2023年11月5日礼拝メッセージ「それでも希望はなくならないから」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書12章35節〜48節。

新共同訳新約聖書132ページです。

12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。

12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。

12:37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。

12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。

12:39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。

12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

12:41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、

12:42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。

12:43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。

12:44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

12:45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、

12:46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。

12:47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。

12:48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

「幸いな日として迎えるために」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・感謝

先週は、体調不良により、礼拝をお休みしてしまい、申し訳ありませんでした。

木曜日の夜ぐらいから体調がおかしいなと思っていましたら、翌日から高熱が出まして、病院で診てもらったところ、扁桃炎ということでした。

39度台の熱が続きましたので、インフルエンザかコロナじゃないかと思いましたが、検査の結果、両方とも陰性ということで、一安心でした。

家族に感染することもなく、無事、回復することができました。

コロナの時に続いて、私の代わりに、礼拝メッセージをしてくださいました石井兄弟には、本当に感謝いたします。

また、お祈りいただきました皆様、本当にありがとうございました。

・テーマ

今日は、時間の都合上、子どもメッセージと大人のメッセージを一緒にさせていただきたいと思いますが、

最初に皆さんに、一つ、聞きたいことがあります。

皆さんは、今、待っていることがあるでしょうか。

見たい映画があって、その公開日を待っているという方もいらっしゃるかもしれません。

また読みたい本があって、その出版日を待っているという方も、おられるかもしれません。

私は、学生時代から、毎週欠かさず読んでいる本がありまして、その本が出版される日を、毎週心待ちにしていますが、皆さんの中にも、そのような方がいらっしゃるかもしれません。

あるいは、早くクリスマスが来ないか、正月にならないかと、待っている人もいるかもしれません。

今日は、この「待つ」ということについて、考えてみたいと思います。

・「待っている人のようにしていなさい」

36節、イエス様は、次のように言っています。

12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。

「婚宴から帰ってくる主人を、待っている人のようにしていなさい」と、イエス様は言われます。

婚宴というのは、結婚式のことです。

結婚式といえば、まず式があって、披露宴があって、場合によっては二次会、三次会なんていうふうに続いていくこともあるわけですが、長くても、1日で終わるものです。

それに対して、ユダヤの結婚式は、1週間続くこともあったと言われています。

1週間も、何をするんでしょうか。

一度出てみたいなと思ったりもしますが、1週間もありますので、きっと、招かれた客も出たり入ったりするものなのだろうと思います。

イエス様の話に出てくる主人も、どこかで、家に帰ってくる。

でも、いつ帰ってくるのかは、わからないわけです。

早めに帰ってくるのか、それとも、遅くなるのか、わからない。

これは、待つ方からすると、とても、迷惑な話です。

皆さんも、家族の帰りを待ったことがあると思います。

今日は、何時に帰るのか。いつ帰ってくるのか。

時間がわからないと、準備のしようがありません。

晩御飯はいるのか。外で食べてくるのか。

何の連絡もなく、やきもきされた経験のある方も、いらっしゃるかもしれません。

イエス様の話に登場する主人も、いつ帰ってくるのか、明らかにされていません。

真夜中とか、夜明け、なんていうふうにも書かれています。

大変迷惑な主人です。

でも、イエス様は、その主人が戸を叩く時、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさいと、言われるのです。

とても、難しいことに思います。

常に目を覚ましていなければならない。

眠気を堪えて、待っていなければならない。

これは、大変なことです。

・誰を、何を、待つのか

ただ、どうでしょうか。

待つ相手が、メジャーリーガーの大谷翔平選手だったら、どうでしょうか。

あるいは、大好きなアイドル、憧れのスターが会いにきてくれるとしたらどうでしょうか。

体力の限界を超えても、待とうという人も、いるのではないでしょうか。

ちょっと話がズレるかもしれませんが、私も、大好きなもののためならば、待つことはそんなに苦ではない方でありまして、以前、大好きなラーメンのために、1時間半、列にならなんだこともありました。

今はもう見れなくなりましたが、最新のiPhoneが発売する時には、何日も前から、Apple Storeの前に並ぶ人たちもいました。

そのように、何を待つか、誰を待つかということによって、心持ちも、変わってくるものだろうと思います。

ここで、イエス様がおっしゃっている主人というのは、イエス様ご自身のことを指していると言われます。

この話は、イエス様が、再び来られる。

いわゆる、再臨の出来事を語っている話であるということです。

つまり、イエス様は、ご自身が、再びこの世に来ることを、待っていてほしいと、思っておられるということです。

帰りを待っていてほしいと、思っておられる。

そして、もし、帰ってきた時に、目を覚ましている者がいたとしたら、喜んでその者をもてなしてくださると、言われています。

37節「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」

イエス様自らが、帯を締め、食事の準備をし、もてなしてくださる。

今日は、この後で、主の晩餐式を行います。

主の晩餐式は、イエス様が弟子たちと共に囲まれた、最後の晩餐を思い起こすものですが、それだけじゃありません。

まさに今日の箇所で言われています、再臨のイエス様と共に囲む晩餐を、先取りするものだというふうにも言われています。

主の晩餐は、過去の出来事ではありません。

いつか、本当に、イエス様と食卓を囲む日が来るんです。

そのためにイエス様は、待っていなさいと言われるのです。

この喜びの宴会を信じて、待っていてほしい。

ただ漠然と、その日を待っていろと言われているのではありません。

イエス様と共に囲む、主の晩餐を目指して、待ち望むようにと招かれているのです。

きっと、その食卓は、この世では経験できないほど、嬉しくて、楽しい食卓なのだろうと思います。

その食卓を信じて、待ち望みなさいと、招かれているのです。

・「待つ」って何?

でも、「待つ」とは、具体的にはどういうことでしょうか。

「待つ」にもいろいろあります。

待ち合わせの場合は、指定された場所に居続けること。

それが待つということになるでしょうし、ラーメン屋で待つと言えば、列に並ぶということを意味します。

映画の公開日を待つ場合は、時が経つのを待てば良い。

特に準備することはありません。

そんなふうに、「待つ」と言っても、具体的には、色々あるわけです。

今日の箇所にも、色々書かれています。

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とか、「戸をたたくとき、すぐに開けられるようにしていなさい」とか、「目を覚ましてなさい」とも書いてあります。

でも、これらは一体、どういうことでしょうか。

具体的には、どんなことが、求められているのでしょうか。

ここで注目したいのが、今日の後半に書いてあります、「忠実な僕と不忠実な僕」の話です。

両者の違いは、主人の言いつけを守ったかどうかにあります。

主人の言いつけを守った忠実な僕は、主人に、全財産を任されるに違いないと言われています。

一方、不忠実な僕は、主人の帰りが遅いと思って、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔っ払っていた。

すると、思いがけず主人が帰ってきて、厳しく、その僕を罰するだろうと、言われています。

当然のことでしょう。

だって、主人は、僕たちと会えることを楽しみにしているんです。

僕たちと一緒に食事ができることを、楽しみにして、帰ってくる。

それなのに、家の中が、めちゃくちゃになっている。

食べたり飲んだり酔っ払ったり、好き勝手やっている者もいれば、傷だらけで、泣いている者もいる。

恐怖に、震えている人たちがいる。

いったい誰だ。俺の僕たちを、俺の家を、こんなにめちゃくちゃにしたやつは。

怒りに燃えるのは、当然のことだと思います。

でも一方で、今のこの世界は、どうでしょうか。

もし、イエス様が、今、この世界に帰ってこられたら、どう思うでしょうか。

この世界の有り様を見て、なんて言われるでしょうか。

忠実で賢い管理人に任された仕事。

それは、時間通りに食べ物を分配するということでした。

時間になったら、食べ物を分ける。

それが、忠実な僕に任された仕事です。

私たちが、なすべきことも、これなのだと思います。

みんなで、食べ物を分ける。分かち合うということ。

それが、イエス様の帰りを待つ私たちに、求められていることだということです。

これは決して、無理なことではありません。

「いつ帰ってくるかわからない主人を、目を覚まして待ち続けなさい。」

無理難題に聞こえたその呼びかけですが、具体的には、みんなで食べ物を分ける、分かち合うということ。

イエス様が求めているのは、その一点なんです。

そのことさえ守っていれば、イエス様は喜んで、私たちをもてなしてくださる。

このことを、改めて、心に刻みたいと思います。

・結論

イエス様は、いつか必ず、帰って来られます。

いつ帰ってくるかは分かりませんが、いつか必ず帰ってきます。

その日を、幸いな日として、喜んで迎えられるかどうかは、私たち自身にかかっています。

この説教を準備していました時に、ある牧師のメッセージを読みました。

そこには、イエス様を待ち望むというのは、子どもが母親を待って、留守番している時に似ていると、書いてありました。

今か今かと待って、帰ってくると玄関に向かって走って迎えに行く。

そんな出迎えを、イエス様は期待しているのだと書いてありました。

その文章を読みながら、ふと、自分自身の幼い頃を思い出し、いつも喜んで出迎えるなんて、そんなことないだろうと思いました。

親が帰ってきた時に「やばい!」と思ったことがある方、皆さんの中にも、いらっしゃるんじゃないでしょうか。

詳しくは言いませんけれども、イエス様が帰ってきた時も同じです。

喜んで迎えるか、それとも、「やばい!」と思うか。

それは、自分にかかっています。

その時を、喜んで迎えられるように、主の求めておられることを、なすものでありたいと思います。

今一度、心に覚えたいと思います。

イエス様が、私たちに、望んでおられること。

それは、分かち合うことです。

分かち合うというのは、持っているものを分け合うということです。

持っていないのに、分け合わなきゃと思う必要はありません。

持っているものを、分け合えばいいのです。

自分には、何があるか。自分は何を、持っているか。考えてみてください。

どんな人も、必ず、分かち合える何かを持っているはずです。

神様は、一人一人に、賜物を与えてくださっています。

その賜物を、考えてみてください。

中には、人と比較して、自分の賜物を小さく感じたり、少なく感じたりしている人がいるかもしれません。

しかし、大きいも小さいも、多いも少ないも、関係ありません。

それぞれの賜物を、それぞれの量で、形で、分け合っていけば良いのです。

ただし、イエス様は言われます。

「多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

多く持っている者たちの責任は重いということです。

自分に与えられている賜物を、過小評価してはいけません。

神様から与えられているものを、感謝を持って、受け取っていきたいと思います。

そして、分かち合っていきたいと思います。

自分に、自分たちに、与えられている賜物とはなんでしょうか。

それを見つけ、分かち合っていく。

そうやって生きていれば、いつか必ず、喜びの日がやってくる。

幸いな日が、やってくる。

その日を信じて、分かち合う歩みを続けていきましょう。

お祈りします。

主なる神様

み言葉を感謝いたします。今日、改めて、イエス様が帰って来られること。この世界に、再び来られることを、覚えました。どうぞ、その日を、喜びの日として、迎えることができますように、私たちの歩みを、整えてください。イエス様の帰りを待つ者として、与えられているものを、互いに、分かち合う者と、なっていくことができますように、どうぞ、私たちを、導いてください。奪い合い、争いが終わりますように。今、この世界の中で、私たちにできることを、教えてください。どんなに小さく思えることも、軽んずることなく、差し出していくことができますように。私たちを、どうぞ、分かち合う者としてください。ここから始まる、新しい一週間の歩みを、あなたの御手に委ねて、私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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