2023年4月2日メッセージ「あなたも見ていたのか」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書23章26節〜31節。

新共同訳新約聖書158ページです。

23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。

23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。

23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。

23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。

23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

「あなたも見ていたのか」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

3月の月の讃美歌は、「あなたも見ていたのか」という讃美歌でした。

今日もその讃美歌を歌いましたけれども、皆さんは、どんなことを思いながら、歌ってきたでしょうか。

もう一度、歌詞を、読んでみたいと思います。

1番は、こんな歌詞でした。

1.    あなたも見ていたのか、主が木にあげられるのを。

ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、わたしはふるえてくる。

2.    あのとき見ていたのか、主が釘をうたれるのを。

ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、手足がふるえてくる。

3.    あそこで見ていたのか、主が槍で刺されるのを。

ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、からだがふるえてくる。

4.    あなたも見ていたのか、主を墓に葬るのを。

ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、こころがふるえてくる。

この讃美歌を歌う時、私は、最後までイエス様について行った、女性たちのことを思い浮かべました。

弟子たちが、イエス様を見捨てて逃げていく中、彼女たちは、留まって、見ていました。

イエス様が十字架に架けられるのも、息を引き取るのも、墓に葬られるのも、見ていました。

できることなら、なんとかしたかったでしょう。

捕まっていく時も、裁判の時も、言いたかった。

「違うんです。この人は、何も悪いことなんてしていないんです。」って。

でも、言えませんでした。

見ていることしか、できなかったのです。

十字架にかけられる時も、釘を打たれる時も、槍で刺される時も、墓に葬られる時も、見ていることしかできなかった。

それは、どれだけ辛いことだったでしょうか。

目の前で苦しんでいる人がいるのに、何もしてあげられないって、辛いですよね。

ましてその人が、大切な人であれば尚更です。

何かしてあげたいけど、何もできない。

黙って見ていることしかできない。

「イエス様、ごめん。

イエス様が苦しんでいるのに、何もできなかった。

見ていることしか、できなかった。

なんて自分は、だめなんだろう。

なんて自分は、弱いんだろう。」

そうやって、自分を責めながら、心を震わせている。

この讃美歌を歌う時、そんな様子を、思い浮かべるんです。

だから、この讃美歌を歌うと、ちょっと辛いなって思っていました。

この歌詞、歌うのちょっときついなって、思っていました。

でもね、つい最近、この讃美歌に、5番があることを知ったんです。

5番は、どんな歌詞かというと、こんな歌詞でした。

5、あなたもそこにいたのか、主がよみがえられたとき。

ああ、いま思いだすと、深い深い愛に、わたしはふるえてくる。

この歌詞にあるように、イエス様についていった女性たちは、最後、よみがえったイエス様を見るんです。

死んでいくのを見ていることしかできなかった彼女たちが、一番最初に、復活されたイエス様を見るんです。

ここに、希望があります。

苦しむ人を前に、何もできず、無力感でいっぱいのあなたへ。

無力でもいいから、その人のそばを離れないでほしい。

たとえ何もできなくても、そこにいることに意味があるから。

いつかきっと、喜びの時がやってくるから。

だから、希望を捨てないで。

そう、聖書は、語りかけています。

お祈りします。

・イエス様に従った女性たちではない

今言いました女性たちは、今日の箇所に登場する女性たちでは、ありません。

今日の箇所に登場する女性たちは、最後まで、イエス様についていった女性たちとは、違う人たちです。

最初、私は、そのことに気づかずに、

「今日の箇所に登場する女性たちは、最後までイエス様についていった女性たちだ」と、そう思い込んで読んでいました。

でも、何か、しっくりこないんです。

最後まで従っていった女性たちなら、なんでイエス様、こんなことを言うのかなって、

イエス様の言葉に、腑に落ちないものを、感じていました。

28節から、女性たちに対する、イエス様の言葉が、語られています。

そこには、こう記されています。

28節から

23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。

23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。

23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。

23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

非常に分かりにくい箇所ですが、

要するに、恐ろしい日がやってくるということです。

『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。

当時は、子どもを産むということが、女性にとって、最大の喜びであると考えられていました。

女性の生き方が、非常に制限された時代の考えですが、

でも、イエス様は、「『子を産めない女が幸いだ』と言う日が来る。」と言っておられる。

これはつまり、子どもを産んだことを後悔する日が来るということです。

たとえばそれは、戦争の時代と言ってもいいかもしれません。

ルカによる福音書が書かれたのは、紀元後80年代だと言われています。

すでに当時、エルサレムは、ローマによって、滅ぼされていました。

ローマの圧政に対して、ユダヤ人たちは、戦いを挑んだわけですが、敗北してしまったわけです。

ルカによる福音書は、そんな時代に書かれました。

戦争によって、子どもが酷い目にあう。

命を奪われたり、捕まえられたりする。

そういう状況を目の当たりにしながら、書かれました。

書いた人たちは、きっと、「『子を産めない女が幸いだ』と言う日が来る。」って、こう言うことだったんだって、思ったでしょう。

子どもを産んだことを後悔する。

子どもたちが、こんなにも苦しい目にあうならば、子どもを産めない方が良かった。

それくらい、暗い時代がやってくると、イエス様は言われたんです。

また、その時には、30節「人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。」と言われています。

これも同じです。

あまりに酷い現実に耐えられず、逃げ場を求める、死をすら求める、

そんな時代がやってくるということです。

31節「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

「生の木」というのは、イエス様のことを表し、「枯れた木」は、イエス様を十字架に架ける人々を表すと言われます。

「私でさえ、こうされるなら、彼らは、一体どうなるのだろう。

どれだけ酷い目にあうんだろう。」という言葉です。

そんなふうに、イエス様は、女性たちに対して、恐ろしいことを語っておられるわけです。

子どもを産んだことを後悔するほど、恐ろしい日がやってくる。

全く希望のない。

それどころか、彼女たちを、厳しく、断罪するような言葉です。

なぜイエス様は、彼女たちに対して、そんな言葉を語ったのか。

わからずにいました。

・エルサレムの娘たち

それで調べて見ますと、彼女たちが、イエス様に従っていった女性たちではないということに、気づかされていったのです。

ここで大事なのが、「エルサレムの娘たち」という言葉です。

イエス様は、彼女たちのことを、「エルサレムの娘たち」と呼んでいます。

イエス様に、最後まで従っていった女性たちは、「ガリラヤから来た婦人たち」と言われています。

23章49節、これは、イエス様が息を引き取る場面ですが、

「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」と記されています。

今日の箇所に出てくる女性たちとは違って、イエス様に近づくこともできない。

仲間だってバレたら、どんな目に遭わされるか分かりませんので、「遠くに立って」見つめていた女性たち。

それから、23章55節、これは、イエス様のご遺体が、墓に収められる場面ですが、

「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け」と記されています。

最後まで、イエス様に従っていったのは、この「ガリラヤから来た婦人たち」です。

対して、今日の箇所に登場するのは、「エルサレムの娘たち」。

彼女たちは、イエス様を十字架に架けた、エルサレムの勢力に属する人たちです。

嘆き悲しんでいるのはかたちだけ。

本当の想いではありません。

そのように考えると、彼女たちに対して、イエス様が、厳しいことを言われたのも、納得できます。

「そんなふうに、悲しんでいるふりをするなら、自分と自分の子どものために泣け。

恐ろしい日が、やって来るのだから。」

これは、「目を覚ましなさい。

自分たちのしていることに、気づきなさい。」という、厳しい、悔い改めを迫る言葉です。

・復活の証人へ

教会の暦では、今日から受難週に入ります。

受難週は、イエス様が受けられた苦難、イエス様が背負われた十字架を思いながら、自らの歩みをかえりみる時です。

そういう意味では、「目を覚ましていなさい。」という呼びかけは、時にかなった呼びかけであると思います。

でも、それ以上に、今日覚えたいのは、ガリラヤから従ってきた女性たちのことです。

悲しむふりではなく、本当に、悲しんでいる女性たち。

イエス様が十字架に架けられ、息を引き取られていくのを、遠くから見つめていた女性たちです。

できるなら、イエス様を助けたい。

でも、何もできない。

見ていることしかできない。

そんな女性たちが、復活の証人となっていく。

イエス様の死の証人という、悲しい役目を負わされた女性たちが、復活の証人という、喜びの役割を与えられていく。

このことをこそ、今日は、覚えたいと思うのです。

苦しむ人を前に、何もできず無力感でいっぱいの女性たち。

そんな女性たちが、復活の証人という役割へと、召されていった。

そこには、希望がなくなることはないという、メッセージが語られています。

苦しむ人を前に、何もできず、無力感でいっぱいのあなた。

無力でもいいから、その人のそばを離れないでほしい。

たとえ何もできなくても、そこにいることに意味があるから。

いつかきっと、喜びの時がやってくる。

だから、希望を捨てないで。

そう、聖書は、語りかけているのです。

今日から始まる受難週は、イースターへとつながっています。

たとえ、今、希望が見えなくても、いつかきっと、喜びの時が来る。

そのことを信じて、イースターに向かって、歩み出していきましょう。

お祈りします。

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