2023年11月26日礼拝メッセージ「会堂長はなぜ腹を立てたのか」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書13章10節〜17節。

新共同訳新約聖書134ページ〜135ページです。

13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。

13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。

13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、

13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。

13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

「会堂長はなぜ腹を立てたのか」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日の説教題は、「会堂長はなぜ腹を立てたのか」です。「会堂長はなぜ腹を立てたのか。」

会堂長っていうのは、今日の聖書の箇所に出てくる人です。

会堂の中で一番偉い人。

会堂っていうのは、私たちにとってのこの教会のことです。

教会の一番偉い人。誰でしょうか。牧師でしょうか。責任者ということで言うと、そうかもしれません。

そんな偉い人が、怒ったって書いてあるんです。

しかも、何で怒ったの?って不思議に思うような場面なんです。

どんな場面かというと、イエス様が、病気で苦しんでいる人を治してあげたっていう場面です。

女の人だったようですが、彼女は、18年間も、病気で苦しんでいました。

18年ですから、生まれたての赤ちゃんが、小学校も、中学校も、高校も卒業するまで。

それぐらい長い間、ずっと彼女は、病気に苦しんでいました。

きっと、たくさんのお医者さんのところに行ったと思います。

たくさんお祈りもしたと思います。でもダメだった。

もしかしたら、もう諦めていたかもしれません。

もうこの病気は治らない。

死ぬまで、この苦しみを背負っていかなきゃいけないんだって、そんなふうに思っていたかもしれない。

そんな女の人を、イエス様は治したんです。すごいことです。

18年間、何をしてもダメだった病気が治った。

それは、この女の人にとって、どれだけ嬉しいことだったでしょう。

女の人は、神様を賛美したって書いてあります。

本当に神様はいる!神様すごい!神様ありがとう!って、心からそう思った。

そんな感動の場面で、会堂長は、怒ったって書いてあるんです。

せっかく病気の人が治ったのに、なんで、会堂長は、怒ったんでしょうか。

この女の人が嫌いだったんでしょうか?喧嘩でもしていたんでしょうか。なんで怒ったんでしょう。

聖書を読むと、それは、この日が、安息日だったからだって、書いてあります。

安息日って、何の日か知っていますか。

安らかに息をする日って書きます。なんだかとっても、穏やかな日のように思いますが、その通り。

これは、神様が定められた、おやすみのことです。

天地創造の場面で、神様は、6日間働いて、天と地と、そこに生きるものたちをつくられました。

そして、7日目に、ご自分の仕事を終えて、休まれたって書いてあるんです。神様も、休むんですね。

6日間でこの世界をつくった神様は、7日目に休まれた。

そのことを覚えて、休む日。それが安息日です。

その日には、どんな仕事もしてはならないって、定められています。

それなのに、イエス様は、病気を治した。

病気を治すのも仕事なのに、イエス様は、それをした。

だから、会堂長は怒ったんだって、そう書いてあるんです。

皆さんは、これをどう思うでしょうか。

確かに、安息日は、休む日です。どんな仕事もしてはならないって書いてあります。

でも、それは、神様が、私たちをつくってくださったこと。

この世界をつくってくださったことを覚えるためです。

海も空も大地も、そしてそこに生きる人も、動物も、魚も、みんな神様がつくってくださった。

みんな神様がつくってくださった、大切な命なんだって、そのことを心に留める日。それが、安息日です。

会堂長は、仕事をしてはいけないってことで頭がいっぱいで、もっと大事な、命を大切にするってことを忘れてしまっていたんじゃないかって、思います。

だから、病気の人が癒やされたのに、怒ってしまったんだと思います。

このことを通して、改めて覚えておきたいと思います。

この世界、そしてそこに生きる生き物は全て、神様がつくってくださった。

海も空も大地も、そしてそこに生きる人も、動物も、魚も、みんな神様がつくってくださった。

みんな神様がつくってくださった大切な命なんだってことを、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・会堂長はなぜ腹を立てたのか。

「会堂長はなぜ、腹を立てたのか」という問いから考えてきました。

18年もの間、病に苦しむ女性が癒された。そして、神を賛美した。

そんな喜ばしい場面で、なぜ会堂長は、腹を立てたのか。なぜ怒ったのか、ということについて考えてきました。

結論として、二つの答えがありました。

一つは、その日が安息日だったからという答えです。

会堂長は、癒されたことそのものに腹を立てていたのではなかった。

安息日なのに、癒しを行ったということに、腹を立てていた。

安息日には、いかなる仕事もしてはならないと定められている。

それなのに、癒しを行ったということに、腹を立てていたということです。

これが、第一の答えです。

第二の答えは、その奥にありました。

それは、安息日の意義を、見失っていたからだというものです。

会堂長は、安息日の意義を見失っていた。

安息日というのは、単に仕事をしない日ではない。

仕事をしないというのは、大事なことを思い起こすための手段であって、目的ではないんだ。

その大事な意義を見失っていたから、会堂長は、怒ったんだという、これが、第二の答えです。

ここからは、この第二の答えを、掘り下げていきたいと思います。

安息日というのは、単に仕事をしない日ではない。

もっと大事な意義がある。

その大事な意義とは何かということについて、考えてみたいと思います。

・安息日の意義とは

これにも実は、答えが二つありまして、一つは、先ほど言いました、天地創造の恵みを覚えるということです。

神様は、天と地と、そこに生きる生き物たちをつくられた。

私たち一人一人も、神の作品であるということです。

だから、大事にしあおう。

神様によってつくられた一人一人なのだから、互いに大切にしあおう。

働く者も、働かされている者も、皆一度手を止めて、同じ神の作品であることを覚えよう。

そして、互いに大切にしあおうという、これが、安息日の第一の意義です。

これも大事な意義なんですが、今日の箇所では、もう一つ、別の意義があることが、教えられています。

それは何かというと、解放の恵みを覚えるということです。

・イエス様の言葉と解放のテーマ

イエス様は、会堂長に言いました。

15節、16節「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

仕事しちゃいけないっていうけれど、あなたたちだって、安息日に、牛やろばの縄を解いて、水を飲ませにいくでしょ。

この女の人は、18年もの間、病気に縛られてきたんだ。

だから、安息日であったとしても、その束縛から解いてやるべきではないのか。

そうイエス様は言われるわけですが、ここで、注目したい言葉があります。

それは、「解く」という言葉です。

イエス様は、「癒やす」ではなく「解く」という言葉を使われています。

牛やろばを飼い葉桶から解いて水を飲ませに行くように、病の女性も、病という束縛から解いてやるべきではなかった。

「癒やす」ではなく「解く」「解放する」ということを言われる。

ここに深い意味を感じます。

なぜ、イエス様は、こんな言い方をされたのか。なぜ、「解く」という言い方をされたのか。

実は、ここに、二つ目の安息日の意義が、語られているんです。

それが、解放の恵みを覚えるということです。

この意義は、どこからきたのかというと、それは、申命記の十戒の言葉にあります。

十戒、神様が与えられた十の戒めについては、皆さんご存知だと思いますが、聖書には、十戒が二つあるということを、ご存知でしょうか。

出エジプト記20章と、申命記5章にあります。

ほとんど同じなんですが、この安息日の戒めに関しては、一つ、大事なことが追加されているんです。

ちょっと読んでみたいと思います。

招きの言葉でも読んでいただきました、申命記5章12節~15節。

そこには、こう書いてあります。

5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。

5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、

5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。

5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。

ここにはっきりと、安息日の意義が書いてあります。

5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。

これは、出エジプト記の十戒には、実は書かれていない言葉です。

何で書かれていないのかということはわかりませんが、ここからわかるのは、安息日には二つの意義があるということです。

一つは、天地創造の恵みを覚えるということ。

もう一つは、解放の神を覚えるということです。

囚われからの解放は、安息日における重要なテーマだったのです。

だから、イエス様は、「解く」という言い方をしたのだと思います。

安息日というのは、単に仕事をしない日ではない。

天地創造の恵みを覚える日であると同時に、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民が、神の力によって解放されたことを覚える日である。

そのことからすると、18年間、病に縛られていた女性を解放するというのは、安息日にこそ相応しいと、そう思わないかと、イエス様は、問いかけられたということです。

この問いかけに対して、反論するものは、誰もいませんでした。

・安息日の意味を見失った会堂長

このよう考えてみますと、安息日というのは、本当に、恵み深い日なのだなということを思います。

天地創造の恵みと、解放の恵みを覚える日。

神様の恵みを、深く深く心に覚え、今一度、生きる力をいただく日。

様々な囚われから解放されて、新しく生き直す日。

それが、安息日なんだということを、教えられます。

確かに安息日にはいかなる仕事もしてはならないと記されています。

でも、それは、創造と解放の恵みを覚える手段であって、目的ではなかったんです。

会堂長は、「仕事をしてはならない」ということに縛られて、本来の安息日の意義を見失っていたのではないでしょうか。

会堂長として、人一倍、ちゃんとしなきゃいけないというプレッシャーがあったでしょう。

周囲からも、会堂長としてふさわしく生きているか、厳しい目が注がれていたのかもしれません。

そんな中で、いつのまにか、「仕事をしてはいけない」という戒めばかりが、自分を縛り付けるようになっていた。

解放を必要としていたのは、誰よりも、この会堂長自身だったかもしれません。

その結果、本来、恵み豊かなはずの安息日が、戒律ずくめの嫌な日になってしまったのです。

回復と解放をいただいて、安心して息ができるようになる。

まさに安息を得る日だったのに、戒めを守らなきゃいけないというプレッシャーの中、かえって疲れてしまう。

人の苦しみや痛みにも、目を向けられない。

それは、安息日というよりも、窒息日です。

息もできないような、そんな冷たい日になってしまったのです。

目的や意義を見失うということの怖さを感じます。

私たちにも、時に、そんなことがあるんじゃないでしょうか。

このことを思う時に、パッと私の頭に浮かんできたのが、焼肉の食べ放題です。

焼肉の食べ放題に行く目的はなんでしょうか。

大体、大好きな焼肉をお腹いっぱい食べたいと、そんなところだろうと思います。

そういう想いで、楽しみにしながら、お店に行くわけです。

そして、メニュー表を開く。

すると、どういうわけか、頭の中に、元を取らないといけないという声が響いてくるわけです。

本当に貧乏くさいと言いますか、心が狭いなと思うんですが、食べたいものよりも、一番高いものはどれか。

どれをどれだけ食べたら元を取れるか。

そんなことに縛られて、食べ過ぎて、苦しくなったり、気持ちが焦って、せっかくの楽しい食事を楽しめなくなってしまったり、何でこんなことになるんだろうと後悔したことがあります。

ま、これは、ふざけた例ですけれども、

真面目なことを言いますと、例えばこの礼拝。

私たちの礼拝も、そうです。

私たちが、こうして礼拝を献げるのは、何のためでしょうか。

これも、本質は、安息日と同じだと思います。

神の恵み、福音を覚えるため。

そして、賛美と感謝を献げ、新しく出発していくためなのだと思います。

その意義が見失われる時、礼拝も、単なる習慣になり、義務感、私たちを縛り付けるものとなってしまうのです。

礼拝だけではありません。

教会学校や祈祷会、様々なことに言えることだと思います。

何のためにしていることなのか。

目的は何だったか。

長く続けていること、習慣になっていることほど、立ち止まって、何のためにやっていることなのか。

その目的を、心に留め直すことが大事だということを、覚えたいと思います。

時代が変わる中で、目的を達成するための手段が、マッチしないということに気づくこともあるかもしれません。

やり方を変える必要があるということもあるかもしれません。

それは、必要な転換であると思います。

来週から、アドベントに入ります。

今年も、クリスマスが近づいてきましたけれども、クリスマスもそうです。

改めて、クリスマスとは何なのか。

クリスマスの意義、クリスマスを祝う目的は何なのか。

そのことを、思い巡らしながら、クリスマスを迎えていきたいと願います。

お祈りします。

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