2024年2月11日主日礼拝メッセージ「友よ〜みそば近くに招く神〜」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書14章7節〜11節。

新共同訳新約聖書136ページ〜137ページです。

14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、

14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。

14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、 同席の人みんなの前で面目を施すことになる。

14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

「友よ〜みそば近くに招く神」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日は、神様の友達について、考えてみたいと思います。

ちょっと想像してみてください。

神様の友達って、どんな人だと思いますか?

神様が、自分の友達だって言われる人って、一体どんな人でしょうか。

たとえば、こんな人でしょうか(熱心に神様を信じている人)。

もしくは、こんな人でしょうか(偉大な学者)。

こんな人を想像する人もいるかもしれません(王様、身分の高い人)。

神様の友達ですから、そんじょそこらの人ではない。

特別な人。すごい能力や、すごい功績を残している人。

熱心に神様のことを信じている人。

そういう人たちのことを、神様は、友達だって言うんじゃないか。

そう思う人が、多いのではないでしょうか。

でも、今日の箇所で、イエス様が教えている神様の友達は、ちょっと違います。

今日の箇所で、イエス様は、神様から「友よ」って呼ばれる人たちのことを話しています。

「友よ、私のところに来なさい」って、神様に呼ばれる人たち。

それは、末席にいる人たちだって、イエス様は言われます。

末席って何かというと、遠くにいる人たち。

神様から、遠く、離れたところにいる人たち。

そういう人たちを、友と呼んで、招いてくださる。

それが神様なんだと、イエス様はそうおっしゃったんです。

神様から、遠く離れたところにいる人たちって、どんな人たちでしょうか。

ちょっと前に、この図を見たの、覚えているでしょうか。

天国に誰が入れるかって、話をした時に見た図です。

これは、弟子たちが考えた図でしたね。

弟子たちは、線を引いて、この内側の人たちが天国に入れて、外側の人たちは入れないって考えていました。

内側にいる人たちっていうのは、イエス様の言うことをよく聞く人たち。

イエス様に従っている人たち。

そう、まさに、弟子たちは、自分たちこそ、線の内側の人間だ、自分たちこそ天国に行けるって思っていました。

それに対して、イエス様はなんて言ったか、覚えていますか。

イエス様、「天国に入るのはね、この線の内側の人たちじゃありません。

この円の外にいる人たち。天国にふさわしくない人たち。入る資格もない人たち。

神様は、そういう人たちを、ご自分の国に、受け入れてくださるんだ」って、そうやって言われたんです。

そして、同時に弟子たちに、「もう一度、胸に手を当てて、考えてごらん。

あなた方は、本当に、線の内側にいるような人間か。

そんな立派な人間か。

違うだろ。

嘘もつくし、すぐ逃げる。裏切ることもある。

あなた方だって、彼らと同じ人間だろ。

でも、そんなあなたがを、神様は受け入れてくださる。

それが、天国なんだ」って、イエス様はそう言われました。

今日の箇所でも、同じことを言っているんだと思います。

神様は、遠くにいる人たちを、友と呼んでくださる。

遠くにいる人たちっていうのは、この円の外側にいる人たちのことです。

天国にふさわしくない人たち。入る資格もない人たち。

神様は、そういう人たちを、友と呼び、ご自分の国に、受け入れてくださるんです。

だから、安心して、生きていきましょう。

神様は、私の友達。

神様は、私たちを、喜んで受け入れてくださっている。

立派じゃなくても、特別じゃなくてもいい。

欠けてるところがあっても、そのままで、友と呼んでくださる。

それが、神様なんだって、イエス様は教えています。

このイエス様のメッセージを、忘れないでいたいと思います。

お祈りします。

・上座に座る人々

今日の箇所は、先週の続きです。

先週、私たちは、イエス様が、食事をするために、ファリサイ派の議員の家に入っていったという場面を読みました。

そこで、水腫の人と出会い、安息日にも関わらず、水腫の人を癒やされたというところから、メッセージを聞きました。

今日はその続きでありまして、場面は、引き続き、ファリサイ派の議員の家です。

ちょうどイエス様が食事の席につこうとしていた時のこと。

イエス様は、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づかいて、彼らにたとえ話をされた。

それが、今日のお話です。

こんな時代から、席次のマナーがあったのだなと驚きますけれども、皆さんは、会食などの場面で、どこに座るか、迷われたことがあるでしょうか。

私は、一度だけですが、上座に座って、怒られたことがあります。

ある会食での話ですが、当時、私は、座る場所に決まりがあるなんて知りませんでした。

たまたま、一番早く食事会の場所に着きましたので、後から来る人たちのことを考えて、奥からつめて座ったわけです。

そしたら、そこが上座だったということで、そこは違うと言われて、移動させられたことがありました。

まあ、牧師同士の世界では、そんなこと滅多にないのですが、中には、社会人のマナーとして、気にされる方もいらっしゃると思います。

教会でも、講師を囲んで、愛餐会なんかする時には、講師席みたいな場所を用意されることがありますが、あれは、上座を意識してのことなのでしょうか。

わかりませんけれども、そんなふうに、席次のマナーというのは、さまざまな場面で見られることだと思います。

調べてみますと、食事の場面だけでなく、会議とか、タクシーに乗る順番、エレベーターに乗る順番にも、上座・下座があるそうです。

私は、そういうマナーには疎いものですが、特に、営業職の方なんかは、こういうことに気を使わなきゃいけない場面が多いようで、大変なんだろうと思わされますが、そういう習慣が、イエス様の時代にも、あったということです。

ファリサイ派の議員の家に招かれた人たちは、そういうマナーを承知で、自ら上席を選んでいきました。

このことについては、イエス様もおっしゃっておりまして、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」という言葉が、聖書に記されています。

上座に座ることを好む、どんな気持ちなんでしょうか。優越感があるんでしょうか。

私なんかは、むしろ、そういう場所は避けたいと思う方で、そういう人の気持ちというのは、あまり想像できないんですが、おそらくそこには、周囲よりも上に立ちたいという想いがあるのだと思われます。

相当な自信がなければ、自ら進んで、上席に座ることは、できないようにも思いますが、

まあしかし、今日の場面で、上席を選んだ人たちは、招待されたお客さんだったということで、上席を選ぶのも、間違いではないのかなとも思います。

・イエス様の言葉、その真意は?

しかし、そんな人々に、イエス様はいうわけです。8節から、

14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、

14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。

14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、 同席の人みんなの前で面目を施すことになる。

なるほどと思わされます。

どんな人が招待されているかわからない。

あとから、自分よりも身分の高い人が来るかもしれない。

その時に、恥をかかないように、末席に座っていなさいとイエス様はおっしゃるわけです。

イエス様は、社会人としてのマナーを教えているんでしょうか。

あるいは、社会の中で、うまく生きていくための処世術を教えているのでしょうか。

確かに、そのように受け取ることもできますが、

でも、それなら、なぜ、わざわざ、たとえ話にされたのでしょうか。

なぜわざわざ、婚宴のたとえを語られたのでしょうか。

聖書を読んでいくと、時々に、イエス様のたとえ話が出てきますが、その多くは、神の国の宣教に関わるものです。

神様とはどういうお方であるか、神の国とはどういう場所であるか。

そのことを示すために、イエス様は、たとえ話を語られてきました。

これまで読んできました、種まきのたとえもそうでしたし、善きサマリア人のたとえも、愚かな金持ちのたとえもそうでした。

みな、神の国、あるいは神の御心を教えるために、語られていました。

中でも、婚宴、結婚式にたとえて語られる場面、イエス様の話には、時々出てきますが、それはよく、神の国の食卓をあらわすものとして、語られています。

ですから、今日のたとえ話も、単なる処世術として語られたのではなく、神の国に関わるものであると思うわけです。

・神の国のたとえとして

では、今日のたとえ話には、どんな神の国が語られているのかということですが、

そのことを考える時に、注目したいのは、10節にあります、家の主人の言葉です。

10節「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう」と言われています。

「あなたを招いた人」というのは、家の主人ですから、神の国で言えば、神様ご自身ということになります。

つまり、末席に座っていると、神様が来られて、「『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう」と言われているわけです。

『さあ、もっと上席に進んでください』と訳されていますこの言葉。

ギリシャ語本文で読みますと、「フィレー」という言葉で始まっています。

これは、「友」という意味の言葉です。

なぜ、新共同訳聖書は、この言葉を書いていないのか。

他の翻訳を見てみますと、ほとんどの訳が、「友よ」と訳しています。

口語訳や文語訳も、新しく出ました共同訳も、「友よ」と訳しています。

この言葉が、私は、とても心に残りました。

末席にいる者に、神様が、「友よ」と呼びかけられる。

このことを思う時に私は、今日の招詞で読んでいただいた箇所を思い出しました。

マタイによる福音書26章50節「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。

これは、裏切り者のユダの手引きによって、イエス様が捕えられる場面です。

ここにも、「友よ」という言葉が記されていますが、ここで、イエス様が「友よ」と呼びかけている相手。

それは、裏切り者のユダです。

イエス様は、裏切られることを承知で、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われたのです。

これこそ、末席にいる者を友と呼ぶ、神様の姿であると思います。

そしてさらに、神様は、その者を、上席に進むよう招かれます。

神の国の食卓において、上席に座る者とは、いったい誰でしょうか。

それは、神様以外にはいないと思います。

つまり、上席に来るよう招くというのは、神様のみそば近くに招くということです。

神様が、末席にいる者を「友」と呼び、自分の近くに招いてくださる。

これこそまさに、神の国の福音です。

この福音を語るために、イエス様は、婚宴のたとえ話を語られたのだと思います。

自分の身分や行い、功績に自信を持って、自ら上座を選ぶ人々に、神の国というのは、身分や行いによって入る場所ではない。

ただただ、神の愛によって、赦されて入る場所。

それが神の国なのだと、イエス様はそう教えておられるのです。

・上席の誘惑から解放されて

ある注解書を読んでいましたら、イエス様の弟子のヤコブとヨハネが、イエス様に、「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください。」と頼む箇所が引用されて、その後に、「上席を狙っているのは律法学者やファリサイ人ばかりではない」と書いてありました。

非常にドキッとしました。

最初に、上席を選ぶ人の気持ちはわからないと言いましたが、自分自身の中にも、そういう欲求があるかもしれない。

教会の中にも、そのような誘惑があるかもしれない。

改めて、イエス様の言葉に、目を開かれていたいと思います。

使徒パウロが、「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)と書き残しているように、どんなに立派な人も、身分の高い人も、神の前で誇ることはできません。

神の前に立つ時、誰もが、弱さや欠けを抱えていることを知るでしょう。

でも、そんな私たちを、神様は、友と呼び、みそば近くに招いてくださる。

裏切り者のユダをも友と呼び、御許へと召してくださる。

それが、神様であるということを、心に留めたいと思います。

私たちに求められているのは、神の国を目指して、努力することではなく、末席にいる私たちを友と呼び、御許に招いてくださる。

その神様を覚え、感謝して、喜んで生きることです。

それが、福音に生きるということなのだと思います。

今日から始まる1週間、福音に生きていきましょう。

お祈りします。

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