2024年2月25日主日礼拝メッセージ「きみのかわりはどこにもいない」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書15章1節〜7節。

新共同訳新約聖書138ページです。

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「きみのかわりはどこにもいない」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日は、オンラインによって、臼杵教会の皆さんと一緒に、礼拝を献げることができますことを感謝いたします。

大分教会の礼拝では、いつも、メッセージの最初に、子どもメッセージをさせていただいています。

ですから、今日もまず、子どもメッセージから、させていただきたいと思いますが、

今日は、一冊の絵本を読みたいと思います。

1、「きみのかわりはどこにもいない」という絵本です。

この絵本は、先ほど読んでもらいました聖書の箇所からつくられた絵本です。

「きみのかわりはどこにもいない」。

2、夕暮れが山の向こうを染めてゆく。1日の終わりを僕に告げながら。

さあ、みんなをベッドにつれてゆこう。どの子も顔も、みんな、ねむそうだ。

3、湖をまわり、尾根をつたい、草原を横切り、橋を渡り、丘を下って、谷を抜けよう。

ぼやぼやしている、暇はないぞ。

4、うちが見えたぞ。もうすぐそこだ。急げよみんな、もたもたするな。

5、門のところで、数を数えよう。100匹と言ったら、たいした数だ。

赤ちゃん羊に、母さん羊、1匹1匹、僕には大事。

アンナ、アグレア、イメルダにイリエ、ウリヤにエドガー、オリーもいるね。

6、黒いの白いの、まだらに無地、それぞれの名前で、みんな数える。

おちゃめな羊に、はずかしがりや、怒りん坊の羊もいるよ。

7、数えに数えて、すっかり夜。でも大丈夫、もうじき終わる。

マリー、ミーシャ、モリーにヤン。

レオナルドで98、ロンで99・・・あれ、ちょっと待った!

8、99匹しかいない。なんてこった!大変だ!1匹いないぞ!

ワンダーがいない。そうだ、あの子が消えてしまった!

残りのみんなは、寝ていておくれ。僕は行かなきゃ、今すぐに。

1匹でもいなけりゃ、僕は眠れない。

9、やわらかい月のあかりに照らされて、夜の闇へと、僕は急ぐ。

眠るどころの騒ぎじゃないよ。迷子の羊を見つけるまでは。

10、ぼやぼやしている暇はない。谷をぬけたら、丘を登り、橋のあとには、草原を横切る。尾根を過ぎたら、湖が見える。

11、どこへでも行って、僕は叫ぼう。「どこだワンダー、出てこいよー!僕はここだよ、おうちに帰ろう。ワンダー、きみを探しに来たぞ!」

12、尾根の向こうで、いばらにかかり、毛皮のさけた、子羊を見つけた。僕に向かって、泣き叫んでいる。やったー!とうとうワンダーを見つけ出した!

13、ああワンダー、かわいい子羊。わかるかい、闇にお前を見つけた時に、どんなに僕が嬉しかったか。どれほど僕が心配だったか。

14、お前はすっかり怯えているね。大丈夫、僕が守ってあげるから。だからいいかい、決して僕から、離れちゃダメだよ。僕のワンダー、僕といれば、安全だよ。

15、太陽が、東の空に登っている。夜が終わって、1日が始まる。もちろんクタクタ、それは本当。でも、お前を見つけて、僕は最高。

16、起きろよみんな、今帰ったぞ!さあ、みんなで一緒にお祝いだ!ほら無事に、元気で戻ってきたんだ。迷子の羊が、見つかったんだ!

17、黒いの白いの、まだらに無地、みんな知ってる、それぞれの名前。どの子もみんな、愛しているから、どの子もみんな、大切だから。

1匹いなけりゃ、休みも取らず、一晩中でも、探して回る。迷子の子羊、僕は見つけた。喜び踊ろう、あの子が戻った。

1匹の羊のために、夜通し探し回る羊飼いのお話でしたけれども、このお話を通して、イエス様が伝えようとしていること。

それは、「きみのかわりはどこにもいない」ってことだと思います。

「きみのかわりはどこにもいない」。

このボールペンは、なくしても、また買うことができます。

この消しゴムも、お店に行けば、代わりのものはいくらでも売っています。

でも、あなたのかわりはどこにもいない。

羊飼いには、100匹の羊がいました。

100匹もいたら、1匹ぐらいいなくなったっていいじゃないかって、思う人もいるかもしれません。でも、そうじゃないんです。

たとえ100匹いても、1匹として同じ羊はいない。

名前も違うし、大きさも違う。模様も違う。

ワンダーという子羊は、世界で1匹しかいないんです。

それと同じように、私たち一人一人も、世界で1人しかいない、特別な存在だ。

はつくんも、みつくんも、私も、世界で1人しかいない。誰も、かわりはできない。

だから、大事なんだって、

だから、1人も、欠けちゃいけないんだって、イエス様は、そう伝えているんです。

「きみのかわりはどこにもいない」このイエス様のメッセージを、しっかり心に受け止めて、新しい1週間に出発していきましょう。

お祈りします。

・当たり前じゃない

皆さんは、今、ご自分のことをどれだけ大切に、思えているでしょうか。

どれだけ、自分を、大事にできているでしょうか。

今日は、そのことを、ご一緒に考えてみたいと思います。

今日の聖書の箇所には、イエス様のたとえ話が、記されています。

先ほど絵本で読みました通り、1匹の羊を探す、羊飼いの話です。

その始まりのところで、イエス様は、こうおっしゃっています。

15章4節「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」

この「捜し回らないだろうか」という言い方は、反語表現でありまして、

「捜し回らないだろうか。当然、捜すだろう」って、イエス様はおっしゃっているわけですが、しかし、それは、本当に、当然のことなのでしょうか。

もし、皆さんが、羊飼いだったとしたら、捜しにいくでしょうか。

「99匹を野原に残して」と書いています。

ここで「野原」と訳されている言葉は、「荒れ野」を意味する言葉です。

青草が生い茂っている草原ではありません。

ごつごつとした岩場で、野獣や強盗もいるような、危険な場所です。

そこに、99匹を残して行かなければならない。

絵本では、家に連れて帰ってから、捜しに行ったようになっていましたが、イエス様の話ではそうじゃありません。

99匹を荒れ野に残していかなければならない。

まあ、100匹の羊を1人で見るということは、ありえないことだったようですので、他の仲間に預けるということが想定されていたかもしれません。

でも、それにしてもですね、決断を問われることだと思います。

1匹を捜しに行っている間に、他にも、迷ってしまう羊が出てしまうかもしれない。

野獣や強盗に襲われてしまうかもしれない。

捜しに行ったところで、見つかる保証もありません。

イエス様は、「見つかるまで捜す」と言っていますが、いつになるかわかりません。

それでも、1匹の羊を探しに行くことを、当たり前だと、言えるでしょうか。

かわいそうだけど、これ以上被害を出さないために、諦めるという人もいるのではないでしょうか。

「99匹残っているんだから、それでいい」と思う人もいるかもしれない。

そもそも、100匹もいるんですよね。

私だったら、1匹いないということにすら、気づけないかもしれません。

そう考えると、やはり、イエス様の仰っていることは、私たちにとって、決して、当たり前のことではないのだと思います。

・なぜ、当然と言えるのか

では、なぜイエス様は、1匹の羊を探すことを、当然のことだと、そう言えるのでしょうか。

それは、イエス様が、良い羊飼いだからです。

これは、私が、そう思うというのではありません。

イエス様ご自身が、おっしゃっていることです。

ヨハネによる福音書の10章で、「わたしは良い羊飼いである」と、イエス様、そうおっしゃっています。

こういうの、自分で言うかなと思ったりもするんですが、ただ、この箇所は、とても重要な箇所です。

そこでイエス様は、良い羊飼いとは、どんな羊飼いかということを語っています。

そこに、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書いてあるんです。

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。

つまり、イエス様の羊には、1匹1匹、名前があるということです。

先ほど読んだ絵本でもそうでしたが、1匹1匹、名前がある。

同じ羊は、1匹もいないんです。

1匹1匹が、特別で、かけがえのない羊なんです。

だからイエス様は、当然のように、1匹の羊を捜すと言われるのです。

イエス様にとって、見失った1匹の羊は、100匹の中の1匹じゃありません。

世界で1匹しかいない、特別な羊なのです。

・みんな特別

この話を、イエス様は、ファリサイ派の人々や、律法学者たちに対して語りました。

彼らは、罪人たちを迎えて食事をしているイエス様に、「なぜあんな人々と食事をしているのか」と言って、不満を漏らしていました。

当時のユダヤ社会において、一緒に食事をするというのは、ただ単にお腹を満たすというよりも、むしろ、人と人、神と人との間の親しさの表現であったと言われています。

親しさの表現であった。

聖書辞典によると、「食事を共にする者は、相互援助の義務を負う愛の絆によって結ばれる」と書いてありました。

つまり、一緒に食事をするというのは、連帯とか、共に生きるということのしるしであったということです。

だから、ファリサイ派や律法学者たちは、罪人と関わることを、避けていたのです。

律法を守る自分たちと、罪人である彼らは違う。全然違う。

交わることで、同じ人間であるなんて思われたくないと、そう思っていたのです。

そんな彼らに、イエス様が、今日のたとえ話を通して、おっしゃっていること。

それは、「あなた方が罪人と揶揄している人たちも、あなた方と同じ、かけがえのない、特別な存在なのだ」ということです。

人は、能力や努力によって特別になるのではありません。

人よりも早く走れるとか、勉強ができるとか、そういうことで特別になるのではない。

全ての人は、生まれながらに特別で、かけがえのない存在なのです。

もう命を与えられた、その瞬間から、すでに特別なんです。

特別な人っていうのは、なっていくものでもなければ、目指すものでもない。

もうすでに、みんな、特別なんです。

「世界に一つだけの花」という歌があります。

皆さんも、よくご存知の歌だと思いますが、その歌詞の中に、「No. 1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」という歌詞があります。

あの歌詞を、私は長らく、「もっともっと特別なOnly one」だと思っていました。

もっともっと特別になりなさい。

No. 1を目指すんじゃなくて、only oneを目指しなさいと、そういう風に歌っている歌だと、ずっと思っていました。

そして、それは、きついと思っていました。

自分には、only oneなところなんて、何もない。

思いつくことも普通だし、人に自慢できることもないと、ずっと思っていました。

でも、そうじゃないですね。

「もともと特別なOnly one」ですから、初めからそうだということです。

努力して、only oneになるんじゃない。

もともと、生まれながらに、あなたは、only oneなんだ。あなたの代わりは、どこにもいないんだっていうことです。

イエス様は、まさにそのことを、おっしゃっているのだと思います。

皆さんは、このことを、どう思うでしょうか。

・きみのかわりはどこにもいない

最初に聞きましたけれども、皆さんは、今、ご自分のことを、どれだけ大切に、思えているでしょうか。

自分の大切さがわからない。

自分なんていなくても、誰も困らないんじゃないか。

自分のかわりは、いくらでもいる。

そんな風に、思っておられる方は、いないでしょうか。

実は、私は、中学生くらいの頃から、ずっとそう思っていました。

思春期であったり、まあ受験ということも、影響していたかもしれません。

とにかく、人と比べて、何か秀でた人間になりたい。特別な人間になりたい。ならなきゃいけないという想いすらありました。

でも、そう思えば思うほど、苦しいんです。

なぜか。特別なものを何一つ持っていないからです。

勉強もできませんし、部活も、これと言って、大したものにならない。

良い成績を取っている友人たちが、輝いて見えましたし、そういう友人たちと比べて、自信をなくす自分がいました。

正直、今でもたまに、そういうことがあります。

人と比べて、自分はなんて足りないんだって思って、自信をなくしたり、落ち込んだりすることがあります。

きっと、比べるから、わからなくなるんだと思います。

比べるから、見えなくなるんだと思います。

自分の存在価値や、自分の大切さっていうのは、人と比べるものではありません。

なぜなら、全ての人が、生まれながらにonly oneだからです。

誰一人、かえのきかない、かけがえのない存在だからです。

先日、息子のみつの学校説明会に行ってきました。

みつは、4月から、支援学校に通う予定なんですけれども、その学校の就学説明会に行ってきました。

行ってみるとそこには、いろんな子がいました。

みつのように元気に走り回っている子もいれば、ゆっくり歩いている子もいる。

マイクの音が嫌なのか、泣いたり、怒ったりしてる子もいました。

そんな状況の中で、副校長が前に立って、こう言ったんです。

「私たちの学校は、みんな違ってみんな良いの学校です。

授業の内容も、進む速さも、一人一人、みんな違います。

でも、それで良いんです。

もう他の人と比べなくて結構です。」って、言われました。

その言葉を聞いた時、わたしはホッとしました。

この学校で良かったって思いました。

支援学級がいいか、支援学校がいいか、この何ヶ月間か、決まるまで非常に不安でした。

決まってからも、不安がありました。

でも、副校長の言葉を聞いた時に、どこでも良かったんだって。

みつを、そのままで大切にしてくれる場所なら、どこでも良かったんだって、そう思いました。

イエス様も、きっと、同じことを言われているのだと思います。

もう他の人と比べなくていい。

あなたは、そのままで、特別。

あなたのかわりは、どこにもいない。

このことを、しっかり受け止めて、新しい一週間に出かけていきましょう。

お祈りします。

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