2023年3月5日メッセージ「信じて、手を伸ばそう」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書8章40節〜48節。

新共同訳新約聖書120ページ。

8:40 イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。

8:41 そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。

8:42 十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。

8:43 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。

8:44 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。

8:45 イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っている のです」と言った。

8:46 しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。

8:47 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。

8:48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

「信じて、手を伸ばそう」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日の聖書の箇所には、信じて、イエス様に手を伸ばした女性の話が書かれています。

この人は、12年間、病気に苦しんでいました。

病気を治してもらいたいと思って、全財産を使いました。

でも、彼女の病気を治せる人はいませんでした。

お金もない、病気も治らない、それに加えて、彼女には、力になってくれる人もいませんでした。

彼女の病気というのは、血が止まらない病気でした。

それは、当時、「汚れた病」とされていました。

「汚い」、「汚れている」、そう言って、人々は、彼女のことを、追い出したんです。

「町に出てくるな。俺たちに触れたら、ただじゃおかないぞ!」

そう言われて、彼女は、町の外に暮らしていました。

全財産も使い果たしたのに、病気は治らない。

人からは、「近づくな!」って言われる。

そんな生活が、12年も続いていたんです。

そんなある日、彼女の耳に、噂話が聞こえてきました。

「イエスがやってくる。

なんでも、イエスは、病気を癒す力をもっているらしい。

触れるだけで、癒やされた人もいるそうだ。

そのイエスが、もうすぐこの町にやってくる。」

その話を聞いて、彼女は、もういてもたってもいられなくなりました。

「治りたい。もうこんな生活は嫌だ。」

そう思って彼女は、見つからないように、隠れながら、イエス様に近づいていきました。

そして、覚悟を決めて、手を伸ばしたんです。

イエス様に触れた瞬間、彼女の病気は癒やされました。

「お前は汚い。お前は汚れている。

絶対に触るな。触ったらただじゃおかないぞ。」

そう言われていた彼女が、イエス様に、手を伸ばし、触った。

それは、どれだけ、勇気のいることだったでしょう。

どれだけ、覚悟のいることだったでしょう。

見つかったら、怒られるだけじゃ済まないかもしれない。

それでも、彼女は、治りたい一心で、イエス様に手を伸ばしたんです。

イエス様は、そんな彼女を、叱るどころか、ほめました。

「よくやった。よく信じた。よく行動した。

あなたの信仰が、あなたを救った。」

信じて、手を伸ばした。

覚悟を決めて、手を伸ばした。

そんな彼女の姿を、イエス様はほめたんです。

そして、その行為が、救いにつながったんだって、イエス様は言われた。

このことを今日は、覚えておきたいと思います。

信じて、手を伸ばすっていうのは、勇気を持って挑戦する、チャレンジするっていうことです。

難しいこと、無理だって思うことでも、勇気を持って手を伸ばしてみる。

結果どうなるかは、わかりません。

今日の女の人のようにうまくいくこともあれば、

思うような結果が出ない時もあるかもしれない。

でも、勇気を持って挑戦する、その姿を、イエス様は喜んでくださる。

たとえうまくいかなかったとしても、決して無駄じゃない。

必ずそのチャレンジは、救いにつながっている。

イエス様は、そう教えています。

イエス様を信じて、チャレンジしていきましょう。

お祈りします。

・12年の闘病

今日の箇所には、12歳の一人娘のために、ひれ伏して、助けを願った、会堂長ヤイロと、

12年間、出血が止まらない病気に苦しんできた女性の話が記されています。

「12」という数字が印象に残りますが、この数字を見たときに、私は、東日本大震災のことが思い出しました。

今年も私たちは、3月11日を迎えます。

東日本大震災から、12年が経とうとしています。

今年も、東北連合の諸教会から、祈りの言葉が届けられています。

来週の礼拝の中で、共に祈りを合わせたいと思いますけれども、改めて、もう12年も経つんだなと思わされます。

思い出してみますと、12年前、私はまだ、神学部の1年生でした。

震災が起こって1週間後に、この大分教会に招かれまして、神学生としてメッセージをさせていただいたことを思い出します。

あの頃はまだ独身で、一人で、この大分に来させていただきましたが、

まさか、その大分教会で、牧師をさせていただくことになるなんて、思ってもいませんでした。

12年という時の長さを、感じます。

でも、今日の箇所に登場する女性は、その時間を、病の中に、過ごしてきたのです。

名前も、年齢も、書かれていません。

書かれているのは、12年間、出血が止まらないということだけです。

彼女は、その病を治すため、全財産を使いました。

しかし、誰も治せる者はいませんでした。

彼女を苦しめていたのは、病気だけではありません。

律法では、女性の生理、その他の出血は、すべて「汚れ」とみなされていました。

本人はもちろん、その人の触れるもの、その触れたものに触れる者も、「汚れる」とされていました。

大変、理不尽な法律であると思います。

生理現象は、生きていく上で、避けられないものです。

そういう体をおつくりになったのは神様です。

それなのに、その現象を、汚れとみなすなんて、おかしいことであると思いますが、当時は、そのように決められていたわけです。

そんな中で、この女性は、人一倍、周囲から、厳しい目を向けられていたことは、間違い無いでしょう。

当然、彼女に近づく人はいなかったでしょうし、彼女も、近づくなと言われていたでしょう。

そのようにして、彼女は、「汚れた女」という汚名を着せられながら、12年間、生きてきたのです。

病気だけでも辛いのに、お金もない、社会からも排除される。

その三重苦の中で、彼女は、12年間、生きてきたのです。

どれだけ辛い時だったでしょうか。

・一縷の希望

でも、そんな彼女にも、わずかな望みがありました。

それは、イエス様でした。

イエス様は、行く先々で病気を癒してこられました。

イエス様に触れれば、病気が癒やされる。

そういうはなしが、各地に広がっていた。

現に、6章19節には、「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。

イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」と書かれています。

今日の箇所のような出来事が、すでにいろんなところで起こっていたということです。

その話が、彼女の耳にも届いた。

それで彼女は、もうそれしかないと思ったのです。

もうイエス様しかいない。

自分にはもう、治してくれる医者もいないし、お金もない。

もうイエス様しか、頼れるお方はいない。

そんな想いで、彼女は、イエス様に近づいて行ったのです。

子どもメッセージでも言ったように、彼女が、人前に出ていくというのは、大変覚悟のいることでした。

怒られるかもしれない。

罰を受けるかもしれない。

でも、もう、それしかない。

怒られようが、罰を受けようが、関係ない。

とにかくイエス様に触れたい。

その一心で、彼女は、手を伸ばしたのです。

そして、彼女は癒やされました。

・イエス様の言葉

注目したいのは、この後です。

彼女の行為を、イエス様はどう受け止めらたか。

先程から言っておりますように、彼女は、誰にも触れてはならないとされていました。

それは、「彼女が触れるたものは、汚れる」と、みなされていたからです。

でも彼女は、構わず、イエス様に触れました。

イエス様がどうなるかなんて、考える余裕もなかったでしょう。

もう自分のことしか考えられない。

ある意味、とても身勝手な行為です。

でも、イエス様は、そんな彼女に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われました。

・あなたの信仰があなたを救ったとは?

「あなたの信仰があなたを救った。」とは、どういう意味でしょうか。

実はこの言葉、ここだけで言われている言葉ではありません。

調べてみますと、ルカによる福音書では、4回、この言葉が用いられています。

1回目が、「罪深い女」と言われていた女性に対して、

2回目が今日の場面で、3回目が重い皮膚病を癒やされた人に対して、

そして、4回目が「目が見えるようになりたい」と言った盲人に対してです。

この4人に共通していることがありまして、それは、どの人も、自分からイエス様に近づいて行ったということです。

罪赦された女性も、重い皮膚病の人も、「目が見えるようになりたい」と言った盲人も、そして、今日の女性も、

みんな、自分からイエス様に近づいていきました。

イエス様がきてくれるのを待つのではなく、自分から、行動を起こしていった。

しかも、その行動は、今日の女性のように、覚悟のいるものでした。

「罪深い女」は、イエス様が、律法の専門家たちと食事をしているところに入っていきました。

彼らは、彼女を、非常に冷たい目で見つめていました。

でも彼女は、イエス様に近づき、よごれたイエス様の足を、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗りました。

重い皮膚病の人も、遠くで、立ち止まって、声を張り上げて、「イエスさま、どうか、私たちを憐れんでください」と呼びかけたと、記されています。

そこには、今日の女性と同じように、近づけない事情があったのだと思います。

それでも彼は、遠くから、声を張り上げて、イエス様に声をかけていった。

盲人に至っては、「私を憐んでください」と叫んだら、叱られたと記されています。

イエス様の周りの人たちが、彼を叱りつけ、黙らせようとした。

それでもなお彼は、叫び続け、それによって、イエス様は立ち止まったと記されています。

そのように、4人とも、覚悟を持って、イエス様に近づいて行った。

叱られたり、冷たい目で見られたりしながらも、諦めず、イエス様に手を伸ばしていった。

周りから何を言われようが、どう見られようが、関係ない。

もう治ることしか考えず、信じず、ただその一心で、イエス様に手を伸ばしていった。

そんな人々に対して、イエス様が言ったのが、「あなたの信仰があなたを救った。」という言葉だったんです。

「よく信じた。よく諦めずに、手を伸ばした。

あなたの信仰が、あなたを救ったんだ。」

その言葉に、どれだけ、元気をもらったことでしょう。

・信じて、手を伸ばそう

皆さんは、今、求めておられるものがあるでしょうか。

祈っておられることがあるでしょうか。

あるという方は、信じて、手を伸ばしていきましょう。

困難なことがあっても、手を伸ばしていきましょう。

チャレンジしていく。

イエス様を信じて、行動を起こしていく。

その姿勢を、大事にしたいと思います。

結果がどうなるかは、わかりません。

聖書に記された人たちのように、うまくいくこともあるかもしれないし、そうでないかもしれない。

自分の期待した結果が出る時もあれば、そうでない時も、きっとあるでしょう。

でも、信じて手を伸ばすという行為、

イエス様を信じて、挑戦していくという行為そのものが、大事なのです。

その姿を、イエス様は喜んでくださる。

そして、その行為は、絶対に無駄に終わらない。

イエス様を信じてチャレンジする行為は、必ず、私たちの救いにつながっている、そう教えています。

私たちは、つい結果を考えてしまいます。

これをしたらどうなるか。うまくいくだろうか。

費用対効果は、どうか。

費用に見合った効果を得られるか。

そのように考えることは、悪いことじゃありません。

むしろ大切なことだと思います。

でも、考えるだけで終わっていないか。

慎重になりすぎるあまり、行動できなくなっていないか。

いつも「待ち」の姿勢になっていないか。

来るのを待つだけじゃなく、自分たちから行動していく。

アクションを起こしていく。

手を伸ばしていく。

そんな私たちの姿を、イエス様は、喜び、励ましてくださるのです。

お祈りいたします。

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