聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書24章13節〜34節。
新共同訳新約聖書160ページ〜161ページです。
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者 でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に 入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
「聖書を通して見直す」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、一枚の写真を見てもらいたいと思います。
これは、何だかわかるでしょうか。
これは、ある景色の写真なのですが、これじゃあ、何かわからないですよね。
では、ちょっと、離れていってみたいと思います。
そう、これは、富士山です。
先週の火曜日から木曜日にかけて、私は、全国小羊会キャンプに参加してきたんですが、その会場である東山荘というところから見えた景色です。
とっても綺麗な富士山でした。
この綺麗な富士山も、さっきのように、近づきすぎると、よく見えないですよね。
この景色を見て、ある人が、親子で富士山に登った時の話をしてくれました。
お子さんは、富士山の景色を見るのを、とても楽しみにしていたそうですが、登っている時に、ふと「富士山どこ?」って、聞いてきたそうです。
その子は、まさにこの写真のような富士山を期待していたんですが、登ってみると、その富士山は、どこにも見えなかったわけです。
その時に、お父さんは、「ああ、富士山っていうのは、登るもんじゃない。
遠くから、眺めるものなんだ」って、思ったそうです。
その話を聞きながら、どこから見るか、どこに立って見るかということを、考えさせられました。
どこから見るか、どこに立って見るかということで、見え方は全然変わってくるということです。
近すぎるとよく見えないものも、遠くから見ると、はっきりと、綺麗に見えることがある。
これもそうです。
これは、先週見ました、イエス様が十字架にかけられる場面です。
イエス様は、十字架に架けられ、死んでしまいました。
イエス様の弟子たちは、そのことがショックで、心が暗く沈んでいました。
イエス様に従っていけば、きっと良いことがある。
きっと、救われる。
そう信じて従ってきたのに、イエス様は、十字架に架けられて、死んでしまった。
自分達は間違っていた。
イエス様は、神の子なんかじゃなかった。
そう思って、暗い顔をしながら、歩いていました。
そんな弟子たちに、復活したイエス様は近づいていって、言いました。
「ああ、お前たちはなんて、物分かりが悪いんだ。
救い主というのは、こういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そう言ってイエス様は、聖書全体を通して、十字架の出来事を、説明されたって書いています。
イエス様が言いたかったのは、ここだけ見てたら、わかるわけないじゃないかってことだと思います。
さっきの富士山のように、そんなに近くから見てたんじゃわからない。
もっと視野を広げて、聖書全体を通して見てみなさいって、言われたんです。
そうやってみて見ると、さっきまで暗かった弟子たちの心に、希望の光が差し込んできました。
まだ、イエス様は終わってない。
イエス様を信じる気持ちが、燃え上がっていきました。
今日の箇所を通して、イエス様は、聖書を読んでごらん。
聖書の言葉を通して、あなたの辛い経験、苦しい経験を見てごらん。
そうしたら、全然違って見えてくるからって、言われているように思います。
私たちは、苦しいとき、辛いとき、物事が見えなくなってしまうときがあります。
辛いこと、苦しいこと、それしか見えなくなってしまうことがあります。
そんな私たちに、イエス様は、聖書の言葉通して見直すということを、教えています。
苦しい経験や、辛い経験も、聖書の言葉、神様の言葉を通して見直す時、違って見えてくる。
今日は、聖書を通して、見直すということを、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・聖書を通して見直す
今日は、イースター、イエス様の復活を記念する日です。
この記念すべき日に覚えたいのは、“聖書を通して見直す”ということです。
・夢破れて
先ほどは、ルカによる福音書24章13節~35節という非常に長い文章を読んでいただきましたが、ここには、イエス様が十字架に架けられて三日目、二人の弟子が、エルサレムからエマオに向かって歩いていたということが書いてあります。
二人はなぜ、エルサレムからエマオに向かって歩いていたのか。
調べてみますと、エマオには、彼らの家があったんじゃないか。
彼らは、故郷に帰るために、歩いていたんじゃないかと、記されていました。
でも、この旅路は、単なる帰省ではありません。
彼らは、エルサレムから、逃げていたのです。
救い主、メシアだと信じて従ってきたイエス様が、十字架に架けられて殺されてしまった。
弟子の自分たちも、見つかったら同じ目にあうんじゃないだろうか。
そういう不安と緊張の中で、彼らは、エマオに向かって歩いていたのです。
「一切の出来事について、話し合っていた」と書いてありますが、その胸中は、決して穏やかではありませんでした。
「今までの歩みはなんだったのか。
イエス様を信じて、従ってきたけれど、それは、間違いだったんだろうか。」
二人は、「イエス様こそ、イスラエルを解放してくださる救い主、メシアだ」と信じていました。
この人に従っていけば、きっと、良いことがある。
きっと救われる。そう思っていました。
でも、そうではなかった。
信じる気持ちが強ければ強いほど、その失望もまた、大きいものだったでしょう。
二人は、夢破れ、失意の中、エマオに向けて歩いていたのです。
そんな弟子たちのことを思う時、私たちの歩みにも重なるように思いました。
イエス様を信じていれば、きっと良いことがある。きっと、救われる。
そう思って、バプテスマを受けたのに、
クリスチャンになったのに、苦しいことが起こる。
悲しいことが起こる。
イエス様を信じているのに、何でこんなことが起こるのか。
そう思って、躓いてしまう、
信じたって意味がないじゃないかって、信じることをやめてしまう、
信仰から、離れて行ってしまう、
そんなことが、私たちにもあるのではないでしょうか。
このような躓きは、信じているからこそ、起こることです。
信じているからこそ、わからない。信じているからこそ、躓いてしまう。
そんな私たちの歩みに、イエス様は、ともなってくださるのです。
信じることができない時も、イエス様は、私たちと一緒に、歩いてくださるのです。
十字架に躓き、失意の中を歩む二人の弟子に、イエス様は、自ら近づいていかれました。
そして、彼らと一緒に歩き始められました。
・
でも、彼らは、それがイエス様だと、気づくことができませんでした。
ついこの間まで、救い主だと信じて従ってきた人に、気づくことができなかった。
聖書には、目が遮られていたと記されています。
何が彼らの目を遮っていたのか。
それは、彼らの心を覆っていた、深い絶望感ではないでしょうか。
「イエス様はもう死んでしまった」その想いが、彼らの目を遮り、イエス様が共にいることに、気づけなくさせてしまっていたのだと思います。
・
そんな二人に、イエス様は、質問します。
「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。
すると、クレオパという人が「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」と答えます。
「こんなことも知らないんですか。あなたぐらいですよ、こんなこと知らないのは」というわけです。
しかし、イエス様は、「どんなことですか」と、さらに尋ねます。
すると二人は、この数日起こったことについて、話をするわけです。
彼らが話したことなど、当然、イエス様は知っています。
十字架に架けられた張本人ですから、もちろん知っています。
でも、弟子達が知っている事実とは、違ってたんだと思います。
弟子達は、自分たちの知識を前提にして、「あなたぐらいですよ。そんなこと知らないのは」って言ったわけですが、しかし、イエス様から言わせれば、本当にわかっていないのは、お前達の方だって、言いたかったんじゃないでしょうか。
弟子達の言葉は、全部過去形になっています。
「行いにも言葉にも力のある預言者でした」「十字架につけてしまった」「望みをかけていました」。弟子達の言い方でいうと、イエス様はもう過去の人です。十字架の出来事も、もう終わった出来事です。
それに対して、イエス様はいうわけです。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。
まだ、終わっていないのです。
十字架で、終わりではないのです。
そのことを、イエス様は、聖書全体を通して、説明されました。
弟子たちが、説明したことを、今度はイエス様が、説明されるのです。
イエス様の説明と、弟子たちの説明、いったい何が違うのか。
それは、見方です。
同じ出来事を見るのでも、見方が違います。
弟子たちは、自分たちの経験から、十字架の出来事を話しています。
たった、数日。自分たちが見て、聞いて、経験したことを、話しています。
それに対して、イエス様は、同じ十字架の出来事を、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体を通して、説明されるのです。
スケールが全然違います。
弟子たちが、たった数日の出来事として見ていたその出来事を、イエス様は、聖書全体を通して、見ているわけです。
弟子たちが見ていた数日間だけ見ると、それは暗黒の数日間です。絶望の数日間です。なんでこんなことになったのか。どうしてこんなことになったんだ。もうだめだ。もうおしまいだ。これからどうしたらいいんだろう。
そうなるわけですが、でもイエス様は、本当にそうか、本当におしまいかと問うわけです。
確かにあの数日間だけ見たら、そう見えるかもしれない。
でも、それで全て分かっている。全て見えているつもりでいるなら、それは大間違いだ。
聖書を通して、もう一度見直しなさい。
あなたたちが、見逃してしまっていることが、きっと見つかるから。
そうやってイエス様は、いうのです。
イエス様は、数日だけ見てたらダメなんだ。それじゃ、本当に大事なことは見えてこないんだと教えているように思います。
私たちも、弟子たちのように、数日のことに縛られやすいものです。
その日、その時、目の前で起こったことに、一喜一憂してしまう。
そんな私たちに、イエス様は、聖書を通して、見直しなさい。
あなたの経験したその数日の出来事を、神様の歴史、神様の言葉を通して、もう一度、見直しなさい。
そうすると、全然違う、人生の意味が見えてくるから。
イエス様は、そうやって呼びかけているんです。
・弟子たちの変化
この後、イエス様は、弟子たちの招きを受けて、二人の弟子と共に、食事をします。
この食事というのは、イエス様の宣教活動において、教えと共に、二つで一つのメッセージでした。
言葉と行い、教えと食事。これは、イエス様において、二つで一つでした。
弟子たちは、この二つで一つのメッセージを受け取ることによって、目が開かれ、寄り添って共に歩まれた方が、イエス様だったと気づきます。
ただ、気づいた瞬間、イエス様の姿は見えなくなってしまったと記していますが、しかし、彼らは、もう、暗い顔をしてはいません。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
数日の出来事に縛られて、暗く、ふさがれていた二人の心は、み言葉によって、熱く燃え上がります。
聖書を読み、その福音に触れることによって、マイナスにしか見えなかった出来事に、希望の光が差し込んでいったのです。
そして、彼らの心は燃えたのです。
この直後、時を移さずして、彼らは、エルサレムに戻って行きました。
エルサレムはもはや、彼らにとって、忌まわしき場所ではありませんでした。
聖書を通して見直すことによって、希望の場所、栄光の場所へと変わっていったのです。
・結論
私たちも、時に、辛い経験、苦しい経験を通らされることがあります。
その時、私たちは、苦しい、悲しい、辛い、そのことに目を奪われて、
それしか見えなくなって、もうおしまいだと、心が絶望感に覆われてしまうことがあります。
でも、イエス様は、そんな私たちに問いかけるのです。
本当にそれでおしまいか。本当にそれだけか。
聖書を通して、もう一度見直してごらん。
あなたに見えていない、大事なことが見えてくるはずだから。
イエス様は、そのように私たちを招くのです。
大事なのは、聖書を通して、見直すということです。
私たちの人生も、聖書を通して見直す時、新しい意味が見出されていく。
苦しいこと、辛いこと、私たちにはマイナスにしか見えないその出来事も、聖書を通して見直す時、全く違う意味を持って迫ってくる、響いてくることがあるのです。
苦しかった経験、辛かった経験、あの時、ひとりぼっちだと思っていたその経験を、聖書を通して見直す時に、私たちは、イエス様が共にいてくださったんだということに、気づくわけです。
その時、その経験は、大切な経験、かけがえのない経験になっていきます。
誤解のないように言っておきますが、聖書を通して見直すことによって、事柄そのものが変わるわけではありません。
聖書を読んだからといって、教会に来たからといって、抱えている問題や病気が、全部治るかというと、残念ながら、そんなことはないでしょう。
私たちが生きる日常が、ドラマのように、劇的に変わっていくということも、おそらくないでしょう。
相変わらず病気にはなる。
相変わらず悲しいことも起こる。
イエス様の十字架の死は、どんなに見方を変えたとしても、なかったことにはできません。
聖書を読んでも、イエス様を信じても、私たちの人生は、相変わらず、山あり谷ありの人生です。それは変わりません。
じゃあ、何が変わるのか。
見え方が変わるのです。
苦しい、辛い、そうとしか見れなかった経験が、聖書を通して見直した時、かけがえのない、大切な経験に見えてくる。
それが、信仰だと思うのです。
聖書を通して見直す、信仰の目によって見直す。
すると、それまでマイナスにしか見えなかった経験が、かけがえのない、大切な経験に見えてくる。
死者の眠る墓も、信仰の目によってみる時、復活の場所に見えてくる。
十字架も、単なる処刑場ではなく、キリストの場所、
神が苦しむ人々と共におられるしるしに見えてくる。
死も、終わりではない。新しい命の始まりに見えてくる。
これが、聖書を通して見直す、信仰の目によって見直すということだと思います。
だからイエス様は、信じるものになりなさい。み言葉を信じて、み言葉を通して、あなたの人生を見直しなさいと言われるのです。
イエス様の復活を記念するこの日、聖書を通して見直す、
信仰の目によって見直す、その時に、見えていた景色が全く変えられるということを、覚えたいと思います。
そして、絶望の時も、希望を持って、歩む者でありたいと願います。
お祈りします。
主なる神様
今日は、イースター、主の復活を記念する日です。
今日、私たちは、復活されたイエス様の言葉を通して、「聖書を通して見直す」というメッセージを、いただきました。感謝いたします。
どうか、私たちが、苦しいとき、辛いとき、うつむいて暗い顔をするしかない、そんなときも、あなたを信じて、あなたのみことばを求めていくことができますように。
そして、どうか、新しい視点を、新しい景色を、見ることができますように、助けてください。
主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン