2023年3月26日メッセージ「信頼を持って、行け」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書9章1節〜6節。

新共同訳新約聖書121ページです。

9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。

9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、

9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。

9:4 どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。

9:5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」

9:6 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。

「信頼を持って、行け」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

みんなは、「おつかい」に行ったことがあるでしょうか。

今日のお話は、弟子たちにとって、初めてのおつかいのお話です。

イエス様は、神様のことを伝えるため、

病気の人を助けるために、弟子たちに行けと言われました。

これまでは、イエス様がしてきたことを、今度は、弟子たちがするようにって、言われたんです。

きっと、緊張したでしょうし、不安もいっぱいあったことでしょう。

そんな、いっぱい不安を抱えた弟子たちに、よりによってイエス様は、「旅には、何も持って行ってはならない」って言ったんです。

旅にでかけるのに、何も持って行くなって、どういうことだって、思いませんか。

旅に出かける時、みんなだったら、何を持って行くでしょうか。

まず、着替えですよね。

お金も必要です。

私だったら、携帯、パソコン、充電器、歯ブラシとか、髭剃りも持っていきます。

それに、旅には、トラブルがつきものです。

いつ何が起こるかわからない。

雨が降るかもしれないので、傘も持って行った方がいい。

急に寒くなるかもしれないので、上着もいる。

下着だって、余計に1枚や2枚あった方がいいかもしれない。

ズボンだって、1本じゃ心配です。

途中で、破けちゃうかもしれないので、余計に何本か持って行った方がいい。

昔の私は、本当に、そんな感じでした。

だから、いつも、大きなバックがパンパン。

移動するだけで、疲れちゃう。

でも、それだけたくさんの荷物がないと、安心して、出発することができませんでした。

きっと弟子たちもそうだったと思います。

どんな人と出会うだろう。

親切な人はいるだろうか。

泊まる場所はあるだろうか。

食べるものは、大丈夫だろうか。

それでなくても、はじめてのおつかいですから、念には念を入れて、準備を整えていきたかっただろうと思います。

それなのに、イエス様は、「何も持って行くな」って、言われたんです。

なんででしょう。

それは、きっと、もので、不安を埋めるなってことだと思います。

荷物をいっぱい持って、それで、安心しようとするな。

そうじゃなくて、あなた方は、私を信じなさい。

どんな時も、私がいるから、

何かあった時には、私が飛んでいくから、

だから、安心して生きなさいって、そう言いたかったんじゃないでしょうか。

物っていうのは、いつか無くなります。

お金だって、使ったら減っていきます。

無くなったり減ったりする物を頼って、安心したり、不安になったりするんじゃなくて、

絶対になくならない、

いつも共にいてくださるイエス様を信じなさい。

イエス様を信じていれば大丈夫か?

多分ね、大丈夫じゃないですよ。

イエス様を信じてたって、いろいろあるでしょう。

予想外のことも起こります。

乗り越えられないと思うようなことだって、あります。

イエス様ですら、裏切られたり、追い出されたり、大変なこといっぱいあったんだから、弟子たちにだって、そりゃあるでしょう。

でも、大丈夫。

でも、私が共にいる。

イエス様は、そうやって言われるんです。

来週から、4月になります。

新しい歩みが始まります。

学年が上がる人もいるでしょう。

新しいクラスになったり、新しい出発をする人もいると思います。

何が待ってるかわかりません。

大丈夫じゃないこともあるかもしれない。

でも、どんな時も、私たちは、ひとりじゃありません。

イエス様が一緒にいる。

「何も持って行くな。

私があなたと一緒にいる。

私を信じなさい。

私を信じて、思い切っていけ」って、イエス様は、私たちを応援しています。

このイエス様を信じて、新しい歩みに、出発して行きましょう。

お祈りします。

・親心

先週は、お休みをいただきまして、実家のある札幌に帰っておりました。

父親が退職するということで、勤めていた幼稚園の先生たちが、感謝会を企画してくださいまして、そのサプライズゲストということで、招かれて参りました。

最初は、年度末の忙しさに、断るしかないと思っていたのですが、

光さんからも、行ってこいと言ってもらい、

執事の皆さんからも、親孝行してきてくださいと、言っていただきまして、参加してくることができました。

年度末のこの忙しい時期に、武宮姉妹には、礼拝メッセージを引き受けていただき、

執事の皆さんには、総会に向けてのスケジュールも、調整していただき、本当に感謝でした。

おかげさまで、サプライズも成功しまして、少しは親孝行できたように思います。

光さんのおかげで、久しぶりに、親子水入らずの時間も過ごすことができました。

そうしますと、親というのは、いつまでも、子どものことが心配なのか、

やれ、あれはあるのか、これは足りているか、

お腹も出てきて、スーツも入らないだろう。

毎週おなじネクタイだけど、ネクタイはあるのか。

これも必要だろう、あれも必要だろう。

いらないと言うのに、色々、持たせてくれました。

これが親心かなと、感謝して、帰ってきましたけれども、

さて、イエス様は、弟子たちのことが心配ではなかったのでしょうか。

私の両親とは違って、イエス様は弟子たちに、「何も持って行くな」と言われました。

厳しいし、冷たいなと思ってしまいます。

・何も持って行くな?

なぜイエス様は、「何も持って行ってはならない」と言われたのでしょうか。

弟子たちを鍛えるためでしょうか。

そうだとも言えるでしょう。

でも、より正確に言うならば、信じる者となるため。

物に頼るのではなく、神により頼む者となるため、だったのではないでしょうか。

先週水曜日、板井玲子姉妹が、天に召されました。

先週の日曜日には、いつもと変わらず、礼拝に参加されていたと聞きました。

突然の訃報で、いまだに、信じられない気持ちでいます。

今も、この礼拝堂のどこかにいるんじゃないか。

いつも、いらっしゃるのが当たり前でしたので、寂しい気持ちでいっぱいですが、

その玲子さんの葬儀の中で、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というパウロの言葉を読みました。

パウロは、キリスト教会にとって、偉大な伝道者ですが、「実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言われていたり、「棘」と言われる、なんらかの持病も抱えていました。

彼は、その棘が離れ去るようにと、何度も、繰り返し、主に願いましたが、主は、棘を取り去ってはくれませんでした。

祈っても、聞かれず、祈っても、聞かれず、その中で、たどり着いた、イエス様のメッセージ。

それが、「わたしの恵みはあなたに十分である。

力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ。」というものでした。

パウロにとって、棘は、いらないもの、なくなって欲しいものでした。

「ああ、この棘さえなければ、自分はもっと自由に、もっと強くいられるのにな」と、そう思っていた。

でも、違ったんです。

むしろ、その棘は、パウロにとって必要なものでした。

パウロは、その棘を通して、キリストの恵みに気づかされていったのです。

正確には、棘を通して、弱い者となった。

この弱さが、パウロを、キリストへと導いていったのです。

弱いからこそ、キリストを頼り、

弱いからこそ、キリストを信じ、

弱いからこそ、キリストに従っていく。

弱さを通して、パウロは、自分ではなく、キリストにより頼むものとなっていった。

自分の力でなく、キリストの力によって、生きる人となっていったのです。

「強くてはわからない。

弱いからこそわかる、キリストのありがたみ。

弱いからこそわかる、愛されることのありがたみ。」そのようなことを、共に覚えました。

今日の箇所が、教えているのも、きっとそういうことなんだろうと思うんです。

持ち物に満たされていては、わからないことがあるし、

持ち物に満たされていては、できないことがあるのです。

信じるということもそうです。

私たちの目は、見えるものに奪われます。

持ち物に満たされていたら、その持ち物によって安心を得るでしょう。

これだけあるから安心だ。

これだけ持っているから、大丈夫だと、そう思うでしょう。

でも、物はやがて無くなります。

お金も使えば、減っていきます。

そうすると、途端に、不安になってくる。

そんな無くなったり、減っていったりする物を頼りにするのでなく、キリストを信じる。

その信仰をもって、生きて行ってほしい。

そう思ったからこそ、イエス様は、弟子たちかに、何も持って行くなと言われたのではないでしょうか。

あえて、弟子たちから持ち物を奪うことによって、ただ私を信じなさい。

私を信じて、遣わされて行くようにと、弟子たちを押し出して行ったのです。

つまり、イエス様の「何も持って行くな」というのは、「信仰を持って、いけ」ということなのです。

信仰を持って行く。

信じて、出かけて行くためには、ない方が良いこともあるということです。

持ち物に満たされていたり、お金に満たされていては、できない。

何もないからこそできる。

何もないからこそ、生まれてくる歩みを、イエス様は、弟子たちに、経験させたかったのです。

・希望は無くならない

今日の箇所の最後には、

弟子たちが、「村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」と記されています。

何も持たなくても、なんとかなったということでしょうか。

そうではないと思います。

イエス様でさえ、裏切られたり、追い出されたり、大変な目にいっぱいあってきたんですから、弟子たちだって、そりゃ、うまくいかないこともあったでしょう。

癒せない病気だってあったでしょうし、福音を受け入れない人たちだっていたでしょう。

だからイエス様は、迎え入れない時のことを、言っておられるんです。

5節「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」

誰にも歓迎されない時がある。

誰も、受け入れてくれない時があるということです。

でも、そんな時は、「足についた埃を払い落としなさい。」とイエス様は言われます。

「足についた埃を払い落とす」というのは、関係を切ることをあらわす行為だそうです。

受け入れてもらえない時には、自分のせいだと落ち込まないで、相手のせいにすればいい。

相手のせいにして、切り替えて、次に行けと言うことです。

いつか、迎え入れてくれる人がいる。

いつか、喜んでくれる人がいるから。

だから、信じて、出かけて行きなさい。

そんなふうに、イエス様は、弟子たちを励ましておられるのです。

イエス様を信じていれば、なんの問題も起こらない。

イエス様を信じていれば、万事うまく行く、なんて、そんなことはありません。

予想外のことだって起こりますし、しんどいことだってあるでしょう。

でも、決して、キリストの希望がなくなることはありません。

実際、弟子たちは、「村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」と記されています。

その経験は、きっと彼らにとって、かけがえのない経験となったでしょう。

彼らは、その歩みを通して、イエス様への信頼を、確かなものとしていったことでしょう。

・新しい出発

2022年度も、様々なことがありました。

教会玄関のヒマラヤスギに虫が湧いたり、台風で看板が倒れたりすることもありました。

トルコ・シリアでは、大きな地震もあったり、ロシアとウクライナの戦争も続いています。

他方で、3年続いたコロナ危機も、少しずつ回復の兆しが見え、

祈祷会や教会学校、讃美歌を歌うこと、交読文や今月の讃美歌も再開しました。

来週から新年度、新しい歩みが始まりますけれども、どんな1年になるでしょうか。

良くも悪くも、思いがけない出来事や出会いが待っていると思います。

正直、準備は整っていません。

不安もあります。

だからこそ、信じて、歩み出していきましょう。

足りなさや、弱さを覚える時にこそ、できる歩みがある。

そのような者じゃなければ、わからない歩みがある。

イエス様を信じ、イエス様と共に歩む、その歩みへと、共に、出かけて参りましょう。

お祈りします。

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