2023年4月30日礼拝メッセージ「分け合えば、満たされる」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書9章10節〜17節。

新共同訳新約聖書121ページ〜122ページです。

9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。

9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。

9:12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」

9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての 人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

9:14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。

9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。

9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

「分け合えば、満たされる」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日のお話は、五千人の給食って、言われています。

五千人の人たちが、一緒に食事をしたっていう場面なんですが、五千人って、どのくらいの人数か、想像できるでしょうか。

たとえば、碩田学園に通っている子どもの人数が、1年生から9年生まで、全部合わせて、大体千人ぐらいだそうです。

五千人ということは、その五倍ということになります。

碩田学園、五つ分の人たちが、イエス様の周りに集まっていたということです。

しかも、それは、男の人の数だけだそうです。

当然そこには、女の人や、子どもたちもいたと思いますが、その人数を入れたら、その二倍、三倍いたかもしれません。

イエス様は、そんな大勢の人たちを前にして、弟子たちに言いました。

「あなたがたが、彼らに、食べ物を与えなさい。」

この時、弟子たちが持っていたのは、五つのパンと、二匹の魚だけでした。

そんなんじゃ、全然足りません。

それでもイエス様は、それを分けなさいって、言われたんです。

弟子たちは、イエス様の言われた通りにしました。

大勢の人たちを、五十人ずつ組にして座らせて、自分たちが持っていた五つのパンと二匹の魚を、分けました。

どうやって分けたんでしょうか。

どんなに小さく千切っても、あっという間になくなったと思います。

でも、聖書を見てみると、そこには、「すべての人が、食べて満腹した。」って書いてあります。

男だけで五千人の人たちが、皆、食べて、満腹になった。

さらに、その続きには、「残ったパンの屑を集めると、12カゴもあった。」って書いています。

五つのパンと二匹の魚を分けたら、すべての人がお腹いっぱいになって、さらに、12カゴ分のパンくずが残った。

明らかに増えてます。

分けたはずなのに、なくなるどころか、増えている。

一体何が起こったんでしょうか。

どうして、こんなことになったんでしょうか。

正直、答えはわかりません。

聖書には、何も書かれていませんので、答えは誰にもわからないんだけれども、

一つ、考えられるのは、弟子たち以外にも、食べ物を持っている人たちがいたってことです。

弟子たちが、五つのパンと二匹の魚を持っていたように、パンや魚を持っている人たちがいた。

そして、その人たちも、自分の持っている分を、差し出した。

弟子たちが、持っているものを差し出す姿を見て、彼らも、自分の分を差し出した。

そうやって、そこにいた皆が、持っている分を差し出した結果、皆が満腹になって、さらに、12カゴ分のパンくずが残った。

そんなことがあったんじゃないかって思うんです。

そして、それこそが、イエス様の見せたかった景色だったんじゃないかって、思うんです。

このことを通して、イエス様が、弟子たちに、教えたかったこと。

それは、一人一人の力を合わせれば、大きな力になるってことです。

一人が持っている分は小さくても、皆で合わせれば、いっぱいになる。

皆で分け合えば、五千人のお腹も、満たされる。

だから、分け合おうよって、イエス様は言っているんだと思います。

どんなに少なくても構わない。

一人一人が、自分の分を差し出す時、奇跡は起こる。

そのことを心に留めて、分かち合う人に、なっていきましょう。

お祈りします。

今日の箇所は、五千人の給食と言われる、大変有名な箇所ですけれども、

改めて、この箇所を読んだ時、

弟子たちが言った「パン五つと魚二匹しかない」という、この「しか」という言葉が、心に留まりました。

「私たちには、これしか、ありません」「たったこれしか、持っていません」。

男だけで五千人という人を前にして、弟子たちは、自分たちが持っているものの少なさを、感じていたわけです。

この弟子たちのように、私たちも、自分の足りなさや、小ささを、感じることがないでしょうか。

先週の水曜日ごろから、うちの次男が、風邪をひいておりまして、高熱が続いています。

毎日のように、病院に行っているのですが、なかなか良くならず、昨晩は、40度近い熱が出ていました。

そんな時には、やっぱりお母さんが良いもので、抱っこも、おんぶも、お母ちゃんが良いと言われました。

ただでさえ、何もできない状況の中で、さらに自分のできることの小ささを、痛感させられました。

そのような想いというのは、事柄が、大きくなればなるほど、強くなるもので、

たとえば、災害があった時、あるいは、今も続いています、戦争や紛争のことを思う時には、自分にできることの小ささを感じてしまいます。

募金なんかをする時も、「こんなお金、募金したところで、役に立つんだろうか」と思ってしまったり、

祈る時も、「祈っても意味があるんだろうか」と思ってしまったり、

自分の小ささを感じて、祈ることすら、できなくなることがあります。

今日の箇所の弟子たちも、そうだったのではないでしょうか。

12節で、弟子たちは、イエス様に「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。」と言っています。

でも、弟子たちは、本当に、集まっている群衆が、自分で宿を取り、食べ物を調達できると思ったのでしょうか。

本当は、助けを求める群衆たちから、離れたかっただけだったのではないでしょうか。

集まった群衆たちは、それぞれ、切羽詰まった事情を抱えていました。

必死にイエス様を求めていました。

10節で、イエス様は、弟子たちを連れて、「自分たちだけで、ベトサイダという町に退かれた」と書かれています。

「退く」というのは、「立ち去る」ということです。

人の多い場所から、人里離れた場所へ、イエス様は、去って行ったのです。

旅から帰ってきた弟子たちを休ませるためでしょうか。

それとも、静まって祈るためでしょうか。

理由は分かりませんが、イエス様は、弟子たちを連れて、立ち去ったわけです。

それなのに、追いかけてきた。

それが、今日の箇所に登場する群衆たちであるわけです。

それだけ彼らは、切羽詰まった事情を抱えていたということです。

教えを求める人もいれば、治療が必要な人もいました。

中には、貧しさや、飢え渇きに苦しむ人たちもいたでしょう。

そんな人々を見つめながら、弟子たちは、自分たちにできることの限界を感じていたのではないでしょうか。

自分たちには、5つのパンと2匹の魚しかない。

こんなもの分けたところで、しょうがない。なんの役にも立たない。意味がない。

そう思って、弟子たちは、手を引こうとしていたのです。

だからこそ、イエス様は、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われたのです。

男だけで五千人の人たちを前にして、自分たちが持っている分があまりにも小さくて、分け合うことの意味すら、わからなくなっていた弟子たち。

そんな彼らに、分け合うことの意味、可能性を示すために、イエス様は、「あなた方が与えなさい」と言われたのです。

マザーテレサが残した言葉の中に、こんな言葉があります。

「もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が与えなかったからです。」

今、この世界には、飢餓で苦しんでいる人が、8億人以上いると言われています。

九人に一人の割合だそうです。

どうしてそんなにも多くの人々が、飢餓で苦しんでいるのでしょうか。

人口が増えているからでしょうか。

食べるものがないからでしょうか。

そうではありません。

むしろ、食べ物は余るほど、作られています。

現在、世界で作られている穀物の量は、年間で、25億トンだそうです。

これを、世界の人口で分けると、一人当たり333キロになるそうです。

生きるために必要な穀物の摂取量が、年間165キロだと言われていますので、必要な量の二倍も生産されているということになります。

じゃあなぜ、飢餓に苦しむ人たちがいるのか。

それは、マザーテレサが言う通り、与えないからです。

持っている者たちが、分けようとしないからです。

多くの人たちは、持っているという自覚もないかもしれません。

むしろ、自分たちの生活で一杯一杯。

他人のことを気にしている余裕なんてないと、思っている。

弟子たちとおんなじです。

五つのパンと二匹の魚しかないと思っている。

そんなもの、差し出しても、意味がない。役に立たないと思っている。

でも、イエス様は、「それを、与えなさい」と言われるのです。

意味がない、役に立たないと思えるようなその五つのパンと二匹の魚を、差し出しなさい。

確かにそれだけで、全員分を賄うことは、できません。

でも、持っている人たち、皆が、それを差し出すならば、必要は満たされる。

「塵も積もれば山となる」と言われますけれども、イエス様が、弟子たちに示したかったのは、まさにそのことなんだと思うのです。

「これしかない。役に立たない。」と思うものでも、皆がそれを差し出せば、必要は満たされる。

皆の分を合わせれば、すべての人が満腹になる。

今日の聖書の箇所は、そんなことを、私たちに、教えているのだと思います。

これは、食べ物だけに言えることではありません。

社会においても、教会においても、そうです。

一人にできることは限られていても、皆が、力を合わせれば、大きな力になる。

「何もできない。何も持っていない。」

「これしかありません」という思考をやめて、持っている分だけ、できるだけを献げていく。

そうやって、一人一人が、差し出していく時、五千人の給食の奇跡は起こるんだということが、教えられているのだと思うのです。

つまり、五千人の給食の奇跡は、私たちにも、起こすことができるということです。

いや、様々なところで、すでに起こっています。

この礼拝もそうです。

この礼拝のために、様々なものが献げられています。

奏楽者による奉仕が献げられています。

お花登板の方は、お花をいけてくださっています。

週報登板の方は、この週報を、作ってくださっています。

掃除登板の方は、掃除をしてくださっています。

ほかにも、参加しておられる一人一人が、時間を献げ、体を献げ、お金を献げ、奉仕を献げておられます。

そうやって、一人一人が、自分の持っているものを献げることで、この礼拝が、成り立っています。

そう考えると、毎週のこの礼拝において、五千人の給食の奇跡が起こっていると、言えると思います。

そのように、私たちは、五千人の給食の奇跡を、起こすことができるんです。

一人一人が、自分の分を差し出すところに、五千人の給食の奇跡は、起こっていくのです。

何度も言いますが、弟子たちが持っていたのは「五つのパンと二匹の魚」だけでした。

イエス様も、持っている以上に差し出せとは、言われませんでした。

持っている分だけ、それだけで良いということです。

その量が、あるいは、その働きが、どんなに小さいものであったとしても、イエス様は、それを喜んでくださいます。

その献げものを、用いてくださいます。

信じて、自分の持っている分を、献げていきましょう。

「これしかない」ではなく、「これがある」。

自分に与えられている恵みを、今一度、思い起こしながら、できるだけを、献げていきましょう。

そこに、五千人の給食の奇跡は、起こっていくのです。

その奇跡の業に、共に、あずかって参りましょう。

お祈りします。

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