聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一9章19節〜23節。
新共同訳新約聖書311ページです。
9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
「共に喜ぶために」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
先日、お客さんが来たので、初くんと一緒に、食事に行きました。
行った店は、お味噌汁がおかわり自由なお店でした。
私は、お味噌汁が大好きなので、とても嬉しかったんですが、さらに嬉しかったのが、ネギも、入れ放題だったことです。
私は、ネギの入ってるお味噌汁が大好きなので、ネギをいっぱい入れました。
初くんも、ネギの入っているお味噌汁が好きなので、ネギをいっぱい入れてあげました。
当然、ネギがいっぱい入っている方が嬉しいだろうと思って、一緒に行ったお客さんのお味噌汁にも、ネギをいっぱい入れてあげました。
そして、初くんに、「まず、お客さんに持っていって」と言って、お味噌汁を渡しました。
その後で、私は、初くんの分と自分の分を持って、席に戻ったんですが、見てみると、お客さんのところに、お味噌汁がなかったんです。
「お客さんに持っていって」と渡したお味噌汁は、初くんのところにありました。
ちょっと聞きたいんだけど、なんで初くんは、自分の分にしたの?ーお客さんが、ネギが好きかどうか、わからなかったから。
そうなんです。
実は、私もちゃんと聞いていました。
初くんがお味噌汁を受け取った時、「ネギが好きかどうかわからないから、これは自分のにしよう」って言ったの、聞こえていました。
その時、私は、ドキッとしました。
私は、自分中心に考えていました。
自分がネギ多めがいいからって、お客さんのも、ネギ多めにしていました。
初くんの言う通り。
どんなに私が、ネギ好きだったとしても、すべての人がネギ好きとは限らない。
もしかしたら、お客さんは、ネギが食べられない人かもしれない。
初くんの言葉を聞いて、私は、自分のことしか考えてなかったなって思いました。
どんなに、私が好きなものでも、同じように、相手が好きかどうかはわからないし、
どんなに、私が嬉しいことでも、同じように、相手が喜んでくれるとも、限らない。
相手に喜んで欲しいと思うなら、やっぱり、相手のことを考えないといけないってことですよね。
相手は、何が好きかな。
相手は、どうされたら嬉しいかなって、想像する。
自分の好き嫌いではなくて、相手のことを、考える。
実は、今日の聖書の箇所で教えられていることっていうのは、まさにこのことなんです。
今日の箇所を書いたパウロさんは、イエス様によって救われた人でした。
イエス様と出会って、人生を変えられた人でした。
だから、自分だけじゃなく、みんなにも、イエス様のことを知って欲しい。
そして、一緒に喜びあいたいって、思っていました。
だけど、パウロさん、聖書を見てみると、たくさん失敗しています。
イエス様のことを伝えたせいで、嫌われたり、追い出されたり、捕まったこともありました。
そういうことを通して、パウロさんは、学んだんだと思います。
どんなに自分が良いと思っても、相手が同じように良いと思うとは限らない。
みんな違うんだから、同じように、伝えてもダメだって。
それでパウロさん、どうするようになったかというと、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようになったって、書いています。
つまりそれは、相手になったつもりで考えたってことです。
どうされたら、嬉しいだろう。
どう伝えられたら、受け入れられるだろうって、相手の立場に立って、考えた。
それが、共に喜び合うための秘訣だってことです。
今日は、このことを、覚えておきたいと思います。
共に喜び合うためには、相手になったつもりで、考える。
どうされたら、嬉しいだろう。
どう伝えられたら、受け入れやすいだろうって、相手の立場に立って考える。
それが大事だっていうことを覚えて、新しい1週間の歩みを、過ごしていきましょう。
お祈りします。
・喜びを共有するために、どうすべきか?
皆さんは、「良かれと思ってやったのに、相手にうまく伝わらなかった」という経験が、あるでしょうか。
大学時代、私は、引越し屋でアルバイトをしていました。
結構ハードな仕事で、忙しい時には、1日に4・5件まわることもありました。
朝、事務所に集まって、「今日4件だから」と言われて、その場で辞めて帰ろうかなと思った日が、何回かありましたけれども、そんな日の作業は、時間との戦いです。
休んでる暇もありません。
どんどん作業をしていかなければならない。
そんな時に、面倒だったのが、家主が手伝おうとする時でした。
こちらとしては、どこに何を置くのか、指示をして欲しいのに、一緒に荷物を運ぼうとするんです。
気持ちはわかるのですが、正直、とても迷惑でした。
そんなふうに、良かれと思ってやることが、相手にうまく伝わらない。
良かれと思ってやったのに、むしろ、相手に迷惑をかけてしまう。
そんなこ経験が、皆さんにもあるのではないでしょうか。
実は、昨日もそんな場面を見まして、
夜、テレビを見ていましたら、神社が好きな少年が出ていまして、
銀座のど真ん中に神社があるって、紹介していたんですが、
その男の子が、最後にお祈りをするわけです。
何を祈ったの?って聞かれて、その子、「お姉ちゃんに彼氏ができますように」って祈ったって、言ったわけです。
そしたら、それを見たうちの初くんが、「お姉ちゃんは、嬉しくないだろうね」って言ったんです。
男の子は、お姉ちゃんのためを思って祈ったんでしょうけど、
お姉ちゃんにとっては、彼氏がいないのを、全国放送でバラされてしまったことになるわけです。
それを見ながら、なかなか難しいもんだなと思わされましたけれども、
そんな私たちにとって、今日の聖書の箇所は、とても重要な箇所であると思います。
・全ての人の奴隷になる
この箇所を書いたパウロは、キリストの伝道者として、一人でも多くの人とキリストの福音を共有したいと願っていました。
「福音」とは「良き知らせ」という意味の言葉です。
パウロにとって、その「良き知らせ」は、人生を変えるほどの喜びの知らせでした。
パウロはそれを、自分だけでなく、他の人にも共有したい、共に福音にあずかりたいと思っていました。
そのために、パウロがしたこと。
それは、すべての人の奴隷になるということでした。
19節「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。」
パウロは、自由な者として、自分の自由意志で、奴隷になる道を選んだということです。
それが、共に福音にあずかるためには、最善の道であると、思ったのでしょう。
でも、「すべての人の奴隷になった」とは、具体的には、どういうことでしょうか。
その説明が、20節~22節に書かれています。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
これが、「すべての人の奴隷になった」ということの、中身です。
つまり、奴隷になったというのは、相手のようになった、ということです。
ユダヤ人を相手にする時には、ユダヤ人のようになった。
ギリシャ人を相手にする時には、ギリシャ人のようになった。
言葉や振る舞い、価値観を、相手に合わせて変えていったということです。
自分の言葉、自分の振る舞い、自分の価値観を横に置いて、相手に合わせた。
自分の考えを押し付けるのではなく、相手の考えに合わせた。
・人それぞれ違うから
それは、とても大変なことだと思いますが、なぜ、パウロは、そんなことをしたのでしょうか。
それは、人それぞれ違うからです。
年齢も、性別も、持っている文化も、価値観も、そして信じていることも、皆それぞれ違います。
この世には、一人として同じ人はいません。
ですから、どんなに自分にとって良い知らせでも、相手が同じように、良い知らせとして受け取ってくれるとは、限らないのです。
確かに、キリストの福音は、万人にとって良き知らせです。
すべての人に妥当する普遍的なものです。
でも、その普遍性も、伝え方によって、相手に届かないことがあるのです。
たとえば、私たちは、聖書のことを、旧約聖書と新約聖書というふうに呼んでいます。
でもそれは、キリスト教の立場からの呼び方であるということを、皆さんは、ご存知でしょうか。
旧約の約は、約束の約です。
つまり、旧約は古い約束、新約は新しい約束という意味であるわけです。
キリスト者は、イエス様が結んでくださった新しい約束に生きる者です。
その視点から見れば、イエス様以前の約束、旧約聖書に記された約束は、古いものとなるわけですが、
そんな言い方をされたら、ユダヤ人の方々は、どう思うでしょうか。
きっと、あなた方の信じているものは、もう古いと、そう言われているように、思うでしょう。
それは、決して、嬉しいことではないでしょう。
だから、相手の立場に立って考えることが、必要なのです。
パウロは、自分が良いと思うことを、一方的に伝えるのでなく、相手に合わせて変換しました。
言葉を変え、伝え方を変えました。
共に喜ぶためには、この作業が大事なのです。
ユダヤ人と一緒に聖書を読むときは、旧約聖書と言わずに、ヘブライ語聖書と呼ぶようにと、神学校で教わりましたけれども、
そのような変換が、大事だということです。
・松谷信司さん研修会
昨年10月に、キリスト新聞社の松谷信司さんを迎えて、研修会を行いました。
タイトルは、「なぜ教会の敷居はこんなに高いのか」でした。
教会の中にいる者からすると、どこにそんな高い敷居があるのかと思うわけですが、
教会の外の人から見れば、そこには高い敷居があるわけです。
教会の中の人には見えない、外から見ないと気づかない高い壁。
その壁を、見つめなければ、いつまでも、教会は、特定の人しか入れない場所になってしまうということでした。
どうしたら、壁を見ることができるのか。
そこで、松谷さんがおっしゃっていたのが、「ハタから視点」ということでした。
教会は、どう伝えるか?ということばかり考えているけれども、
むしろ大事なのは、「どう見られているか」ということだ。
外の人に、どう見られているか。
この外からの視点、「ハタから視点」が大事だとおしゃっていました。
あるいは、「他人の靴を履いてみる」ということもおっしゃっていました。
もちろん、他人の靴は、自分の靴じゃありませんので、自分の足には合いません。
履けるけどブカブカだったり、小さすぎて、履けない場合もあるでしょう。
そんなサイズ違いの靴を履いてみる。
自分の足に合わせて靴を履くのでなく、他人の靴に自分の足を合わせてみる。
もちろん、足では、そんなこと不可能ですが、考えや気持ちならば、それができるわけです。
自分と違う考え、自分と違う立場に立って、考えることができる。
と言っても、もちろんそれは、難しいことですが、
でも、たとえば、お寺や神社に行ってみる。
その時に、どんなことを考えるか。どんなことに悩むか。
いつ行ったらいいか。何を着ていったらいいか。必要なものは何か。お金はどれくらいかかるのか。
入り口は、開いている方がいいか。閉じている方がいいか。
中に入った時には、どんなふうに声をかけられたらいいか。
入る時の不安、入った時の緊張を、実際に味わってみる。
その時に、新来者の気持ちがわかると、松谷さんはおっしゃっていました。
なるほどなと、思わされました。
もちろん、新来者と言っても、いろんな人がいます。
年齢も性別も、性格も違う。
ですから、こうしていれば間違いないというような答えは、ないのだと思いますが、
それでも、相手の立場に立ってみようとする、その姿勢が、教会の敷居を下げていくのです。
そして、それが、今日のテーマである、「異なる者と共に喜ぶための秘訣」なのだと思います。
これは、決して、簡単なことではありません。
相手に合わせるとか、相手の立場に立って考えるということは、とても難しいことです。
でも、日常的に、私たちが、やっていることでもあると思います。
たとえば、子どもたちと話す時、目線を合わせるとか、簡単な言葉を使うとか、
逆に、高齢者と話すときには、ゆっくりと、大きな声で話すとか、
そういう工夫というのは、無意識にも、私たちがしていることです。
特に、教会は、異なる者の集まりです。
そこで、共に生きること、それ自体が、非常に重要な訓練であると言っていいでしょう。
どの社会よりも、重要な訓練を、私たちは受けているわけです。
その力を、より外に向けていく。
教会の外にいる人たちに合わせて、内側を変えていく。
教会の外にいる人たちの想いに立って、教会のことを考えてみる。
そうすると、見えなかったものが、見えてくるということです。
そこに、共に福音にあずかるためのヒントがあるのです。
・共に喜ぶために
これは、もちろん、福音を共有するということに限ったことではありません。
喜びを共有する。
異なる人と一緒に楽しんだり、一緒に喜んだりするための秘訣です。
共に喜ぶためには、自分のことだけを考えていてはいけない。
相手の立場に立って考えることが大事である。
ごく当たり前のことだと思いますが、自分の歩みを振り返ると、できていない自分が見えてきます。
自分の想い、自分の好き嫌い、自分の都合を押し付けている姿が、見えてきます。
そのあり方を、ほんの少しでも変えてみる。
相手の想い、相手の好き嫌い、相手の都合に立って、考えてみる。
それだけで、私たちの生き方やあり方が、変わっていきます。
でも、中には、「そんなに気を使って生きるのは大変、疲れてしまう」と思う人もいるかもしれません。
その通りだと思います。
無理をしていては、今度は、自分が喜べなくなってしまいます。
それでは、共に喜ぶことにはなりません。
だから、無理をする必要はありません。
できる範囲でいいのです。
自分も喜べる範囲で、相手に合わせてみる。
その努力が、喜びを、二倍にも三倍にも、大きなものにしていくのだと思います。
自分一人で喜ぶよりも、誰かと一緒に喜ぶ方が、断然、嬉しいものです。
そんな経験をするために、相手の立場に立って考える。
そのことを覚えて、新しい一週間を、歩み出してまいりましょう。
お祈りします。