聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書11章37節〜54節。
新共同訳新約聖書130ページです。
11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。
11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。
11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。
11:40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
11:41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているから だ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
11:43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。
11:44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」
11:45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。
11:46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。
11:47 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。
11:48 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。
11:49 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
11:50 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。
11:51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。
11:52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、 11:54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。
「原因はどこに?」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の聖書のお話は、イエス様が、食事に招かれた時のお話です。
招いたのは、ファリサイ派の人だったって書いています。
ファリサイ派って、どんな人たちだったか、知っていますか。
ファリサイ派って呼ばれた人たちは、人一倍、神様の教えを一生懸命守る人でした。
神様の教え、律法って言ったりしますが、神様が定められた律法を、一生懸命守る人でした。
それは、とても素晴らしいことです。
神様の教えを守ろうとすることは、とっても良いことです。
でも、イエス様は、そんなファリサイ派の人たちに対して、とても厳しいことを言っています。
「愚かな者たち」っていったり、「あなたたちは不幸だ」って言ったりしています。
何でそんなことを言ったんでしょうか。
それは、彼らが、大きな間違いをしていたからです。
どんな間違いか。
それは、汚れが、自分の外にあるって思っていたことです。
イエス様の時代、人々は、神様の教えを守らないと、汚れるって思っていました。
汚れる、汚くなってしまう、醜くなってしまう、そして、神様に受け入れてもらえなくなってしまうって考えていました。
だから、そうならないように、一生懸命律法を守っていたんです。
ファリサイ派の人たちなんかは、まさにそうでした。
汚れないように、汚れないようにって、人一倍、汚れを意識しながら、生活していた人たちでした。
その結果、どうなってしまったかというと、律法を守るだけじゃない。
罪を犯してしまった人や病気の人、当時、汚れているって考えられていた人たちとの関わりを、避けるようになっていきました。
「あいつらと関わると、自分たちまで汚れてしまう。」
そう言って、関わるのを避けるようになっていったんです。
自分たちの綺麗さ、清さを守るために、罪人や病人、困っている人たち、助けを求めている人たちを、遠ざけていたんです。
そんな、ファリサイ派の人たちに対して、イエス様はいうんです。
「あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」
問題は、あなたたちの内側にあるんだってことです。
目を向けなきゃいけないのは、あなたたちの内側だ。
罪人との関わりを避けたり、病人を遠ざけたりして、清い自分を守ってるって思っているかもしれない。
でも、それは大きな間違いだ。
問題は、あなた方の外側にあるんじゃない。内側にあるんだ。
今、教会では、教会の建物と牧師館の修理をしています。
先日は、壁や屋根の汚れを落とす作業をしていました。
それが終わったら、ペンキを塗ったりするそうです。
終わった頃には、とっても綺麗になっていると思います。
そうやって、外側は、綺麗にすることができます。
洗ったり、ペンキを塗ったりして、綺麗にすることができる。
でも、一番大事なのは、見えないところにあります。
建物を支える基礎、土台になるところ、そこが揺らいだら、どんなに建物が綺麗でも、使うことはできません。
今回の修理をするときも、まず、その見えないところは大丈夫か、調査してから、始めました。
そんなふうに、見えるところよりも、見えないところの方が、大事なんだということです。
建物で言うと、土台部分。
人間で言うと、心の部分です。
私たちは、ついつい、何を着るかとか、どんな髪型にするかとか、外見のことばかり気を使ってしまいますが、心の状態に、気を配っているでしょうか。
どんなに、外側を綺麗に着飾っても、内側が汚ければ、汚れているんだと、イエス様はいうんです。
どうでしょうか。私たちの心は、綺麗でしょうか。
改めて自分の中に目を向けると、汚い自分が見えてこないでしょうか。
卑怯な私だったり、いじわるな私、冷たい私、偉そうな私が見えてこないでしょうか。
そういう私を消すことは、なかなかできることじゃありません。
壁の汚れを消すみたいには、簡単には綺麗にできません。
でも、大丈夫。
そんな私たちを受け止めるために、イエス様がきてくださったんです。
イエス様は、私たちの醜い部分も含めて、受け止めてくださっていません。
どんなに私たちが醜いものであっても、決して手放すことはありません。
このことを、ぜひ、覚えておいてほしい。
自分の汚いところをダメだとか、一生懸命消そうとするよりも、そんな自分を受け止めてくれているイエス様のことを、心に覚えてほしい。
そして、安心して、感謝して、生きていってほしいと思います。
そうやって生きていく時に、私たちの心は、穏やかに、人にも優しく生きられるのではないでしょうか。
清く正しく美しく、そうやって生きようとするよりも、汚い自分も受け入れられている。
安心して、感謝して、生きていきたいと思います。
お祈りします。