2023年1月8日メッセージ「罪人として生きる恵み」

・子どもメッセージ

今日の聖書の箇所には、「罪深い女」と呼ばれていた、一人の女の人が出てきます。

もちろん、この人にも、名前があったと思います。

でも、名前で呼ぶ人は誰もいなかった。

みんな、「罪深い女」と呼んでいました。

なぜ、彼女が、そんなふうに呼ばれるようになったのか。

詳しいことは、何も書かれていません。

でも、おそらく、何か、間違ったことをしてしまったんでしょう。

それ以来、みんなから、「罪深い女」と言われるようになった。

みんなから「罪深い女」って言われるって、どんな気持ちだったでしょう。

もし、みんなが、「犯罪者!」「悪者!」って、みんなから言われたら、どんな気持ちでしょう。

とても苦しく、辛い気持ちになると思います。

人と会いたくない。

人に気づかれたくない。

きっと、この女の人も、人目を避けて、隠れるようにして、生きてきたんじゃないかと思います。

そんな彼女が、今日の聖書によると、招かれてもいない宴会にやってきたって書いてあります。

たくさんの人たちがいる、宴会の場に、やってきた。

「罪深い女だ!」「お前なんて、招いてないぞ!」「帰れ、帰れ!」って、

そんなふうに言われることを承知で、それでも、宴会にやってきた。

それは、イエス様に会うためでした。

イエス様に会いたい。

会って、感謝の気持ちを伝えたい。

その一心で、彼女は、イエス様のもとに近寄り、イエス様に香油を塗りました。

香油っていうのは、良い匂いのする油で、簡単に手に入るものではありませんでした。

とても高価なものだったって言われています。

それを、惜しげもなく、イエス様のために使ったんです。

イエス様は、とても喜びました。

そして、言いました。

「彼女は、赦しの大きさを知っている。だから、こんなにも人を愛することができるのだ。」

赦されるとか、受け入れられるってことが、どれだけすごいことか。

どれだけ、ありがたいことか。

彼女は知っていました。

それは、彼女が、「罪深い女」だったからです。

自分の罪を知っていた。

自分が、どれだけ汚い人間か。悪い人間か。罪深い人間か。

彼女は、嫌というほど、そんな自分を知っていました。

とても苦しかったと思います。

でも、だからこそ、そんな自分を受け入れてくれる、イエス様の大きな愛に気づくことができたんです。

私たちも、時に、自分の罪に気づかされることがあります。

自分の汚さや、醜さに気づくことがある。

それは、痛いことだし、苦しいことです。

でも、それは、同時に、イエス様の大きな愛に気づくチャンスでもある。

こんな自分を、イエス様は受け入れてくださっている。愛してくださっている。

醜い部分も、汚い部分も含めて、受け入れてくださっている。

そのことに気づく時に、人は変わります。

赦された人は、愛する人になる。

今日は、そのことを、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・対照的な二人

今日は、説教題を「罪人として生きる恵み」としました。

罪人として生きるとは、恵みに生きるということだと、今日は、そのことを、共に覚えたいと思っております。

子どもメッセージでは、特に、「罪深い女」と呼ばれた女性に焦点を当てましたけれども、

ここからは、ファリサイ派のシモンに、焦点を当てて、読んでいきたいと思います。

彼に焦点を当てて読んでいきますと、実に、この「罪深い女」と、対照的な人物であることがわかります。

どこが対照的か。

何よりまず、彼は、シモンという名前で呼ばれています。

「罪深い女」は、名前も覚えられていなかったのに、彼は、ちゃんと名前を覚えられています。

それは、彼が、みんなから尊敬を集めていた証拠でしょう。

彼は、ファリサイ派であったと言われています。

ファリサイ派というのはユダヤ教の一派で、律法を厳格に守り、人一倍、正しく生きることに誇りを持っていた人たちでした。

きっと、周りの人たちからも、信頼されていた人物だったのでしょう。

彼は家の長として、宴会を主催し、人を招くことができる人物でした。

イエス様も、彼に招かれて、食事の席についていました。

シモンとは、そのような人物であります。

「罪深い女」とは、まるで対照的。

正しい人で、周囲からも尊敬され、宴会を主催することができるほどの人物だった。

一方は、名前も覚えられることのない、「罪深い女」。

もう一方は、みんなから尊敬される、宴会の主催者、ファリサイ派のシモン。

もしなるとしたら、みなさんは、どちらになりたいと思うでしょうか。

当然、シモンと、お答えになると思います。

でも、イエス様の言葉は、そんな私たちの視点を問い、新しい世界へと招くのです。

・冷ややかに見つめるシモン

「罪深い女」は、シモンの家の宴会にイエス様がいると知りました。

律法に厳格なファリサイ派のシモンの家。

そこは、彼女にとって、最も入りにくい場所だったでしょう。

当然、招かれてもいませんし、入ったらどうなるか。どんな目に遭うか。

想像もできたと思います。

しかし、彼女は、それを承知で駆けつけ、イエス様の足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗りました。

想いもしないことだったと思います。

突然の事態に、家の中にいた人たちは、さぞ驚いたことでしょう。

そして、非常識、場違い、強い不快感を持って、その様子を見つめていたことでしょう。

宴会の主催者であるシモンは、心の中で思っていました。

「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。

これは、イエス様に対する言葉です。

イエス様は、やもめの息子を生き返らせるという奇跡を起こされて以来、大預言者と呼ばれるようになっていました。

そんなイエス様に対する、皮肉と言いますか、冷たく、軽蔑したような言葉です。

「預言者ともあろうお方が、この女の正体もわかっていない。

罪深い女に触れられて喜んでいるなんて、なんと恥ずかしいことか。」と、まあ、そんな感じでしょうか。

・イエス様の言葉

しかし、イエス様は、知っていました。

彼女のことも知っていましたし、シモンの想いも、見抜いていました。

そして、言うのです。

「シモン、あなたに言いたいことがある」

「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。

二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

ちなみに、1デナリオンは、当時の1日分の給料だったと言われています。

500デナリオン赦された人と、50デナリオン赦された人。

どちらが多く、その金貸しを愛するか。

どちらの方が、感謝するかという問題ですけれども、

シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えました。

それに対してイエス様は、「そのとおりだ」と言われました。

そんな単純じゃないだろう。

たくさん赦されても、何も変わらない人もいるだろうと、

その人の人格によるだろうと、思ってしまいますけれども、

まあ、そんなことを言い始めたらキリがありませんので、先に進みます。

なんで、イエス様は、こんな問いをしたのか。

それは、多く赦された者が、多く愛する者になるということを、教えるためです。

イエス様は続けて言われます。

44節~47節

「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。

あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。

あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

まず、冒頭の「この人を見ないか。」という言葉が、印象に残ります。

シモンは、女性の罪しか見ていませんでした。

「罪深い女」としか、見ていなかった。

だから、彼女の愛に気づくことができなかったのです。

「この人を見ないか」は、そんなシモンの視点を変える言葉です。

「罪深い女」としてではなく、一人の人として彼女を見る時、そこには、シモンにはない深い愛が見えてきます。

「あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。

あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。

あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。」

シモンにはない愛情を、彼女は持っていると、イエス様は語っています。

・罪を知り、赦しを知る

大事なのは、なぜ、彼女が、そんなにも深く、イエス様を愛することができたのかということです。

その答えが、先ほどの、問いの答えとつながっているわけです。

多く赦された者が、多く愛する者になる。

彼女が、深く愛することができたのは、彼女が、たくさん赦されたからだということです。

でも、イエス様は、そう言って、話を締めるのではなくて、

最後、シモンに、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と、そう言われました。

私は、この言葉、「もっと赦されろ。この女性のように、たくさん赦されなさい。」と、そのように言われているように感じます。

たくさん赦されるというのは、回数のことでは、ありません。

赦されることの大きさ、重さに、気づくということです。

そして、それは、自分の罪の大きさ、重さに、気づくということです。

私は、19歳の時、その重さを、教えられました。

万引きをして、警察に捕まった時。

父親が呼び出されまして、私と一緒に、親指の指紋を取られたんですけれども、

その様子を見た時に、自分がしたことの重さを、知りました。

そして、同時に、赦されることの重さを、知りました。

罪深い女も、自分の罪深さを、知っていました。

自分の醜さ、汚れを知っていました。

だからこそ、イエス様の愛の大きさ、重さを、知ることができたのだと思います。

一方で、シモンはどうだったでしょう。

最初に言いました通り、彼は、ファリサイ派として、律法を厳格に守り、正しく生きることを、大事にしていました。

本当は、彼も、罪を犯さずには生きられない、罪人であります。

彼も、一人で生きてきたんじゃない。

誰かに赦され、受け止められて生きてきたのだと、思います。

でも、そのことに気づけない。

気づいていたとしても、認められない。

立場もあったでしょうから、自分を罪人とは、受け入れられない。

でも、イエス様はそんなシモンに、赦されて生きることを、すすめているのだと思います。

正しくあろうとするよりも、罪人として生きなさい。

罪人として生きる時、赦されていることの恵みに気づくだろう。

その恵みに、生きる者でありなさいと、招いているのです。

・罪人として生きる恵み

この招きを、今日、自分自身に語りかけられているものとして、受け取っていきたいと思います。

イエス様は、正しく生きろとは言われません。

むしろ、罪人として生きることへと、招いています。

自分の罪に気づくことは、難しいことです。

シモンのような立場に置かれたら、尚更のことです。

でも、周りをよく見てみると、自分を受け止めてくれている誰かがきっといるはずです。

自分のわがままとか、きつい言葉とか、弱さとか、欠けとか、足りなさとか、

そういうものを受け入れてくれる誰かが、きっといるはずです。

一人で生きている人なんて、誰もいません。

見えないだけで、人は皆、誰かに赦されて、生きているものです。

こうして、綺麗な会堂で礼拝できているのは、掃除をしてくれる誰かがいるからです。

今朝も、伊東さんが、朝早く教会に来て、教会の周りを掃除してくれていました。

週報を作ってくれる人、奏楽をしてくれる人、教会へと送り出してくださる家族もそうです。

見えないところで、私たちは、たくさんの人に赦され、支えられて生きています。

その代表が、イエス様ですけれども、

そのことに気づく時、私たちは、感謝を持って、生きていくことができます。

自分は一人では生きられない。

誰かに赦され、受け止められないと生きていけない。

でも、そんな罪人として生きる時、そこに恵みの道、感謝の道が、開かれていくんだ。

罪人として生きるとは、恵みに生きるということなのだということを、

今日は、共に、覚えておきたいと思います。

お祈りいたします。

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