2023年1月22日メッセージ「百倍の実りを信じて」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書8章4節〜15節。

新共同訳新約聖書118ページです。

8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。

8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。

8:6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。

8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。

8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。

8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/ 聞いても理解できない』/ようになるためである。」

8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。

8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。

8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。

8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。 8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

「百倍の実りを信じて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

イエス様は、時々、たとえを用いて話されました。

今日は、そのうちの一つ、「種まきのたとえ話」を読んでいきたいと思います。

話は、ある人が、種まきに出かけたというところから始まります。

みんなは、種をまいたことがあるでしょうか。

種をまくって聞いて、私は、この絵を思い出しました。

これは、ミレーっていう人が描いた「種をまく人」っていう絵です。

まさに種をまいてますね。

多分、この肩から下げている袋の中に、種がいっぱい入っていて、そこから、種をとって、まいているんだと思います。

イエス様の時代も、こんなふうに、種をまいていたんでしょうか。

こんなふうに大胆に種をまいていたら、そりゃ色んなところに種は飛んでいったでしょう。

イエス様は言います。

ある種は、道端に落ちた。

残念ながら、人に踏まれて、鳥に食べられてしまった。

またある種は、岩の上に落ちた。

芽は出たけど、水気がないので、すぐに枯れてしまった。

ある種は、茨の中に落ちた。

芽が出て成長したけど、茨が邪魔で、結局、実を結ぶことができなかった。

他の種は、良い土地に落ちた。

そして、どんどん成長し、やがて、百倍の実を結んだ。

最近は、こんなのもあるそうですね。

これ、歩道橋の脇だそうですけれども、すごいですね。

よく育ったなと思います。

「ど根性大根」って言われているそうです。

まあ、でも、普通は、こんなところに種が落ちても、実を結ぶことはありません。

そんなふうに、どんなに種をまいても、落ちた場所が悪かったら、実を結ぶことはできない。

逆に、良い土地に落ちたら、百倍もの実を結ぶことができる。

イエス様は、そんな話をされたんです。

問題は、この話を通して、何を伝えたかったかってことですけれども、イエス様、答えを教えてくれています。

イエス様の話によると、種は神の言葉、種が落ちた場所は、聞く人を意味するそうです。

つまり、イエス様がどんなに神の言葉を語っても、それを受け取る人次第で、実を結んだり、結べなかったりするってことです。

良かったーって思うのは、イエス様が、良い土地のことを語ってくれていることです。

つまり、全ての人は、良い土地のように、百倍の実りを結ぶ可能性を持っているということです。

じゃあ、どうやったら、良い土地になれるのか。

良い土地になるために、二つのことが書いてあります。

一つは、イエス様の言葉を、持ち続けること。

私なんか、すぐに忘れてしまいますが、それじゃ、実を結ぶことはできない。

イエス様のメッセージを、忘れず、覚え続けるということ。これが一つ。

もう一つは、待つということです。

実っていうのは、簡単には実りません。

それと同じように、神様の言葉も、簡単にはわからないことがあります。

意味はわかっても、自分と何の関係があるんだろうって思うことがあると思います。

今わからなくても、わかる時が来る。

そして、自分の助けになる時が来る。

その時を、待つということです。

これが、良い土地になるための条件です。

御言葉を忘れないこと、そして、待つこと。

そんな人に、イエス様は、百倍の実りが与えられるって、約束しています。

百倍の実り、一体なんでしょうか。

きっと、想像を超えるほどの良いことなんだろうと思います。

その実りを信じて、神様の言葉を忘れず、待つことができる人に、なっていきましょう。

お祈りします。

・群衆にたとえで語るイエス様

今、話しました、種まきのたとえ話を、イエス様は、大勢の群衆たちに向かって話されました。

群衆ですから、そこには、色んな人たちがいたでしょう。

イエス様を信じて、救いを求めて集まっていた人たちもいたでしょうし、噂を聞いて、興味本位で来た人たちもいたでしょう。

中には、ファリサイ派の人たちのように、イエス様のことを、危険視していた人たちもいたかもしれません。

スパイのようにですね、イエス様の動向を監視していた、なんて人もいたかもしれない。

そういうふうに、動機も、思惑も違う、様々な人たちに向かって、イエス様は、この話をされたのです。

彼らにとって、種まきのたとえ話は、大変身近な話だったでしょう。

もしかしたら、すぐ近く、見えるところで、実際に種をまいている人がいたかもしれない。

「あそこに種をまいている人がいるだろう。

あの人みたいにね、ある人が、種をまきに出かけて行ったんだ。」と、そんなふうに話していたかもしれません。

きっと、集まっている人たちの足元にも、種が落ちていたことでしょう。

それほど、身近な話だった。

でも、この話だけでは、何を言いたいのか、さっぱりわかりません。

「種をまいた結果、色んなところに種が落ちた。

道端、石地、茨。

どれも、実を結ぶことはできなかった。

でも、良い土地に落ちた種は、百倍の実を結んだ。」

「だから何?何が言いたいの?何のことを言ってるの?」

意味がわからず、早々に立ち去って行った人もいたんじゃないでしょうか。

たとえ話というのは、一般的に、話をわかりやすくするために、用いられるものですが、

イエス様の場合、肝心な“何を伝えたいのか”が、わからない。

というか言ってない話が、時々、あるように思います。

今日の話もそうです。

種まきの話はわかっても、それを通して、何が言いたいのかは、明らかじゃありません。

種が勿体無いから、良い土地にだけ種をまきなさいって、言いたいのか。

失敗することもあるけど、成功したら、すごい実りがあるよって、言いたいのか。

答えがわからない。

10節でイエス様が言われる通り、まさに、聞いても理解できない、そんな状況が広がっていたのだと思います。

たとえ話を終えた後、イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。

きっと、話を聞いて、多くの人たちが、イエス様のもとを去っていったのでしょう。

「せっかく、良い話が聞けると思ってやってきたのに、何が言いたいのか、さっぱりわからない。」

「みんなが言うから来てみたけど、大した人じゃないようだ。」

「話なんかよりも、奇跡を見せて欲しかったのに・・・。」

そうやって、大勢の人たちが、イエス様のもとを去って行った。

その人たちの背中を見ながら、イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたのではないでしょうか。

・聞いて、どうするか

彼らは、とても惜しいことをしました。

我慢して、もう少し留まっていたら、話の意味を知ることができたのに。

残念ながら、彼らは、その意味を知らずに、立ち去ってしまいました。

そんな人たちを尻目に、弟子たちはイエス様に、話の意味を聞きました。

この弟子たちのファインプレーによって、イエス様のもとに留まった人たちは、その意味を知ることができました。

11節から、たとえ話の意味が、語られていきますが、

その話によると、種は神の言葉、種が落ちた場所は聞き手のことだと言われています。

道端に落ちたり、石地に落ちたり、茨に落ちたり、

その状況は、まさに、さっきまで、そこにあった状況そのものです。

イエス様は、本当に分け隔てなく、集まってくる全ての人たちに向けて、神の言葉を語られました。

でも、その結果は、人によって、大きく違いました。

つまらないと言って、すぐに立ち去ってしまう人。

イエス様の言葉を、拒む人。

思い悩みながらも、イエス様のそばに、留まる人。

彼らこそ、まさに、道端であり、石地であり、茨であり、良い土地なのです。

種が実るかどうかは、彼ら次第。

彼らが、イエス様の言葉を聞いて、どうするか。

それによって、実りを結ぶかどうかが、決まっていくのだということです。

・結論

結論として、イエス様が言いたいのは、良い聞き手になってほしいということです。

私たちは、良い聞き手になることができます。

皆さんの中には、自分は、道端だ。

どんなにみ言葉を聞いても、すぐに忘れてしまう。

そう思う人がいるかもしれません。

あるいは、自分は、石地だ。

上手くいっている時はいいけど、一度試練が起こると、信じることをやめてしまう。

そんな人もいるかもしれません。

茨のように、富や快楽、世の誘惑に負けてしまうという人もいるかもしれません。

その通りです。

私たちは、道端であり、石地であり、茨です。

でも、そういう私たちに、イエス様は、忍耐を持って、種をまき続けてくださっているのです。

いつか良い土地になる。

そう信じて、種をまき続けてくださっているのです。

だから、良い土地、つまり、良い聞き手になっていきましょう。

良い聞き手とは、神の言葉を聞き、それを保持し、忍耐する人だと言われています。

新共同訳では、「よく守り」と訳されていますが、もとの意味は、「保持する」とか「保つ」ということだそうです。

み言葉を、心に留めておく。

すぐにわからなくても、イエス様の言葉を、心に納めておく。

そして、わかる日が来ることを、忍耐して、待ち望むということです。

そういう人が、やがて、百倍の実を結ぶのだと、言われているのです。

キーワードは、「結論を急がない」ということです。

これは、時代に逆行することかもしれません。

現代人は、スピードが命。

すぐに、結果を出したい。

時間も、お金も、余裕がない中で、解決だったり、結果を急いでいる私たちがいないでしょうか。

私自身、忙しくなればなるほど、落ち着いて人の話を聞けなくなります。

何が言いたいのか。

結論は何なのか。

すぐに答えを求めてしまいます。

でも、それでは、百倍の実りに与ることは、できません。

イエス様の言葉を聞いて、思い巡らす。

簡単に答えが出ないこともあるでしょう。

それでも、心に納めておく。

クリスマスの場面のマリアがそうでした。

彼女は、羊飼いたちの話、あるいは、イエス様の話を聞いても、その意味を理解することはできませんでした。

でも、その言葉を、心に納めて、思い巡らしていたと、書いてあります。

そんなふうに、私たちも、結論を急がず、言葉を心に納められる人でいたいと思います。

以前、先輩の牧師から、「わかりやすい言葉というのは、耳障りは良いけれど、結局心に残らないことが多い。

わかりにくい。

あれは、どういうことなんだろう。

そうやって考えさせられる言葉。

そういう言葉の方が、むしろ、分かった時の実りは大きい」と言われたことがあります。

イエス様が、言われるのも、そういうことなのではないでしょうか。

わからないからと言って、すぐに捨てない。

わからないに留まる。

そして、考え続ける。

その営みが、いつか、百倍の実りを結ぶと、言われているのです。

その言葉を信じて、実言葉を心に留め、答えが与えられる日を待ち望む人に、なっていきましょう。

お祈りします。

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