2024年5月5日主日礼拝メッセージ「隔ての淵を超えて」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書16章19節〜26節

新共同訳新約聖書141ページです。

16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

「隔ての淵を超えて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもクラス

今日は、イエス様が話された「金持ちとラザロ」という話をしたいと思います。

このお話を通して、イエス様は、何を伝えようとしておられるのか。

そのことを、考えながら、聞いていてください。

0、「金持ちとラザロ」

1、あるところに、金持ちがいました。

金持ちは、高価な服を着て、毎日贅沢に遊んで暮らしていました。

2、一方、その金持ちの家の外には、貧しいラザロがいました。

彼は、食べ物を買うお金もなく、お腹を空かせて倒れていました。

3、やがて、ラザロも、お金持ちも、死んでいきました。

4、死んだ後、ラザロは、天国に行きました。

天国では宴会が開かれていて、そこにいたアブラハムのところに、連れて行かれました。

5、一方、金持ちは、地獄に行きました。

金持ちは、地獄の炎の中で、苦しんでいました。

6、ふと目を上げると、遠くに、ラザロとアブラハムが見えました。

金持ちは、助けを求めます。

「助けてください。熱くて熱くて、たまりません。

水を…、水を私にください!」

すると、アブラハムは言いました。

「子よ、思い出してみるがよい。

お前は、生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。

だから、ラザロは慰められ、お前は苦しむのだ。

それに、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡りたくても渡れないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできないのだ。」

これが、イエス様が話された「金持ちとラザロ」のお話です。

このお話から、イエス様は、何を伝えたかったのでしょうか。

貧しい人は天国に行って、お金持ちは地獄に行くってことでしょうか。

きっと、そうじゃないと思います。

このお話を聞いて、私は、ラザロの貧しさは、誰の問題かって、問われているように感じました。

ラザロは、金持ちの家のすぐ外にいました。

すぐ外にいた。

なのに、金持ちは、毎日贅沢に遊んで暮らしていました。

もちろん、ラザロがいることは、わかっていたでしょう。

でも、気にも留めていなかった。

ラザロの問題は、ラザロの問題だ。

私には関係ないって、通り過ぎていたんだと思います。

そんな金持ちに、アブラハムは言いました。

「お前は、生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」

良いものっていうのは、わかりますよね。

良い服、良い家、良い暮らし。

金持ちは、たくさんの良いものに囲まれて暮らしていました。

一方ラザロは、「悪いものをもらっていた」って言われています。

なんでしょう、「悪いもの」って。

貧しさでしょうか。空腹でしょうか。冷たい視線だったり、悪口を言う人たちもいたかもしれない。

誰でしょうか。その悪いものを与えたのは。神様でしょうか。

マザーテレサっていう人が、こんな言葉を残しています。

「貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です。私たちが分かち合わないからです。」

ラザロの貧しさは、誰の問題か。

本当にあなたは、関係ないって言えるのか。

関係ないって言う限り、金持ちとラザロの溝は、埋まらない。

それでもいいのかって、イエス様は、問いかけているように感じます。

私たちは、このイエス様の問いかけに、どう応えるでしょうか。

この溝を埋めるために、私たちにできることは、なんでしょうか。

一緒に、考えたいと思います。

お祈りします。

先ほど読みました通り、今日の箇所には、「金持ちとラザロ」の話が、記されています。

これは、一応、イエス様のたとえ話と言われています。

つまり、作り話だということなのですが、しかし、単なる作り話ではないと思います。

金持ちの家の門前に、貧しい者が横たわり、物乞いをしている。

その光景は、イエス様が生きられた社会の現実でした。

イエス様は、そんな社会の現実に、一石を投じるために、この話をされたのだと思います。

注目したいのは、誰に対して、この話をしたのかということです。

少し、遡って見ますと、すぐにその相手が見えてきます。

14節、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスを嘲笑った」と記されています。

金に執着するファリサイ派の人々。

彼らこそ、イエス様の対話相手です。

他の訳では、「金銭欲の張っているファリサイ人」とか、「金銭好みのパリサイ派」とか訳されていますが、

イエス様は、彼らに対して、「金持ちとラザロ」のたとえ話を語られたのです。

なぜでしょうか。なぜ、彼らに、「金持ちとラザロ」の話をされたのでしょうか。

それはきっと、彼らが、イエス様の話を聞いて、「嘲笑った」というのと、関係があると思います。

13節に、イエス様が語られた話の結論部分が記されています。

有名な言葉ですが、こう記されています。13節、

16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

神と富とに兼ね仕えることはできない。

神をとるか、富をとるか、どちらかなんだと、イエス様は言われました。

これを聞いて、「金に執着するファリサイ派の人々」は、嘲笑ったと記されています。

「ふん」って感じでしょうか。

相手を見下して、バカにした笑い方です。

イエス様の言っていることを、全く真剣に聞いていない。

彼らこそ、イエス様の話に登場する、「金持ち」だったのではないでしょうか。

「金持ち」は、門前にいるラザロのことを知りながら、毎日贅沢に遊び暮らしていました。

なぜ、そのようなことができたのでしょうか。

迷惑だと言って、追い出すこともせず、かと言って、手を差し伸べることもない。

無関心。それが、金持ちの実態だったのではないでしょうか。

子どもメッセージでは、「ラザロの問題は、ラザロの問題だ。

私には関係ない、そう言って、通り過ぎていたのではないか」と、言いました。

だから、目の前に空腹で倒れている人がいても、見て見ぬ振りをすることができたんじゃないか。

当時のユダヤ社会では、律法に従う者には良い報いがあり、罪人には罰があると信じられていました。

病気や障がい、貧しい境遇なども、罪に対する罰だと、そう信じられていたわけです。

実際、聖書には、イエス様の弟子たちが、生まれつき目の見えない人を見て、「この人の目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と、イエス様に聞いている箇所があります。

そうやって、病気や障がい、貧しい境遇の原因は、彼らの罪にあると考えられていたのです。

彼らが苦しい想いをしているのは、彼らが罪を犯したからだ。

要するに、自業自得なんだと、そう考えられていたのです。

ファリサイ派の人たちが、イエス様の言葉を嘲笑ったのも、そう信じていたからでしょう。

「『神と富とに兼ね仕えることはできない』なんて、何をバカなこと言っているんだ。

律法に従っていれば、地位も富も与えられる。

そんなことも知らないのか」って、きっと、そう思ったのでしょう。

そんな彼らは、話に出てくる「金持ち」のように、貧しい人々や、病人たちを、簡単に通り過ぎることができました。

貧困問題も、障がいのある人たちの問題も、彼ら自身のせいにして、通り過ぎることができた。

でも、イエス様は、「金持ちとラザロ」の話を通して、その責任を、彼らに問うているのです。

ラザロの問題は、誰の問題か。

その責任は、誰にあるのか。

マザーテレサは言いました。

「貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です。私たちが分かち合わないからです。」

イエス様が言いたかったのも、このことだったのではないでしょうか。

当時、民衆たちの多くは、小作人でした。

小作人というのは、土地を借りて、農業を営む人たちです。

当時のユダヤ社会では、土地を持っているのは、一部の金持ちだけで、多くは小作人だったと言われています。

彼らは、収穫の半分、酷い場合はそれ以上を、地主に納めなければなりませんでした。

そうやって搾取されながら、民衆たちは、生きていたわけです。

貧困問題は、民衆たちのせいではありません。

神様のせいでもありません。

搾取する人たちのせいです。

彼らが、分かち合わないから、

彼らが、自業自得だと言って、その責任を押しつけていたから、あるいは、そうやって押し付けて、責任逃れできる社会だったから、だから、貧しい人たちは苦しんでいたのです。

イエス様は、そのことを、突きつけておられるんじゃないでしょうか。

問題は、金持ちとラザロを隔てる淵を、どう埋めるかということです。

金持ちとラザロの間には、死ぬ前から、深い深い淵がありました。

ラザロは、その淵を渡りたかった。もしくは、渡ってきて欲しかった。そして、助けて欲しかった。

でも、金持ちは、渡ろうとしませんでした。

自分には関係ない、自業自得だって言って、通り過ぎていきました。

だから、こんな淵ができちゃったのです。

この淵をつくったのは、誰でしょうか。

神様でしょうか。違うと思います。金持ち自身だと思います。

この淵は、私には関係ないって言って、金持ち自身がつくった淵です。

立場が変わって初めて、金持ちは、この淵の恐ろしさに、気付いたと思います。

どれだけこの淵が冷たく、恐ろしいものなのか。

いや、自分自身が、どれだけ冷たく、恐ろしい人間だったのかということを。

立場は変わる。

これも、「金持ちとラザロ」の話から、教えられていることの一つだと思います。

昨日までこちらにいたものが、今日も、こちらにいるとは限らない。

いつどうなるかわからない。

これは、今を生きる、私たちにも言えることです。

不安定な社会の中で、安心して生きる社会を実現していくために、この淵の課題は、こちら側にいる人たちだけの課題ではない。

社会全体で、埋めていかなければならない課題だということです。

改めて、ラザロの問題をどう考えるのかという問いが、突きつけられているように感じます。

ラザロの問題を、私たちの問題として取り組んでいく時、両者の間にある淵は、消えていくのではないでしょうか。

イエス様は、人間の罪の問題を、人間に押し付けはしませんでした。

自分は関係ないと、そう言って見捨てることもできたのに、神と人間の間の深い深い淵を超えて、私たちのところに来てくださいました。

そして、この世界にあるあらゆる淵、金持ちと貧しい人を隔てる淵、健康な人と病人を隔てる淵、大人と子どもを隔てる淵、ユダヤ人と異邦人を隔てる淵。

そんなこの世のあらゆる淵を超えて、人々と関わっていかれました。

この世のあらゆる淵を超えて、今、私たちと共に生きておられます。

私たちは、そんなイエス様に、どう応えて生きるのでしょうか。

淵を超えていく。あるいは、淵を埋めていく。繋げていく。

そういう歩みへと、私たちは、招かれているのではないでしょうか。

淵がなくなれば、地獄はなくなります。

誰もが安心して生きられるようになる。

そんな世界へと、イエス様は招いているのではないでしょうか。

お祈りします。

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