2023年5月14日礼拝メッセージ「使命が人を生かす」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書9章21節〜27節。

新共同訳新約聖書122ページです。

9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、

9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。

9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。

9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

「使命が人を生かす」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

みんなは、逃げ出したいと思う時があるでしょうか。

辛い時、苦しい時、逃げたくなることがあるでしょうか。

たとえば、宿題がある時。

宿題をしなきゃいけない。

でも、体が疲れている。

気分も乗らない。

そんな時、ゲームに逃げたり、スマホに逃げたりしてしまう。

そんなことがあると思います。

実は、私もおんなじです。

私もよく逃げています。

特に、このメッセージを準備する時には、逃げてしまう。

何を話したらいいだろう。言葉が出てこない。

話したいことが見つかっても、どう話していいかわからない。

苦しい、辛い。

そんな時には、スマホをいじったり、ゲームをしたりしてしまいます。

私は、昔っからそういう人間で、よく逃げてきました。

勉強からも逃げてきましたし、部活でも逃げたことがありました。

とにかくよく逃げる人間なんですが、

でもそんな私でも、続いていることがありまして、それは、この礼拝でのメッセージです。

準備するまでは逃げますが、礼拝の時にいないということは、今のところありません。

ま、正確には、1回だけ、いないことがありました。

インフルエンザになってしまって、1回だけ、代わってもらったことがあります。

でもその時も、原稿は、作っていたので、代わってもらうことができました。

その時以外は、休まず、メッセージができています。

当たり前のことなんですが、逃げてばっかりいた私にとっては、結構すごいことだなと思います。

なんで、逃げてばかりだった私が、そうやって、逃げずにメッセージを続けられているか。

それは、私の力ではありません。

家族のおかげだし、教会の皆さんのおかげだと思います。

自分一人だったら、きっと逃げていたと思いますが、家族がいると思うと、踏ん張らないとと思う。

ここで逃げたら、家族に迷惑をかける。

教会にも迷惑をかける。

自分一人の問題じゃない。

そういう想いが、どこかで、私を、踏みとどまらせてきたんだと思います。

何が言いたいかというと、つまり、守りたいと思うもの、守らなきゃって思うものをもつと、人は強くなれるということです。

これを、使命って言います。

使命という言葉は、命を使うって書きます。

自分の命を使ってでも、守りたいと思うもの、

命をかけてでも、やり遂げたいと思うものを持つと、人は強くなれる。

辛いことや苦しいことも、乗り越えることができる。

今日の箇所で、イエス様が言っているのも、そういうことだと思うんです。

「私のために命を失う者は、それを救う。」

使命を持って生きる人は、困難な時も、力強く生きられるってことです。

自分の命をかけてでも、守りたいと思うもの、やり遂げたいと思うもの。

それは、神様から、与えられるものです。

自分の使命は何か。

神様は、自分に、どんな使命を与えてくださっているのか。

ぜひ、考えてみてください。

そして、何でもいい。

使命を持って生きていきましょう。

お祈りします。

・弟子の条件

イエス様は、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われました。

十字架とは、イエス様の担われた使命のことをあらわしています。

つまり「自分の十字架を背負って」というのは、「自分の使命を背負って」ということです。

「弟子として、従ってきたいならば、あなたも、自分の使命を背負って、従ってきなさい」ということです。

そのために、イエス様は、「自分を捨てて」と言われます。

先ほども言いました通り、使命という字は、命を使うと書きます。

自分の命を使う。

つまり、命をかけてでも、守りたいと思うもの、やり遂げたいと思うもの。

それが、使命だということです。

それは、「自分の命を救いたいと思う者」には、担えないものです。

もちろん、自分の命は大事です。

でも、その命をかけてでも成し遂げたいもの、成し遂げるべきだと思うもの、それが使命です。

そのことは、イエス様が捕えられる前に祈られた、あのゲッセマネの祈りの中に、よくあらわれています。

ゲッセマネの祈りの中で、イエス様は、「父よ、御心なら、この杯をわたしからとりのけてください。」と祈られました。

この杯というのは、十字架という運命のことです。

イエス様も、十字架という運命を、取り除けてくださいと、祈られたのです。

ですから、自分の命を大事に思うことは、何も悪いことではありません。

でも、それに続けてイエス様は、「しかし、私の願いではなく、御心のままに行なってください」と祈られました。

自分の想い、自分の願いよりも、御心、つまり神の想いがなるようにと祈ったのです。

自分の命を大事に思いながらも、それ以上に重要なこととして、神の想いを選び取っていった。

これが、使命を持つということです。

その結果、イエス様は、十字架上で、息を引き取ることになります。

まさに、ご自分の使命のために、命を使われたわけですが、

でも、イエス様は、24節で「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」と言っておられます。

「わたしのために命を失う者」これはまさに、使命を担う者のことです。

使命というのは、神様、あるいはイエス様から与えられるものです。

その使命のために、命を使う、命を失う者は、それを救うのだと、言われているのです。

救うとはどういうことでしょうか。

ここで言われている救うというのは、復活のことだと、いうふうにも受け取れます。

イエス様から与えられた使命のために、命を使う者、命を失うものは、終わりの日に、復活の命を与えられる。

そうやって読むこともできます。

でも、私は、そんな先のことを言っているのではなくて、今の救い。

今を生きる一人一人を救うことにもつながると、思うのです。

使命を背負うことで、得られる救いというのは、復活だけじゃない。

使命を背負うことで、今まさに、力強く生きられる。

困難にも耐えられる。

使命は、今を生きる私たちの力になる。

まさに、今日のテーマである、使命が人を生かすのだ。

イエス様の言葉を、そのように受け取ることもできると思うのです。

ニーチェの言葉の中に、「『なぜ生きるか』を知っている者は、ほとんど、あらゆる『いかに生きるか』に耐えるのだ。」と、いう言葉があります。

自分がなぜ生きているか。

自分の生きる目的、生きる意味を持っている人は、どんな困難にも耐えることができる、ということです。

今日の箇所で、イエス様が言っておられることも、そういうことなんじゃないか。

自分の命をかけてでも守るべきもの、果たすべき使命を持っている人は、困難に耐えることができる。

その使命が、辛い時、苦しい時、私を生かす力になる。

今日は、母の日ですが、昔から「母は強し」と言われます。

この言葉は、フランスの作家、ヴィクトール・ユーゴーの言葉だそうです。

レミゼラブルを書いた人ですが、

実はこの言葉にはフリがありまして、正しくは「女は弱し、されど母は強し」という言葉だそうです。

女性は弱い、守るべき対象だという、古い価値観に基づいた言葉ですが、しかし、「母は強し」というのは、その通りだと思います。

先日、次男が、高熱で倒れていた時も、そう感じました。

38度以上の高熱が、10日間続きまして、その間、何度も病院に連れて行きました。

なかなかよくならなくて、深夜、救急で子ども病院にも、連れて行きました。

病院にはたくさんの人がいて、深夜にも関わらず、2時間待ちでした。

泣いている子もいましたし、疲れて寝ている子もいましたが、みんなお母さんに抱かれていました。

うちの妻も、高熱の息子を抱っこして、長い時間、待合室で待っておりました。

その時点で、1週間以上、高熱の息子を看病していて、疲れていたと思いますが、抱っこし続けておりました。

私も代わろうと手を出すんですが、そういう時は、お母さんがいいもので、結局妻が、息子を抱っこしておりました。

咳をしている時も横で寝て、嘔吐物も素手でキャッチする。

そんな妻の姿を見る時に、母は強いなと、改めて思わされました。

でも、力をもらっているのは、私も同じで、

私自身も、子どもたちがいるから耐えられてきたと思うことが、いくつもあります。

逃げ出したいと思う時、辞めたいと思う時、子供達のことを思うと、何とかしないとと思う。

そうやって、踏ん張る力をもらってきました。

子どものためにと思いながらも、力をもらっているのは、むしろ自分の方だということに気づかされるんです。

使命を持つと、人は強くなる。

使命が人を生かす。力付ける。

それは、私の祖母のことを思い出す時も、そう感じます。

父方の祖母ですが、私の祖母は、寝たきりになった祖父に、10年近く、寄り添って生きていました。

会話したりすることも難しくなって、反応もなかなかないような状況になっても、毎週祖父のところに行っていました。

「おじいちゃん元気だったかい。」って聞いても、「なんも、変わらない。」と、そっけなく返事をする祖母でしたが、それでも、毎週、おじいちゃんに会いに行っていました。

私が神学生になってすぐ、祖父は、天に召されたのですが、それから何年と経たないうちに、祖母も、天に召されました。

祖父を支えてきた祖母ですが、祖母も、祖父に生かされていたのかなと、

「祖父を見送るまで、生きなきゃいけない」そういう想いが、祖母の命を支えていたのではないかと、感じました。

このようなことは、よくあることのように思います。

長い間、ご家族を看病していた方が、天に見送って、看病から解放された瞬間に、無気力になってしまったり、

重い責任を背負って働いていた人が、定年で辞めた途端に、急激に衰えたり、心のバランスを崩したりすることは、珍しいことではありません。

使命を持つ、重荷を背負うということは、大変なことではありますが、生きていく上で、大切なことでもあるのだと思います。

もちろん、重すぎる重荷は、一人で背負ってはいけませんけれども、重荷があるから頑張れる。

使命が人を生かすということが、あるのです。

皆さんは、今、どんな使命に、生きておられるでしょうか。

これが私の使命だと、そう言えるものを、持っていないという方も、いらっしゃるかもしれません。

でも、気づいていないだけで、どんな人にも、神様は、目的を持っておられます。

生きる意味を持っておられます。

意味もなく、生きている人なんて、一人もいません。

どんなに歳を取っても、病の中にあっても、

私の祖父のように寝たきりになったとしても、誰かを支えている。

支えられているようで、支えている。

守られているようで、守っている。そういうものです。

天に召されるその瞬間まで、人は、誰かのために生きている。

誰かのために、命を使っている。

その使命を、自分の使命として受け入れ、生きる時、私たちは、力強く生きることができるのです。

「日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」

そのイエス様の招きに応えて、自分の使命を持って、生きていきましょう。

使命に大きいも小さいもありません。

人と比べる必要もありません。

自分の十字架、自分の使命を負って、生きることが大事なのです。

使命が、私たちを生かす力になる。

困難を乗り越える力になる。

そのことを覚えて、新しい一週間の歩みに、出かけて行きましょう。

お祈りします。

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