2023年6月4日礼拝メッセージ「光は闇の中で輝いている」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書9章37節〜45節。

新共同訳新約聖書123ページ〜124ページです。

9:37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。

9:38 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。

9:39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。

9:40 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」

9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」

9:42 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。

9:43 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。

9:44 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

9:45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。

「光は闇の中で輝いている」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

イエス様は、弟子たちに、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」って言いました。

「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。

これ、何のことかわかるでしょうか。

「人々の手に引き渡される」というのは、つまり、捕まるってことです。

捕まって、裁判にかけられて、最終的に、十字架に架けられる。

イエス様は、そうなることを知っていました。

それで、弟子たちに、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」って言ったんですが、残念ながら、弟子たちには、その言葉の意味が、わかりませんでした。

わからない時には、普通、どうしますか。ー聞きますよね。

「イエス様、今のどういうことですか。

何のことを言っているのか、わかるように説明してください。」

これまで弟子たちは、そうしてきました。

わからない時には、「どういうことですか?」って聞いてきました。

でも、この時は、聞こうとしなかったんです。

なぜか。

聖書には、「怖かったからだ」って、書いています。

みんなも、怖くて、聞けなかったことがあるでしょうか。

私は、中学3年のちょうど今頃だったと思います。

部活中に、足首を怪我してしまいました。

中学校最後の大会の直前でした。

すぐに病院に行って、レントゲンを撮って、診察室に呼ばれました。

でも、私は、立てませんでした。

足首が痛かったんじゃないんです。

診察室に入るのが、怖かったんです。

病院の先生に、「大会に出るのは無理だ」って言われるのが怖くて、結果を聞きたくなかったんです。

結果は、靭帯断裂と骨にヒビが入っていました。

全治3ヶ月、「大会は無理だ」って言われました。

正直、聞かなくても、うすうす、わかっていました。

足首も2倍以上に腫れていましたし、色もどす黒くなっていて、これは無理だって、わかっていました。

だからこそ、聞きたくなかった。

きっと、弟子たちもそうだったんだと思います。

イエス様の言葉を聞いた時に、悪い予感がしたんだと思います。

「これは、聞かないほうがいい。やばい匂いがする。」って思ったんです。

だから、弟子たちは、それ以上聞くのをやめてしまった。

でも、実は、そこに、大事な言葉があったんです。

弟子たちの悪い予感は、半分、当たっていました。

確かにイエス様は、捕まって、裁判にかけられて、十字架で処刑されます。

でも、それで終わりじゃなかったんです。

イエス様は、神様によって、復活させられるんです。

それこそ、イエス様が、伝えようとした言葉だったんです。

イエス様が言いたかったのは、どん底にこそ、神様はおられるということだったんです。

人生のどん底、神に見捨てられたと思うようなそのどん底に、神様はおられる。

弟子たちは、聞けなかったけど、「この言葉こそ、よく耳に入れておきなさい」って、イエス様は言われます。

ぜひ、今日は、しっかりと聞きたいと思います。

苦しい時、しんどい時、「人生のどん底にこそ、神様はおられる」。

そのことを心に覚えて、新しい一週間を始めていきましょう。

お祈りします。

・イエス様の奇跡

今日の箇所は、イエス様が、悪霊に取り憑かれた子どもを癒すという話から始まります。

山を降りると、大勢の群衆たちが、イエス様を待っていました。

その中の一人が、イエス様に向かって、大声で叫びます。

「先生、どうかわたしの子を助けてください。悪霊に取り憑かれて、苦しんでいるのです。」

イエス様は、その叫びを聞いて、子どもを癒されました。

それを見て、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」と記されています。

子どもを癒すイエス様の姿に、神の姿を見たということです。

それだけではありません。

詳しくは書かれていませんが、他にもイエス様は、奇跡を起こされたようです。

その様子を見て、みんなが驚いている。

みんなが、イエス様に、心を打たれている。

さぞ弟子たちも、鼻が高かったでしょう。

「さすがイエス様だ。この人にできないことは何もない。やっぱりこの人こそ、神の子、キリストだ。」そうやって、互いに言い合っていた。

そんな時でした。

イエス様は、弟子たちに対して言われるのです。

44節「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

・聞くのを恐れる弟子たち

弟子たちには、その言葉の意味が、わかりませんでした。

わからない時には、よく尋ねる弟子たちなんですが、この時は、聞こうともしませんでした。

なぜか。それは、聞くのが怖かったからです。

皆さんにも、怖くて尋ねられなかった経験があるでしょうか。

先ほどは、中学時代の話をしましたけれども、牧師になってからも、何度か、そういう経験がありまして、

特に覚えているのは、私が、大分教会に就任して、間もない頃のことです。

当時、お隣の別府国際教会で牧師をされていました吉田真司先生と、一緒に車に乗っていた時でした。

私が吉田先生に、「先生が隣にいてくださって、本当に支えになっています。」というようなことを言ったらですね、

ちょっと間をおいて、先生が「いつまでも、あると思うな、親と金って、あるよね」って、言われたんです。

一瞬「ん?」と思ったんですが、笑ってごまかしましたけれども、その時も、怖くて、それ以上聞くことができませんでした。

ま、その後に、先生は、神奈川の方へ移られて、今では、連盟理事長をされていますけれども、

弟子たちも、何かあるということは感じていたのだと思います。

41節の「いつまで、お前たちと一緒にいないといけないのか。」という言葉も、

なにか、一緒にいられない時が近づいているような、そんなことを感じさせる言葉ですし、

それに、9章の21節で、弟子たちは、すでに、受難予告を一回聞かされているわけです。

その時は、冗談だろうと思っていたかもしれませんが、

でも、繰り返しそんな話をされると、「え、本当?」って、思うようにもなるでしょう。

「怖くて尋ねられなかった」っという言葉に、この時の弟子たちの心境が、よくあらわれているように思います。

実際、弟子たちが抱いていた恐れは、当たっていました。

51節で、イエス様は、天にあげられる時期が近いと感じて、エルサレムに向かう決意を固められます。

ガリラヤを中心に活動していたイエス様が、いよいよ、エルサレムに向かって行かれる。

それは、十字架に向かって歩まれるということです。

その方向は、弟子たちの望む方向とは違いました。

真逆と言っていいくらい違いました。

この時、弟子たちが期待していたのは、イエス様が、その奇跡の力で、世の権力者たちを打ち倒し、新しい世界をつくりだしてくれることでした。

そして、その世界で、自分たちも、偉くなりたいと思っていました。

これは、次の箇所ですけれども、46節からのところで、弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いか議論していたと、記されています。

浮かれてますね。

師匠のイエス様が、十字架に向かう決意を固めようとしておられた時に、弟子たちは、誰が一番偉いか、競い合っていた。

弟子たちは、上へ上へ行きたかったんです。

偉くなりたかったんです。

でも、イエス様が目指していたのは、どん底でした。

これ以上ないというほどの低みでした。

でも、イエス様は、そこにこそ、神はおられると信じて、それを示すために、歩んで行かれたのです。

イエス様が、弟子たちに伝えたかったのは、まさにそのことだったのだと思います。

イエス様が伝えたかったのは、受難の予告ではなく、復活の予告だった。

人生のどん底にこそ、神はおられる。

貧しい時、飢えている時、泣いている時。

山上の説教でも言われていたように、そういう時こそ、神様は最も近くにいてくださるって、そのことを、伝えたかったのだと思います。

これは、言葉で伝えることは、不可能です。

実際、そういう局面に置かれたら、もっと、わからないかもしれない。

十字架上で、イエス様が叫ばれたように、「神様、なぜ私をお見捨てになるのですか」って、そう思うしかないかもしれない。

でも、そこに、神様はおられる。

そのことを示すために、イエス様は、十字架に向かって行かれたのです。

そして、復活の命を与えられたのです。

44節で、イエス様は弟子たちに、「この言葉をよく耳に入れておきなさい。」と言いました。

「この言葉」というのは、私たちが望むような言葉ではないかもしれない。

偉くなりたいとか、お金持ちになりたいとか、上へ上へ向かう者には、響かない言葉かもしれない。

イエス様がいう「この言葉」というのは、十字架の言葉です。

高みにいる者の言葉ではなく、どん底にいる者の言葉です。

でも、そこに希望がある。

神様は、そこにおられる。

今、苦しんでいる人。

今、泣いている人。

そういう人々に対して、イエス様は、「まさに神様は、あなたと共におられる。」

その言葉を示すために、十字架へと向かって行かれたのです。

イエス様が、その命をかけて伝えようとしておられる言葉を、私たちは今日、「よく耳に入れておきたい」と思います。

神様が一緒にいるのは、うまくいっている時ではない。

問題が解決した時でもなければ、病気が癒やされた時でもない。

むしろ、うまくいかない時。

問題の中にある時。

病気の中にある時。

最も、神様を遠くに感じる時。

神様なんていないと思う時。

その時こそ、神様は、最も近くにおられる。

それが、イエス様が語る十字架の言葉です。

その言葉を、しっかり耳に入れて、信じて、歩み出していきましょう。

お祈りします。

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