2022年10月30日メッセージ「あなたは良い木」

聖書

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書6章43節〜49節。

新共同訳新約聖書114頁です。

​​

6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。

6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。

6:45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。

6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。

6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。

6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

「あなたは良い木」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

子どもメッセージ

今日の聖書には、イエス様のこんな言葉が、記されています。

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」

ここで言われている「木」っていうのは、人のことを表します。

そして、「実」っていうのは、「結果」とか「成果」のことです。

つまり、この言葉は、「良い人は、良い結果を、悪い人は、悪い結果をもたらす。

人の良し悪しは、その人のもたらす結果によって分かる」ってことです。

この言葉を聞いて、みんなは、どんなことを思うでしょうか。

こんなこと言われたら、普通は、「良い結果を出したい」「良い結果を出さなきゃ」って思うと思います。

「良い人になるためには、良い結果を出さないと。」

「努力して、頑張って、良い結果を出さないと。」

そんなふうに、思わせる言葉だって思うでしょ。

でも、イエス様は、そんなことを伝えたいのでしょうか。

「頑張って、良い結果を出せ」なんて、そんな言葉は、この世の中に溢れています。

わざわざ言われなくても、みんな心の中には、「頑張って、結果を出さないと」。

「何か良い成果を出さないと」って、気持ちがあると思います。

テストがあれば、良い点を取らないとって、思うでしょうし、

サッカーがあれば、良いシュートを決めないと、

良いプレーをしないとって、思うでしょう。

そして、そうしなきゃ、そうしなきゃって思って、焦ったり、

良い結果をだしたいけど、だせなくて、苦しんでる人が、いっぱいいるんじゃないでしょうか。

私も、小学校の野球の試合の時には、思っていました。

私の場合は、どちらかというと、悪い結果を出さないようにって、思うことの方が多かったですが、

でもやっぱり、良いプレーがしたい。

ヒットが打ちたいって、思っていました。

でもその思いが強ければ強いほど、焦って失敗したりしたことが、よくありました。

そんな人たちにとって、今日のイエス様の言葉は、ちょっと辛い言葉に聞こえると思います。

「やっぱり、良い結果を出さないといけないんだ」って、そんなふうに思わせるような言葉だと思います。

でも、そんなことを、イエス様は伝えたかったんでしょうか。

「頑張って、良い結果を出しなさい」って、そんなことを伝えたかったんでしょうか。

今日の箇所を読む時に、覚えておくべきことが、一つあります。

それは、これです。

「わたしたちは、良い木である」。

そもそも私たち一人一人は、良い木だってことです。

神様は、わたしたちを良い木として、この世に植えてくださった。

そのことを覚えながら、今日の箇所を読むと、違うメッセージが聞こえてきます。

それは、「良い木は、必ず、良い実を結ぶ」ってことです。

大丈夫、あなたは、良い木なんだから、良い実りを結ぶに決まってる。

良い結果が出せないで落ち込んでる人、苦しんでいる人、焦ってる人。

大丈夫、あなたは良い木だ。

私を、信じなさい。

大丈夫、あなたは必ず、良い実を結ぶから。

だから、安心して、生きていきなさいって、イエス様は、そう言っているんです。

今日の箇所を読む時に、大事なのは、まず、自分が、良い木だということを覚えること。

そして、良い木は、必ず、良い実りを結ぶって言われた、イエス様の言葉を信じることです。

「良い結果を出さなきゃ」って、焦る必要もないし、

「良い結果が出せない」と言って、落ち込む必要もありません。

私たちは、神様が植えられた良い木なんだから、生きていれば、いつか必ず、良い実を結びます。

イエス様の言葉を信じて、生きていきましょう。

お祈りします。

​そんなこと言いたいの?

聖書には、たくさんの言葉が記されていまして、

中には、読んでいて心地良い、読むだけで慰められる、という箇所もありますけれども、

反対に、厳しいとか、大変だと、感じる箇所もあります。

今日の箇所は、どちらかというと、読むのがしんどい箇所ではないかと思います。

たとえば、43節、44節。

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」と記されています。

なんだか、「結果が全て」と、言われているように感じてしまいます。

良い人かどうかは、良い結果を出すかどうかで決まる。

そんなふうに言われたら、良い結果を出したいと思うのが普通です。

良い結果っていうと、

学生でいったら、テストで良い点を取ることでしょうか。

会社員なら、仕事で良い成果を出すことでしょうか。

イエス様は、そういうことを言いたいんでしょうか。

良い結果を出すために、頑張りなさい、努力しなさいって、そう言いたいんでしょうか。

今日の箇所の後半には、こんな言葉もあります。

46節「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」

「主よ主よ」って、口ではそんなふうに言うけど、全然行っていない。

言ってることと、やってることが、違うじゃないか。

私の言葉を聞いて、それを行う人になりなさい。

そんなふうに、語られているように、聞こえます。

「聞いて行う」。

聞くだけで終わりじゃなくて、聞いて実行する人になる。

とても大事なことですが、「行わなければならない」と言われているようで、これもまた、しんどくなります。

そんなふうに、今日の箇所は、「結果を出さなきゃ」とか、「聞いて行うものにならなきゃ」って、そうやって感じてしまう箇所だと思います。

「行い」とか「結果」とかって、この世の中で、嫌というほど聞かされている言葉です。

そういう社会の中で、結果が出せなくて苦しんでいる人。

良い行いをしなきゃと思いながらも、そうできなくて、苦しんでいる人。

自分を責めている人、劣等感を抱いている人。

そういう人たちが、大勢いるのではないでしょうか。

イエス様のところに集まっていた、病人や貧しい人たちも、きっとそうだったと思います。

律法主義、結果主義の世の中で、苦しみ、傷ついていた。

そんな人たちに対して、イエス様は、やっぱり結果だ、行いだって、言われたんでしょうか。

そんなはずがないと思います。

むしろ、イエス様は、そういう世の中で苦しみ傷んでいる人を励ますため、

そういう人たちに生きる力を与えるために、み言葉を語られました。

今日の招詞にも書いてあります。

「主が私を遣わされたのは、貧しい人に福音を、捕らわれている人に解放を、主の恵みの年を伝えるため」だって。

そういう視点に立って、今日の箇所を、読み直してみたいと思うのです。

良い木とされている

まず43節~45節。

この箇所を読む時に、大前提として、まず大事なのは、私たちが、良い木とされているということを、信じることです。

神様が、私たちを、良い木として植えてくださった。

この世に、良い木として、植えてくださったんだと、信じることです。

イエス様がもたらしてくださった福音というのは、まさにそういうことだと思います。

「あなた方は、地の塩である。世の光である。」

イエス様は、救いを求めてやってきた人々に、そう語りかけました。

自分なんて、誰からも必要とされていない。

何の役にも立たない。

生きている価値があるんだろうかって、悩んでいる人たちに、イエス様は、「あなた方は、地の塩である。世の光である。」って言われたんです。

ルカによる福音書の中には、「放蕩息子のたとえ」や、「見失った羊のたとえ」が語られていますが、

そこでイエス様が教えておられるのは、「誰一人、欠けて良い人なんていない。全ての人が、かけがえのない存在なんだ」ということです。

これこそまさに、福音です。

この福音を前提に、今日の箇所を読み直したいと思います。

43節44節「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。

木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」

すでに、私たちは、良い木なんだ。

良い木として植えられているだ、ということを前提にして読むと、次のようになります。

「すでに、あなた方は、良い木として植えられている。

良い木とされているのだから、悪い実を結ぶはずがない。

大丈夫。あなた方は、必ず、良い実を結ぶ。

信じて歩みなさい。」ということです。

イエス様が言いたいのは、努力して、結果を出して、良い木になるということではありません。

自分の力で、良い木になるということではなくて、

あなた方は既に、良い木とされているんだから、

神様によって、良い木とされているんだから、そのことを感謝して、信じて歩みなさいということです。

先ほど私は、「結果が出せなくて苦しんでいる人。

良い行いをしなきゃと思いながらも、そうできなくて、自分を責めている人。

劣等感を抱いている人がたくさんいる」と言いましたが、私自身、その一人です。

牧師として、頑張って、良い結果を出さないと。良い牧師にならないと。

そういう想いが、常にあります。

それは、牧師として立てられているものとして、当たり前のことだと思いますが、

しかし、そう思えば思うほど、できない自分が見えてきてしまいます。

なかなか思うような結果を出せない。

思うように仕事ができない。

「あの人は、こんなに頑張っているのに、

あの人は、こんなに結果を出しているのに、自分はなんてダメなんだ…。」

良い牧師になろうと思えば思うほど、そうできない自分が見えてきて、劣等感ばかりが大きくなる。

そして、苦しくなる。

そんなことが、よくあります。

きっと、イエス様のもとに、集まってきた人たちも、そういう人たちだったんだろうと思うんです。

そんな人々に、イエス様は、「良い木にならなきゃって、思わなくていい」って言っているんです。

「あなた方は、すでに、良い木とされているんだ。

良い木として、植えられているんだ。

だから、悪い実を結ぶはずがない。

大丈夫。あなた方は、必ず、良い実を結ぶ。

信じて生きていきなさい。」

イエス様は、そう言っているんです。

求められているのは、良い木になろうと頑張ることではありません。

福音を信じて生きていくことです。

「あなた方は地の塩である。世の光である。良い木である。」

この福音を信じて、生きていくことです。

土台があるか

これは、後半の46節~49節で言われていることとも、繋がっています。

ここでイエス様は、「聞いて行う人になりなさい」とは、言っていません。

47節「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」

私の言葉を聞いて行う人が、どんな人に似ているか示そうって、言っています。

どんな人に似ているかは、続く、48節、49節に記されています。

48節49節

6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。

6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

聞いて行う人は、「岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」と言われ、

逆に、聞いても行わない人は、「土台なしで地面に家を建てた人に似ている。」と言われています。

違いは、簡単、土台があるかないかです。

ここに大事なメッセージがあります。

少し、土台について考えてみたいと思いますが、

土台というのは、上に建てられている建物を、支える部分です。

家だったら、この部分、お城だったら、この石垣のところです。

家でも、お城でも、その建物の重みを、受け止めている部分。

それが、土台です。

この土台があるかどうか、そのことが問われているのです。

それはつまり、自分を、任せられるもの。

信頼できるものが、あるかどうか、ということです。

イエス様の言葉を聞いて行う者となるために、一番重要なのは、この信頼です。

イエス様を、自分の人生の土台とすること。

イエス様に、自分の体重を任せること。

そうやって、信頼するということです。

大事なのは、自分の力で頑張ることじゃありません。

イエス様を信じることです。

イエス様を信じて、イエス様に、自分の主導権を預けて、生きていくことです。

その時に、御言葉に生きる生活が、始まっていくのです。

​結

結論として、今日私たちが覚えたいのは、3つあります。

1つ目は「既に私たちは良い木とされているんだ」ということ。

努力して、頑張って、良い木になるというのではなくて、既に良い木とされているんだということ。

2つ目は「良い木とされているんだから、いつか必ず、良い実を結ぶ」ということ。

いつかはわかりませんし、その良い実というのが、私たちの思うような結果ではないかもしれません。

でも、いつか必ず、良い実を結ぶ。

そのことは、決まっているということです。

ですから、3つ目、結果は、求めるのでなく、信じる、そして任せることです。

「イエス様の言葉を信じて、任せる」これが、3つ目です。

中でも一番大事なのは、信じて、任せることだと思います。

どうしても私たちは、結果を求めてしまいます。

良い結果を出したい、良い結果を出さなきゃ。

そうやって、思えば思うほど、焦ったり、空回りしてしまったり、

あるいは、結果が出せなくて落ち込んだり、自分を責めたりしてしまいます。

そんな人たちに、「結果は、後からついてくる。

神様に信頼して生きていれば、結果は必ず、後からついてくる。

信じて、結果は神様に任せて生きていきなさい」と、

イエス様は招いているんじゃないでしょうか。

この招きに応えて、信頼して生きていきましょう。

この信頼こそ、み言葉に生きる第一歩です。

お祈りします。

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