2023年12月24日クリスマス礼拝メッセージ「わたしもただの人間です。」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、使徒言行録10章24節〜33節。

新共同訳新約聖書233ページです。

10:24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。

10:25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。

10:26 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」

10:27 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、

10:28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。

10:29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」

10:30 すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、

10:31 言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。

10:32 ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』

10:33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」

「わたしもただの人間です。」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

クリスマスおめでとうございます。

今日は、ようこそ、大分教会のクリスマス礼拝にお越しくださいました。

心から歓迎いたします。

今日もまず最初に子どもメッセージをしたいと思いますが、今日は一冊、絵本を読みたいと思います。

1、「戦争をやめた人たち」という絵本です。

この話は、今から100年以上前、クリスマスに本当にあった奇跡のお話です。

「戦争をやめた人たち」

2、今から100年以上前の1914年、7月。

ヨーロッパをはじめ、多くの国をまきこむ戦争が始まりました。第一次世界大戦です。

イギリス、フランス、ロシア、日本などの連合国軍と、ドイツ、オーストリアなどの同盟国軍が戦ったのです。

戦いは、おもに大砲や銃を撃ったり、剣でさしたりといった、兵士同士がぶつかり合う、厳しいものでした。

3、国と国との境には鉄条網がはられました。

敵軍と一番近くで対戦する最前線では、銃で撃たれないように「ざんごう」という、隠れる場所を掘り、相手と撃ち合いました。

食べ物も少なく電気もないので、冬になると、寒く厳しい毎日が続きました。

この話は、戦争が始まった五ヶ月後、フランスやベルギーに攻め込むドイツ軍と、迎え撃つイギリス軍との最前線で、12月24日の夜に起こったことです。

4、その夜も、イギリス軍の兵士は、一日中続いたドイツ軍との銃の撃ち合いで、疲れ果て、ざんごうで休んでいました。

若い兵士が言いました。「今日も1日、終わったね」「ああ、つかれたな」ひげの兵士が答えました。

「家に帰りたいなあ」「いつになるやら・・・」

その時、若い兵士は、なにか人の声が聞こえたような気がしました。

「何か聞こえる。何の音だろう」若い兵士は、ざんごうから顔を出しました。

5、それは、向こうのドイツ軍のざんごうから聞こえる歌声でした。

ドイツ語なので、なんといっているのか、わかりません。

でも、そのメロディーはわかります。

クリスマスの歌「きよしこのよる」です。

ドイツ軍のざんごうを見ると、焚き火の周りで、ドイツ軍の兵士が歌っているようです。

6、「今日は12月24日、クリスマス・イブなんだね」「そうだったな。ドイツにもクリスマスがあるんだなあ」

「こっちも、歌おうか」「いいのか?そんなことして」

「かまうもんか」若い兵士は、空に向かって歌いはじめました。

ひげの兵士も、周りの兵士たちも歌いはじめ、声は、次第に大きくなっていきました。

ドイツ軍のほうも、こちらが歌っているのがわかったようで、ぱちぱちと、拍手の音が聞こえてきました。

次に「もろびとこぞりて」をドイツ軍が歌いはじめました。

若い兵士たちは、拍手をして、自分たちも歌いはじめました。

言葉は違いますが、同じメロディーなので、一緒に歌えます。

声は大きくなり、終わると、拍手も大きくなっていきました。

両方のざんごうから、暗い夜空に、色々なクリスマスの歌が流れていきました。

7、翌日、12月25日、クリスマスの日の朝。

ドイツ軍のざんごうを見張っていた兵士が叫びました。「敵だ!」

若い兵士は、飛び起き、銃をかまえました。

でも、何かいつもと違います。手を振っているようです。

ドイツ軍の兵士は、ゆっくり顔を出しました。そして銃を持たず、ざんごうから出てくるではありませんか。

「なんだ、あいつ。こっちにくるぞ」相手の兵士は、手を振って、こちらにも出てくるように誘っているようです。

「よし、僕がいくよ」若い兵士が言いました。

「大丈夫か?撃たれるんじゃないか?」

若い兵士は銃を置くと、自分も両手を上げ、ざんごうを出て、歩きはじめました。

8、ドイツ兵が手を挙げ、ゆっくりこちらに歩いてきます。

若いイギリス兵も手を挙げ、ゆっくり歩いていきます。

どちらのざんごうでも、他の兵士たちが銃をかまえたまま、二人が近づいていくのを、息を止めて見守っています。

9、少しずつ、少しずつ、二人は近づいていきました。

相手の顔が、はっきり見えるようになりました。

相手の目の色や、吐く息の白さ、冷たい風になびく髪の毛までわかるほど近づきました。

ドイツ兵が、挙げていた右手を下げ、前に出しました。

若いイギリス兵も右手を出しました。

10、「メリークリスマス」二人は、がっちりと握手しました。

ざんごうにいた他の兵士たちも、みな出てきました。もちろん銃は持っていません。

みな口々に、「メリークリスマス」と言って、握手をして、嬉しい気持ちを伝え合いました。

11、クリスマスの歌を、また一緒に歌ったり、身振り手振りで、相手を褒めあったりしました。

奥さんの写真や、子どもの写真を見せている人もいます。

ざんごうから、食べ物やお酒を持ってきて分け合い、一緒に食べ始める人もいます。

若い兵士は、着ていた上着を丸め、紐でぐるぐる縛りました。そして・・・。

12、サッカーが始まりました。

13、みな、子どものように笑いながら走り、ボールを追い、ドリブルして、ゴールに蹴りました。

夕方になりました。自分たちのざんごうに、帰らなければいけません。

みな、笑いながら握手して、また会うことを約束して・・・

14、それぞれのざんごうへ、帰っていきました。

1914年の12月25日、クリスマスの日に、イギリス軍とドイツ軍が戦場でサッカーをしたという本当にあった話です。

戦場の他の場所でも、同じようなことが、いくつもあったそうです。

15、でも、残念ながら、戦争は終わりませんでした。

クリスマスが終わると、また戦争は始まり、鉄条網は張り直され、このあと4年間も続きました。

でも、ここでクリスマスを祝った兵士たちは、もう、銃で相手を撃つことはせず、命令されると、銃を少し上に向け、空に向かって撃ったそうです。

大きな攻撃作戦がある時は相手に知らせ、気をつけるよう、伝えたそうです。

一緒に笑い、遊び、食事をし、友達になったから、

相手にも故郷があり、家族や子どもがいることがわかったからです。

国を大きくするために戦争するより、大切なものがあることがわかったから、この人たちは、戦争をやめたのです。

・奇跡を起こした一歩

絵本を見て、どんなことを感じられたでしょうか。

本当にこんなことがあったんだって、感動を覚える話です。

この話の中で、私が、一番すごいなと思ったのは、最初に出てきた人です。

銃を置いて、手を上げて、敵に近づいていった。

そこから、この奇跡は起こされていったわけですが、とてもできないことだなと思います。

敵軍の拳銃が、全部自分に向けられている。

どれだけ怖かっただろうと思います。

なぜ、彼は、敵軍に向かって、出ていくことができたんでしょうか。なぜでしょう。

そのことを考える時に、一つ思い出されるのが、クリスマスイブの夜に、讃美歌を歌った場面です。

言葉は違いましたが、同じ讃美歌を、一緒に歌うことができた。

このことは、大きかったんじゃないかって思うんです。

この場面で、イギリスの兵士が「ドイツにも、クリスマスはあるんだな」って言っていました。

自分たちと同じように、彼らも、クリスマスを祝うんだって、共通点、一緒のところを、見つけることができた。

そのことで、心の距離が、ぐっと近くなったってことが、あったんじゃないでしょうか。

皆さんも、きっと、経験があると思います。

好きな食べ物が同じとか、見ているアニメが同じとか、それだけで距離がぐっと近くなったっていうことがあるんじゃないでしょうか。

私は北海道の出身ですが、同じ北海道出身の人と会うと、とても嬉しくなります。

それだけで、心の距離がぐっと近くなります。

ラーメンが好き、野球をやっていた、そんな人と会ったら、それだけで嬉しくなります。

人間は、一人一人みんな違います。

一人一人個性がありますし、考え方も違います。

でも、同じところも、必ずあります。

どんなに生まれた場所が違ったり、肌の色が違っても、必ず、一緒に喜んだり、一緒に笑ったりできるポイントがあるはずです。

そこを見つけていくことが、共に生きていくための秘訣なんだって、そう教えられているように感じます。

世界では、残念ながら、今日も戦争が起こっています。

絵本のような話は、そうそう起こることじゃないかもしれません。

でも、だからこそ、覚えておきたいと思うんです。

どんなに敵と味方であっても、分かり合えることが必ずあるんだ。

そして、一緒に歌ったり、食べたり、笑ったりすることで、共に生きていくことができる。

そこに、平和が生まれていくんだってことを、今日は、一緒に覚えておきたいと思います。

お祈りします。

神様、クリスマス、ありがとうございます。今日は、クリスマスに起こった奇跡のお話を読みました。敵に向かって、歩み出していった兵士のように、私たちも、勇気を持って、一歩、歩み出せる人になりたいと思います。必ず、分かり合えることがある。必ず、喜び合えることがある。そのことを信じて、一歩、踏み出せる人になっていくことができますように、導いてください。イエス様のお名前で祈ります。アーメン

・キリストの平和とは

改めまして、クリスマスおめでとうございます。

今年のクリスマスは、平和について考えたいと思います。

平和と聞いて、みなさんは、どんなことをイメージされるでしょうか。

戦争がないこと、差別がないこと、お腹をすいて泣いている子がいないこと。

先ほどの絵本では、サッカーをしたり、歌を歌っていたり、一緒に食事をする様子が描かれていました。

それも、一つの平和のイメージでしょう。

聖書は、イエス・キリストを、「平和の君」とか、「平和の主」と呼んでいます。

このキリストの平和とは、一体どんなものでしょうか。

今日の招詞で読んでいただきました聖書の箇所には、こう記されています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」

この箇所は、キリストの平和を考える時に、非常に重要な箇所であると思います。

「二つのものを一つにする」

「敵意という隔ての壁を壊す」

これが、キリストの平和であるということ。

そして、そのために、イエス様は「規則と戒律ずくめの律法を廃棄された」と言われています。

これは、どういうことでしょうか。

今日の聖書の箇所に、その意味が、示されています。

・ペトロとコルネリウス

今日、選ばせていただいた箇所には、ペトロとコルネリウスの出会いが記されています。

ペトロというのは、イエス様の弟子のペトロのことです。

一番弟子でありながらも、イエス様なんて知らないと言ってしまった、あのペトロです。

一方、コルネリウスという人は、ローマ人で、ローマ軍の軍隊長をしていました。

彼は、ローマ人でありながら、熱心なユダヤ教の信奉者でした。

「ユダヤ人からも評判が良かった」と、書かれています。

そんなコルネリウスですが、しかし、ペトロは、そんなこと知りません。

ペトロから見れば、彼もただの外国人でした。

そのコルネリウスのところに、ペトロが行くというのは、先ほど読みました絵本の話と同じぐらい、奇跡的なことでした。

なぜかというと、それは、この両者の出会いが、禁じられた出会いだったからです。

28節で、ペトロが言っています。

ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられている。

調べてみますと、「外国人との交際を禁じる」と、はっきり記されている律法はないようですが、でも、そのことにつながる律法は、いくつかありました。

その代表的なものが、「清いものと汚れたものに関する規定」いわゆる食物規定と呼ばれる律法です。

たとえば、豚とか猪は食べてはならないとかですね、海の生き物でも、タコとかイカは、食べてはならないとされています。

そういう律法を、ユダヤ人は、非常に大事にしてきました。

そんな人たちからすると、外国人というのは、食物規定に反したものを食べる、汚れた存在でしかなかったわけです。

そんな人たちと一緒にいたら、自分たちまで汚れてしまう。

だから、外国人と交際したり、訪問してはいけないと、そう教えられるようになっていったのです。

・律法はなんのため?

これは、ユダヤ人が、自分たちの信仰を守るために、非常に大事なことでもありました。

ご存知のようにユダヤ人は、神様によってエジプトから解放され、カナンの地へと導かれ、そこで暮らすことになります。

しかし、そこには、カナン人たちが住んでいて、彼らの文化や宗教がありました。

特に彼らは多神教で、昔から様々な神々を拝んでいました。

偶像を礼拝し、その信仰は、その土地の文化や風習と密接につながっていました。

そんな環境で、ユダヤ人が、自分たちの信仰を守っていくということは、決して簡単なことではありませんでした。

それは、この日本でクリスチャンとして生きる私たちの苦労とも、多少繋がっているところがあるかもしれません。

異なる文化、異なる宗教の中で、自分の大事にしてきたことを保ち続けるというのは、そう簡単なことではないのだろうと思います。

私も北海道の札幌出身で、九州にやってきた時には、気候や言葉の違い、食べ物の味付けの違いとかですね、いろんな違いに、戸惑うことがありました。

でも、住む時間が長くなるにつれて、違和感がだんだんなくなってくるわけです。

その土地のやり方や、味に、慣れてくる。

言葉も、特に子どもたちと会話するときなんかは、こっちの言葉が出てくるわけです。

そうやって、意識しなくても、徐々に徐々に、九州の人間になっていっている。

北海道を離れてもう10年以上になりますが、今では、こっちの生活の方が慣れてしまったかもしれません。

先日も、大雪のニュースがありましたけれども、あんなニュース見ますと、もう北海道じゃ暮らせないな、なんて思うわけです。

そんなふうに、置かれた環境に合わせて変化していくというのは、ごく自然なことだと思います。

でも、だからこそ、失いやすいわけです。

自分の大切にしていること、信じていることを見失いやすい。

環境に流されてしまいやすい。

おかれた環境に合わせて変わるということも、とても大事なことですが、自分が自分で有り続ける、アイデンティティを保つことも、とても重要です。

そのために神様は、ユダヤ人たちに対して、律法をお与えになったのです。

どんな環境に置かれても、ユダヤ人として生きていくことができるように、ユダヤ人としてのアイデンティティ、その信仰を忘れないために、律法は、大変重要な役割を果たしました。

ある意味、律法という隔ての壁に守られて、ユダヤ人はユダヤ人として、生き続けることができたわけです。

・わたしもただの人間です。

でも、一方で、自分たちを守る力というのは、他者を排除する力とつながっています。

律法という隔ての壁は、差別や偏見を生み、敵意となって、彼らの関係を蝕んでいきました。

先程少し触れましたけれども、外国人は、食物規定に反して、汚れたものを口にしている。

彼らは汚れた人間だ。

自分たちは、清く正しい人間で、彼らは汚れた罪人である。

そんなふうに、もはや同じ人間とは思えなくなってしまったのです。

そんな世界に、神様は、イエス・キリストをお遣わしになり、隔ての壁になってしまった律法を廃棄されたと、聖書は語っています。

もはや汚れた人間などいない。

今やすべての人が、神の子として、新しい命に生きることができるようになった。

人種も、国籍も関係なく、共に生きる道を開かれたわけです。

これが、最初に言いました、「規則と戒律ずくめの律法を廃棄された」ということの意味です。

こうして、神様は、キリストによって、二つのものを一つにされた、敵意という隔ての壁を壊されたのです。

そのことを、ペトロは、神様から与えられた出会いや幻を通して、教えられていきました。

「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」と、そう示されていきました。

その結果、導かれた言葉。

それが、今日の説教題にもさせていただきました、26節の言葉、「わたしもただの人間です。」という言葉だったのです。

自分たちは清く正しい人間で、彼らは汚れた罪人だ、そう思っていたペトロが、「私も、あなたと同じ、ただの人間です」と言った。

これはすごいことだと思います。

このことが、ペトロを、出会いへと、押し出していったのです。

ユダヤ人と外国人という関係の前に、私たちは、同じ人間である。

この認識が、彼らの間にあった溝を、埋めていったのです。

先ほども言いましたが、同じこと、共有できることがある。

これが、関係をつくっていく上で、いかに大事なことであるかが、教えられているように思います。

・キリストの平和を求めて

最初に、読みました、絵本のあとがきに、こんなことが、書かれています。

「この話は、イギリスもドイツも、キリスト教という宗教を信仰する人が多く、同じようにクリスマスを祝い、同じ歌を歌っていたから、起こったことなのでしょう。

今の世界には、いろいろな宗教があり、考え方の違う人がいるので、こういうことは、なかなか起こらないかもしれません。

だから、残念ながら、戦争は今も世界で起こっています。

でも、信じる宗教や考え方がどんなに違っても、ふるさとの自然や、家族、子どもを大切に思う気持ちは同じです。

他の命のことを思う想像力と行動する勇気があれば、戦争をやめることはできると思います。」

ロシアとウクライナの戦争も、もうすぐ2年になります。

今年10月には、ハマスによるイスラエルへの大規模攻撃、そして、その報復が今も続いています。

多くの人々が犠牲となり、新たな憎しみが生まれ、銃を持つ子どもたちが増えています。

そんな世界の中で、私たちにできることはなんでしょうか。

戦争をやめさせる力はなくても、私たちの手の届く範囲で、平和を作っていくことはできるかもしれません。

考え方が違う、価値観が違う、宗教や文化が違う、肌の色や国籍が違う。

そんな違う相手と、つながっていく。歩み寄っていく。

絵本のイギリス兵のように、あるいはペトロのように、異なる相手に向かって、歩み出していく。

同じ人間として、共有できるもの、一緒に喜び合えるものを探していく。

そういう営みが、平和を作り出していくのだと思います。

先日、教会で、クリスマスコミュニティーコンサートがありました。

今年で3回目のコンサートでしたが、毎年満員御礼で、今年も大人60名、子ども6名が参加してくださいました。

私はコロナで参加できませんでしたが、音楽というものの持つ力を感じます。

宗教も、年齢も、全然違う人たちが、音楽でつながり、一緒に喜ぶことができる。

これも、一つの平和の営みであると思います。

こういう営みを通して、違うもの同士が、つながり合っていく。共に生きていく。

それが、キリストの求める平和であり、そういう営みの中に、絵本で読みました、クリスマスの奇跡は起こされていくのだと思います。

そのことを、今日は、共に覚えたいと思います。

お祈りいたします。

神様、クリスマスの喜びを、こうして、たくさんの方々とお祝いすることができますことを、感謝いたします。ただ一方で、今年も、戦争は終わりませんでした。それどころか、新たな争いも起こり、犠牲になってしまった方々、命の危機に置かれている方々が増えています。

戦争や紛争が、1日も早く終わりますようにと、願います。どうか、キリストの平和が実現しますように、導いてください。敵対する者たちが、互いに歩み寄り、つながりあっていくことができますように。

そのためにも、共有できること、一緒に喜び合えることを教えてください。

同じ人間であることを、今一度、私たちに覚えさせてください。

他者に向かって、歩み寄る勇気を、与えてください。お願いいたします。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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