:25 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。

7:26 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。

7:27 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。

7:28 言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

7:29 民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。

7:30 しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。

7:31 「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。

7:32 広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/泣いてくれな かった。』

7:33 洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、

7:34 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。 7:35 しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

「古いわたしを手放して」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日の箇所には、ヨハネさんって人が出てきます。

聖書の中では、とても有名な人物で、

イエス様は、このヨハネさんのことを、めちゃくちゃ褒めています。

28節「女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。」って、言われています。

それだけ、このヨハネさん、すごい人なんですが、・・・一体何をした人だったか。

それは、今日の箇所にも書かれているんだけど、簡単に言えば、準備をする人。

救い主を迎え入れるための、準備をする。

それが、ヨハネさんに与えられた使命でした。

みんなのお父さんやお母さんも、家にお客さんが来るってなったら、準備をするでしょ。

片付けたら、掃除機かけたり。

同じようにヨハネさんも、救い主を迎える準備をするために、立てられた人でした。

どんなふうに準備をしたか。

救い主を迎える準備ですから、掃除機かけたり、片付けをしたというのではありません。

何をしたかというと、みんなに、呼びかけたんです。

「もうすぐ、救い主がやってくるぞ。

そして、全ての人は、良い者と、悪い者に、分けられる。

良い者は救われるけど、悪い者は滅ぼされる。

だから、罪を犯さないようにしなさい。

神様の前に正しくいきなさい。」

そうやって、人々に呼びかけて、

そして、悔い改めのしるしとして、バプテスマを授けていました。

だから、みんなから、バプテスマのヨハネって、呼ばれていたんですが、

ヨハネさんは、そのことを、神様から与えられた使命だと思って、一生懸命やっていました。

ただ、残念ながら、このヨハネさん、

いつ、救い主がやってくるかは、知らされていませんでした。

だから、ヨハネさんは、ひたすら待っていました。

「救い主がくるぞ!」って言いながらも、いつくるかいつくるかって、待っていたんです。

「この人かな・・・違う。あの人かな・・・違う。」

きっと、そんなことを繰り返していたんだと思います。

そしてある時、弟子から、イエス様のことを聞くわけです。

「最近、イエスっていう人が、すごい評判で、

病気を治したり、足の不自由な人を歩けるようにしたり、この間なんか死者を生き返らせたっていうんですよ。

きっと、この人が、救い主ですよ。」

ヨハネさん、聞かされるわけです。

でも、ここで、ヨハネさんは、迷います。

「イエスが、本当に救い主なんだろうか。

待ちに待った方なんだろうか。」

それで、弟子たちに、聞いてこいって言うんです。

「本当にあなたは、来るべき方ですか。

私が待ちに待った、救い主でしょうか。」

なぜ、ヨハネさんは、迷ったんでしょう。

イエス様こそ、救い主だって、なぜすぐに、信じなかったんでしょう。

それは、イエス様が、ヨハネさんの思っていた救い主じゃなかったからです。

さっきも言った通り、ヨハネさんが思っていた救い主は、良い者と悪者を分ける人。

そして、良い者を救い、悪者を滅ぼす。

そういう厳しい救い主だと、思っていた。

でも、イエス様は、そうじゃなかったんです。

イエス様は、困っている人、弱っている人、助けを求めている人たちのところへ行って、

病気を治したり、食べ物を分けたり、励ましたりしていました。

ヨハネさん、思ったと思います。

「思っていたのと、全然違う。」

でもヨハネさんは、切り捨てませんでした。

思っていたのと違うけど、でも・・・って、考えたんです。

私は、ここがとても大事だなって、思うんです。

人間は、一度こうだと思い込んだら、なかなか抜け出せなくなることがある。

絶対こうだ。

自分は絶対正しい。

そう思い込むと、抜け出せなくなることがある。

ヨハネさんもそう。

救い主っていうのは、こういうお方だ。

良い者と悪者を分けるお方だ!そう思っていたし、そうやって、人々に教えていました。

でも、ヨハネさんは、その考えを、横に置いて、イエス様を見つめたんです。

自分が待っていた救い主とは違うけど、でも・・・って考えたんです。

もし、ヨハネさんが、「自分の考えは絶対だ!絶対正しい!」って、曲げなかったら、

イエス様を救い主を受け入れることは、なかったと思います。

悩むこともなかったでしょう。

自分の意見は絶対だと思い込むと、大事な言葉も、受け入れられなくなる。

たとえ救い主が来たとしても、気づけない。

受け入れられない人になってしまうんだって、聖書は教えています。

大事なものを受け止められる人に、なりましょう。

そのためには、「自分の考えは絶対!」「自分は正しい!」って、思い込みを捨てること。

そして、自分と違う意見の人の声に、耳を傾けること。

この二つのことを、大事にしましょう。

お祈りします。

11月も第3週になりました。

来週から、いよいよアドベントが始まります。

アドベントというのは、イエス様の降誕、つまりクリスマスを待ち望む期間のことです。

すでに街では、きれいなイルミネーションが飾られ、クリスマスを待ち望む雰囲気が漂っていますが、

今日は、私たちも、この礼拝の後、クリスマスの飾り付けを行います。

そうやって、私たちは、クリスマスを迎えるための準備をするわけですが、

今日の箇所のテーマは、その「迎える」あるいは「受け入れる」ということであろうと思います。

イエス様をお迎えする、イエス様を信じて受け入れる。

そのために、私たちに必要なことはなんでしょうか。

そのことを考えます時に、思い浮かんだ聖書の言葉があります。

ルカによる福音書5章38節の言葉です。

そこには、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」と記されています。

これは、イエス様を受け入れるための条件といいますか、秘訣のようなものだと思います。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」

もし、発酵途中の新しいぶどう酒を、古い革袋に入れたら、古い皮袋は破けて、ぶどう酒はこぼれてしまいます。

同じように、イエス様も、新たな想いで迎え入れなければ、受け止められないということです。

今日は、説教題を、「古いわたしを手放して」としましたが、

古いわたしのままで、

これまでの自分の考えや価値観のままで、イエス様を受け入れることは、できないということです。

そのことが、今日の箇所によって、私たちに語られていることではないかと思わされています。

ご一緒に、今日の聖書の箇所を読んでいきましょう。

今日の箇所は、バプテスマのヨハネと、イエス様とのやりとりから始まります。

バプテスマのヨハネは、イエス様に、二人の使いを送りました。

そして「来るべき方は、あなたでしょうか。」と尋ねさせました。

子どもメッセージで言いました通り、彼は、誰よりも救い主を待っていました。

救い主を迎える準備をすること、それが、彼の使命だったからです。

つまり、救い主が来るまで、彼の使命は続くわけです。

救い主の到来は、彼の使命の終わり。

その日を目指して、彼は、生きてきたわけです。

そして、とうとう、時が満ちて、その日がやってきたわけですが、

しかし、そのことにヨハネは、気づいていませんでした。

彼は、いつ救い主が来るのか。

誰が救い主なのか。

ずっとそのことを考えながら、生きてきました。

「あの人か、いや違う。この人か、いや違う。」

そうやって、救い主を探し求めてきたわけです。

そして、ある時、弟子たちから、イエス様の知らせを聞くわけです。

でも彼は、それを聞いて、迷ってしまいます。

「イエスが、本当に、来るべき方なのか。待ちに待った救い主なのか。」

ヨハネは決めかねていました。

それは、イエス様が、想像していた救い主と、違ったからです。

ヨハネが想像していたのは、どんな救い主だったか。

それは、良い木は残し、悪い木は切り倒す、そんな厳しい裁き主でした。

ヨハネは、人々に、こう呼びかけていました。

「マムシの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。

悔い改めにふさわしい実を結べ。

斧は既に木の根元に置かれている。

良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

ヨハネにとって、救い主の到来というのは、裁きの到来だったんです。

良い実を結ばない木は切り倒され、火に投げ込まれる。

そうなりたくなければ、悔い改めにふさわしい実を結べ。

そう彼は、教えてきたのです。

でも、イエス様は、そんな方ではありませんでした。

人を裁いたり、罰したりするのではなく、病気を癒し、困っている人を助け、貧しい人たちに、福音を告げ知らせていました。

この違いに、ヨハネは、迷っていたのです。

「イエスは違う。

私が待ち望んできた救い主ではない。」

そう言って、通り過ぎることもできたけれども、彼は、留まったわけです。

違うと言って切り捨てず、イエス様が救い主なのかどうか、その問いの中に、留まりました。

そんなヨハネのことを、イエス様は称賛しています。

「彼は、預言者、いや預言者以上のものである。

およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。」

そして、確かに彼が、神様から遣わされた、準備をする者。

救い主を迎える準備をするために遣わされた者だと、イエス様は、人々に語っています。

ですから、彼が、人々に教え、導いてきたことは、決して間違いではなかったということです。

彼は、神様から与えられたその使命を、忠実に果たしてきた。

彼の言葉を受け入れるかどうかが、救い主を受け入れるかどうかの、分岐点と言いますか、試金石になったことは確かだということです。

多くの人々が、このバプテスマのヨハネの教えを聞いて、受け入れ、バプテスマを受けました。

「徴税人さえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた」と語られています。

しかし、その一方で、はっきり拒んだ人たちもいました。

それは、ファリサイ派や律法の専門家たちでした。

彼らは、ヨハネの知らせも受け入れませんでしたし、イエス様も受け入れませんでした。

それは、ヨハネもイエス様も、彼らの考えの枠に収まらなかったからです。

ヨハネもイエス様も、彼らの考えの枠をはみ出していた。

そのはみ出した部分を、彼らは、受け入れようとはしなかったのです。

なぜか。それは、彼らが、自分たちの正しさを、手放さなかったからです。

彼らは、聖書の専門家として、人一倍、神様のことを知っていると思っていました。

そして、そんな自分たちのことを、正しいと思っていました。

「自分たちの知恵や知識は正しい。

そんな自分たちの枠に収まらない、ヨハネやイエスは、間違っている。」

そう言って彼らは、ヨハネも、イエス様も、拒んだわけです。

自分たちの正しさを守るために、彼らを受け入れなかったのです。

ここに、ヨハネとは違う、彼らの弱さがあるように思います。

「イエス様の教え、イエス様の生き様を受け入れることは、これまでの自分を否定することだ。

病気の人に触れたり、罪人と一緒に食事をしたり、異邦人と関わりを持ったり、そんなこと、認めてはいけない。

認めたら、自分たちが間違っていたことになってしまう。

だから、認められない。」

そうやって、彼らは、自分たちの正しさの中に、留まったのです。

確かに、イエス様が語った言葉や、その行動は、新しいものでした。

人々のもつ常識や、価値観の枠に収まらない。

彼らに、変革を迫る。新しくなることを迫るものです。

それは、当時の人々だけじゃありません。

私たちにとってもそうです。

今の時代の私たちにとっても、イエス様の言葉や生き様は、新鮮なものです。

私たちの持つ価値観や常識を揺るがす。

私たちに、新しくなることを迫るものです。

今、私たちは、祈祷会で、旧約聖書の歴史書をずっと読んでいまして、

ちょうど今度の祈祷会が、サムエル記上の最後で、サムエル記下に入っていくところなんですが、

先日、読んだ箇所には、ダビデが、アンモン人との戦いに勝利し、たくさんの戦利品を持ち帰ったということが書かれていました。

そして、彼は、その戦利品を分かち合うんですが、

その時に、仲間たちから、「この戦利品は、戦った者たちで分け合うべきだ。疲れて、戦いに行けなかった者たちには、分けなくていい。」

この人たちに対してダビデは、こう言いました。

「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。

この戦利品は、主が与えてくださったものだ。

だから、戦った者も、そうでない者も、取り分は同じでなければならない。

皆、同じように分け合うのだ。」

そう言ったと、記されていました。

実は、これとよく似たことを、イエス様も言っていまして、

「ぶどう園労働者のたとえ」という話の中で、イエス様も、

朝早くから仕事をした者にも、作業の終わりに来た者にも、同じ給料を支払う。

そんな主人の話をしています。

祈祷会の参加者に、これをどう思うかと聞きました。

仕事をした者、していない者、

命懸けで戦った者、戦わなかった者、

この両者が、同じ分、給料をもらうって、どう思う?納得できるって聞きました?

結果、納得できないと答えたのは、私だけでした。

むしろ、教会に来て間もない若者に「納得できる」と言われて、私はとても驚いてしまいましたけれども、

でも、間違いなく、このイエス様の言葉、イエス様の教えは、この世の論理とは違う。

働いた者も、働いていない者も(正確には、働けなかった者と言った方が良いと思うが)同じ給料をもらうというのは、私たちの常識を揺さぶるものです。

「働かざる者食うべからず」

そういう、この社会が持っている常識や価値観と相反するものです。

このように、イエス様の教えや生き様は、今の時代を生きる私たちにとっても、新鮮に響くものです。

それを受け入れるためには、これまで持っていた価値観、常識というものを、手放さなければならない。

これまでの私、古い私を手放すことを、求められるのです。

でも、それは、私たちにとって、簡単なことではありません。

大事なものを持っていればいるほど、

人生経験が多ければ多いほど、手放すことは難しいと、言えるかもしれません。

先日来、大分教会では、「これからの大分教会を考える会」というのを続けて行っております。

その中で、「若者に来たいと思ってもらえる教会になりたい」という意見が出されました。

その要因は、様々あるんですが、ある方は「若者の意見が聞きたい」と言われました。

若者は、今の時代をどう見ているのか。

どんなことを考えているのか、ぜひ、聞きたい。

声を聞くことは、できるでしょう。

でも問われているのは、その声を、どれだけ受け入れることができるかということだと思います。

若者だけじゃありません。

異なる考えに対して、私たちが、どれだけ柔軟に、寛容にいられるか。

全てを受け入れられなくてもいい。

とりあえずやってみる。

自分と違うと言って、拒絶するのではなく、ヨハネのように、考えてみる。

信じてみる。

その姿勢が、大事なのではないかと思います。

イエス様は、言っています。

「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

「私の言っていることが正しいかどうかは、それに従っている人を見ればわかる。」ということでしょう。

「従ってみなさい。そうすればわかるから。」と、そう言われているようにも思います。

自分の考えと違っても、切り捨てずに、従ってみる。

自分の正しさ、これまでの自分を守ろうとするよりも、手放して、新しいわたしを求めていく。

「大丈夫、きっとわかるから。」

変わること、手放すことを恐れず、イエス様を信頼していきましょう。

異なる者との出会いを恐れず、出会っていきましょう。

そういう生き方が、私たちを、新しいものへと、変えていくのです。

そして、そうやって生きていく時に、私たちは、福音を受け入れる器として、整えられていくのです。

お祈りします。

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