2023年12月17日礼拝メッセージ「待ち望むことの大切さ」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、イザヤ書25章1節〜9節。

新共同訳旧約聖書1097ページ〜1098ページです。

25:1 主よ、あなたはわたしの神/わたしはあなたをあがめ/御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された/遠い昔からの揺るぎない真実をもって。
25:2 あなたは都を石塚とし/城壁のある町を瓦礫の山とし/異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう。
25:3 それゆえ、強い民もあなたを敬い/暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。
25:4 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨
25:5 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。
25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
25:7 主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
25:9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

「待ち望むことの大切さ」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日のテーマは「待つ」です。

「待つ」ということについて、考えてみたいと思います。

皆さんは、待つことが好きですか。

誰かに待たされて、嬉しいと思ったことがあるでしょうか。

友達と約束したのに、約束した時間に友達が来ない。友達を待っている時間は、楽しいでしょうか。

遊園地でジェットコースターに乗りたい。でも、混んでて、1時間待たないといけない。どんな気持ちになるでしょう。

大好きな回転寿司が食べたい。でも、お店に行ってみると、そこも混んでて、1時間待たないといけない。嬉しいでしょうか。

嬉しくないよね。

基本的に「待つ」っていうのは、辛いことだと思います。

待たされて嬉しい人なんていないと思います。

だけど、聖書を読んでみると、神様はよく人を待たせています。

いつか、わかる時が来るから、待っていなさい。

いつか、苦しい時が終わるから、信じて待っていなさい。

そうやって言うんだけど、なかなか、その時が来ないんです。

何年も、何十年も、待たないといけないこともある。

事柄によっては、何百年も後になって実現されることもあります。

何百年なんて生きていられないのに、なんで神様は、そんなことをするんでしょう。

なんで、そんなにも、待たせるんでしょう。

嫌がらせでしょうか。

罰を与えているんでしょうか。

そうじゃないと思います。

聖書を読んでみると、神様には計画があるって、書いています。

いつ、何をするのか、神様はちゃんと考えているってことです。

なんの考えもなく、ただ待たせているんじゃない。

その人にとって、一番良い時を、神様はちゃんと考えておられるんだってことです。

私たちは、思い通りにならないことがあると、イライラしたり、不平不満をつぶやいたりしてしまうことがあります。

でも、もしかするとそれは、一番良い時が、まだきていないってことなのかもしれません。

皆さんは、カップラーメンを作ったことがあるでしょうか。

カップラーメンにも、お湯を注いで、待つ時間があります。

待てないって言って、早く食べたら、美味しく食べられません。

美味しく食べようと思ったら、やっぱり待たないといけない。

それと同じように、時に、待つっていうのは、とても大事なことなんだってことです。

今の時代は、なんでも簡単に、早く、手に入るような時代だと思います。

コンビニもあるし、インターネットですぐに取り寄せることもできます。

だからこそ、待つことの大切さを、覚えておいて欲しい。

待たないと、得られないことがある。

待たないと、気付けないことがある。

今日は、そのことを、覚えておいて欲しいと思います。

お祈りします。

・感謝

先週は、コロナウイルスに感染したということで、礼拝メッセージを代読していただきました。

ご心配をおかけしまして、申し訳ありませんでした。

感染から10日以上経過しまして、まだ、鼻や喉など、残っている症状もあるんですが、無事回復に向かっております。

お祈りを感謝いたします。

・テーマ「待つ」

さて、今日は、「待つ」ということについて考えてみたいと思います。

キリスト教の暦では、クリスマス前の4週間を、アドベントと言います。

アドベントは、日本語で待降節。

その意味は、読んで字の如く、降りてくるのを待つ時、つまりクリスマスを待ち望む時を意味します。

でも、どうでしょうか。

皆さんは、クリスマスを待ち望んでいるでしょうか。

多くの人たちにとって、クリスマスは、毎年やってくる恒例行事の一つかもしれません。

待っていなくても、当たり前のようにやってきます。

でも、聖書の民にとって「その日」は、待ちに待った日、待望の日でした。

今日の箇所に記されている「その日」もそうです。

・「その日」の約束

今日の箇所に記されている「その日」には、神様が、異邦人の騒ぎを鎮め、暴虐な者たちの声を低くされると語られています。

これは、神様が、イスラエルを圧迫していた国々を打ち倒し、イスラエルに救いをもたらしてくださるということを意味しています。

また、「その日」には、神様の祝宴が催され、全ての民に良い肉と古い酒が供され、そして、神様は、全ての顔から涙を拭い、ご自分の民の恥を拭い去ってくださると言われています。

だから、預言者イザヤは、「その日」を信じて待ち望むよう呼びかけているわけです。

・「その日」の背景

この言葉が、いつ、どんな人たちに対して語られた言葉なのか、実は、はっきりとはわからないそうです。

しかし、この呼びかけの内容からして、そこには、異邦人に圧迫され、苦しんでいる民がいたということがわかります。

先週も、話しました通り、預言者イザヤの時代、イスラエルは南北に分裂しており、両者とも、滅びの道を進んでいました。

北は紀元前721年アッシリアという国に滅ぼされ、南は紀元前586年バビロンという国に滅ぼされます。

後に、アッシリアもバビロンも滅びるのですが、支配者が変わるだけで、支配から解放されることはありませんでした。

この預言は、そんな民に対して語られた言葉だったのだと思います。

彼らは、どんな想いで「その日」を待ったのでしょうか。

彼らにとって、「その日」を待つことは、どれだけ辛いことだったでしょう。

・待つことは辛い

先ほども言いました通り、そもそも待つことは辛いことです。

私は、渋滞している時が一番嫌いです。

この辺の道は、夕方ぐらいになると、必ず渋滞します。

信号は青なのに、全然進まないということがあります。

その度に、私は、イライラしてしまいます。

しょうがないことだとわかっていても、穏やかに待つことができない。

1分でも早く行きたいと思って、脇道に入ったりするんですが、そこも渋滞していまして、かえって、待たなきゃいけなくなるなんてことが、時々あります。

スーパーのレジを待つのも、苦手です。

スーパーも、夕方くらいになると、混雑してきて、レジにも列ができるようになります。

そんな時には、どの列が一番空いているか、探して並ぶわけですが、大体、空いているところには罠がありまして、並んでみると、前に、かごいっぱいに商品を入れたお客さんがいたりするわけです。

そんな時は、がっかりしたりしますけれども、

そんな私ですから、思うわけです。

なんで神様は、苦しんでいる民を、待たせたりしたんだろうか。

なぜ、すぐに「その日」を、もたらしてくださらなかったんだろうかと、そんなふうに思うわけです。

皆さんは、どう思うでしょうか。

なぜ神様は、直ちに、約束を果たしてくださらなかったのでしょうか。

なぜ、待ち望む時を、お与えになったのでしょうか。

・待たなければわからないことがある

結論から言いますと、それは、待たなければわからないことがあったからです。

すぐに「その日」が来たのでは、わからないこと、気づけないことがあった。

だから、待ち望む時を、お与えになったのだと思います。

イスラエルの民が、気づかなきゃいけなかったこと、向き合わないとならなかったこと。

それは、彼ら自身の罪でした。

そもそも、彼らが歩んだ道のりは、彼ら自身が選んだ道のりでもありました。

今、祈祷会で、列王記を続けて読んでいます。

ちょうど、イスラエルが南北に分裂した後、それぞれの民が、どのように歩んでいったのかということを学んでいますが、そこに記されているのは、神を捨て、偶像を礼拝する民の姿です。

北の民も、南の民も、そうです。

神を信頼せず、神の言葉に耳を貸さない王たち、その王に従う民の姿が、語られています。

滅んだのは、その結果である。

聖書は、そう教えているように思います。

これは、イスラエルの民が、向き合わなければならないことだったのだと思います。

なぜ、誤った道に進んでいってしまったのか。

なぜ、神の言葉に聞き従うことができなかったのか。

そのことを考えさせるために、神様は、待ち望む時を、お与えになったのだと思うのです。

事実、旧約聖書に収められている書物の多くは、この時期に、編纂されたと言われています。

信仰の拠り所であったエルサレム神殿を失い、捕囚されていった民は、そのことを通して、自分たちのアイデンティティーについて、考えていきました。

自分たちは、何者なのか。

自分たちは、どう生きるべきなのか。

考えていく中で、ユダヤ教の会堂シナゴーグが生まれ、礼拝が行われるようになっていきました。

律法の収集や編纂、解釈なども、この時期に進み、今日のユダヤ教の基礎が築かれていったと言われています。

待ち望むことを通して、彼らは、自分たちの歴史に目を向けていったのです。

自分たちが、どのようにして歩んできたのか。

そこで気付かされたのは、きっと、過ちだけではなかったと思います。

神様の恵み、導きにも、気づかされていったのだと思います。

今日の箇所の冒頭に記されている感謝の言葉は、その一つです。

そこには、約束を果たしてくださる神様への感謝が、語られています。

神様は、計画を持っておられる。

その計画を、揺るぎない真実を持って、愛を持って、成就してくださる。

異邦人に襲われ、奪われる弱い民のことを、神様は決して見放さない。

これまでもそうだったし、これからもそうだと、彼らは、その信仰を、熱くさせられていったのです。

もし、神様が、直ちに「その日」をもたらしていたとしたら、こんなことになったでしょうか。

神様の恵みになど気づかず、過ちを繰り返す、愚かな民のままだったのではないでしょうか。

待ち望む時間があったからこそ、彼らは、自分たちの犯してきた間違いに向き合うことができたし、神様の恵みに感謝することができたのだと思います。

このために、待ち望む時間が、必要だったのだと思うのです。

・「安い、うまい、早い」の時代の中で

先日、車で買い物に出かけた時に、「安い、うまい、早い」という看板を見ました。

私は、そういう店が大好きです。

コロナ以降、ネットで事前に予約する店も増えました。

待たなくていいというのは魅力的だなと思います。

スーパーのレジもセルフになって、これも慣れれば、便利だろうと思います。

列に並ぶ時間も減るかもしれません。

そうやって便利になることは良いことだと思いますが、でも一方で、日に日に、自分が、待てなくなっているようにも感じます。

結論を急ぐ傾向にあるようにも思いますし、早いことが良いことで、待つことは無駄なこと。

そんな価値観が、育ってしまっているとも感じます。

待つ時間が、大事な時間だとするならば、便利になることで、かえって私たちは、大切な時間を失っているとも言えるかもしれません。

確かに、待つということは、辛いことです。

でも聖書は、必要な時間でもあるということを教えています。

早くきたのではわからない。

待たなければ気づけないこと、向き合えないことがある。

自分の過ちに向き合うこともそうです。

恵みの大きさに気づくこともそうです。

待たなければ、出会えない実りもあります。

植物もそうですし、人もそうですけれども、成長するには時間がかかります。

大きな実りを得るためには、種を蒔き、水をやり、育つのを待たなければなりません。

待った後の喜びは、待たずして得られた喜びと、その質において全く違うものだろうと思います。

また、待つというのは、相手の気持ちを考える、思いやりを持つということでもあると思います。

スーパーのレジがセルフになって、戸惑っている人をよく見かけます。

私自身、最初は戸惑って、お金を入れ過ぎてしまったり、かえって時間がかかるということがありました。

列に並んでいる人が多ければ多いほど、緊張して、焦ってしまう。

買い物すること自体、嫌だと感じるようになった人も、いるんじゃないでしょうか。

待てない社会というのは、自分の都合を優先する社会です。

みんなが、自分の都合を優先して、自分のことばかり考えて動くようになったら、どうなるでしょうか。

便利になるどころか、かえって生きづらくなってしまうのではないでしょうか。

待つことは、愛するということでもあるのだと思います。

私たちが、神の時を待つ以前に、神様は、私たちの立ち帰るのを待っておられます。

忍耐を持って、大きな愛を持って、待っておられる。

そのことを忘れてはいけないと思わされます。

・待つことは大切なこと

今日は、「待つ」ということについて考えてきました。

アドベントのこの時、待ち望むことの大切さを覚えたいと思います。

待つことは無駄じゃない。

待つことを通して、私たちは、気づきを与えられたり、向き合うことができたり、恵みを覚えることができる。

また、待つことは、相手を思いやること、愛することでもあるということを、今日は、心に覚えたいと思います。

人生には、待たなければならないことがたくさんあります。

待つことは、確かに辛いことです。

でも、その時に、今日学んだことを思い出したいと思います。

待つことは決して無駄じゃない。

その時間を通して、私たちは、気づくことできる、向き合うことできる、恵みを覚えることができる。

そう思えば、待つ時間も、大切に過ごすことができるのではないでしょうか。

お祈りします。

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