聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書13章22節〜30節。
新共同訳新約聖書135ページ〜136です。
13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
「そのままで」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
イエス様はよく、神様の国のお話をされました。
神様の国、まあ、天国って言った方がわかりやすいかもしれませんね。
イエス様は、よく、天国のお話をされました。
今日のお話もその一つなんですが、今日のお話は、天国に、誰が入れるのかっていうお話です。
天国には、誰が入れるのか。
みんなは、天国に行きたいですか。
どうしたら行けるんでしょうか。
イエス様の答えを見ていく前に、イエス様の弟子たちがどう考えていたかということを見ていきたいと思います。
イエス様の弟子たちは、こう考えていました。
イエス様の弟子たちは、線を引いていました。
こうやって線を引いて、線の内側の人は天国に行けるけど、線の外側の人たちは行けないって考えていました。
弟子たちはもちろん、線の内側にいると思っていた。
自分たちは、当然、天国に行ける。
イエス様の言うこともちゃんと聞いているし、ずっとイエス様に従ってきた。
仕事も辞めて、家族とも別れて、全てを捨てて、イエス様に従ってきた。
だから、当然、天国に行けるって思っていました。
みんなは、どうですか。
自分は、この中の、どの辺にいるって思うでしょうか。
弟子たちと同じように、自分も、線の内側にいる!って思うでしょうか。
いや、私は、自信ないなーって、思うでしょうか。
さあでは、イエス様の答えを見ていきたいと思います。
こんなふうに考えていた弟子たちに対して、イエス様はなんと言われたか。
イエス様、こう言われました。
天国に入るのはね、この線の内側の人たちじゃありません。
この円の外にいる人たち。天国にふさわしくない人たち。入る資格もない人たち。
神様は、そういう人たちを、ご自分の国に、受け入れてくださるんだ。
イエス様は、そうやって言われたんです。
そして、同時に弟子たちに、「もう一度、胸に手を当てて、考えてごらん。
あなた方は、本当に、線の内側にいるような人間か。
そんな立派な人間か。
違うだろ。
嘘もつくし、すぐ逃げる。裏切ることもある。
あなた方も、彼らと同じ人間だろ。
でも、そんなあなたがを、神様は受け入れてくださる。
それが、天国なんだ」って、イエス様はそう言われたんです。
天国に行けるかどうか、心配だなって思っている人がいるなら、大丈夫。
そんなあなたのために、天国はある。
この世界に、線の内側に入れる人なんていません。
みんな、線の外側。
みんな、欠けているところがあるし、足りないところがある。
でも、そんな私たちを、受け止めてくれるのが神様なんだ。
そんな神様に受け止められて、今日も明日も、私たちは生きていくし、やがて、天国に迎えられていくんだってことを、今日は、一緒に覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・誰が救われるのか
今日は、”救い”ということについて考えてみたいと思います。
”救い”とはなんでしょうか。
皆さんは、イエス様が指し示す”救い”を、どう理解しているでしょうか。
実は、聖書における救いのイメージは、一つではありません。
病気の癒し、囚われからの解放、罪人の赦しなど、様々な救いが語られています。
今日の箇所に語られている救いは、やがてきたる神の国に入れられることを指しています。
一般に、天国と言われる神の国。
そこに、誰が入ることができるのか。
誰が、救われるのか。
これが、今日のテーマです。
ご一緒に、聖書の中身を読んでいきたいと思います。
・つぶやき
今日の箇所は、イエス様の弟子のつぶやきから、全てが始まっていきます。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。
弟子は、そのようにつぶやきました。
このつぶやきが、イエス様の言葉を引き出していくことになるのですが、なぜ弟子は、こんなことをつぶやいたのでしょうか。
それは、おそらく、イエス様に従う人が少なかったからでしょう。
イエス様一行は、町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられたと、記されています。
しかし、その教えに、耳を傾けるものは、少なかったのです。
私たちは今、ルカによる福音書を続けて読んでいますけれども、これまで読んできた話の中にも、イエス様に対して怒りを向ける人がいたり、出ていってくれと言う人たちがいたり、崖から突き落とされそうになる時もありました。
そんなふうに、イエス様の宣教活動は、いつもうまくいっていたわけではなかったのです。
そのことを嘆いて、弟子は、「救われる者は少ないのでしょうか」と、つぶやいたのだと思います。
病人を癒したり、悪霊を追い出したり、素晴らしい教えを語っておられるのに、イエス様を受け入れる人が少ない。
その現実に落胆しながら、「なぜわからないのか。これだけやっているのに、なぜ従わないのか」「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と、つぶやいたのだと思います。
これは、イエス様の宣教活動に従事していた弟子たちにとって、切実な問題でした。
・厳しい言葉
しかし、そんな弟子に対して、イエス様は、驚くほど厳しい言葉を語ります。
「狭い戸口から入るように努めなさい。しかも今すぐに。さもなくば、戸は閉じられ、頼んでも知らないと言われ、外に投げ出され、あなたがたはそこで泣きわめいて歯ぎしりする」と言われました。
言われた弟子は、さぞ驚いたことでしょう。
「気を落とさず頑張ろう」とか「次の町では、きっとうまくいく」とかではなくて、「お前たちこそ努力しろ」「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われてしまうのです。
言われた弟子たちは思ったでしょう。「え!イエス様、それ私に言っているんですか!?」
つぶやきから察するに、彼は、当然自分は救われると思っていたでしょう。
もっと言えば、自分は、救う側にいるとさえ思っていたかもしれません。
そんな彼にとって、イエス様の言葉は、想像もしない言葉だったに違いありません。
・異邦人の救い
しかし、一方でイエス様は、こんなこともおっしゃっています。
29節「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」
弟子たちは、外に投げ出されるかもしれないのに、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く人々がいる。
彼らは一体何者でしょうか。
元来、この人々は、異邦人のことだと言われてきました。
イエス様は、異邦人の救いを、語られたのだということです。
弟子たちにとって、彼らは、救いの外側にいる人々でした。
そもそも、救われる数に入っていない。
救われることはないと思われていた人々。
イエス様は、そんな人々が、神の国で宴会の席に着くと言われるのです。
救いから最も遠いところにいると思われた異邦人が、神の国の宴会に招き入れられ、イエス様に最も近く、当然救われると思っていた弟子たちが、外に投げ出されるかもしれない危機に立たされている。
このコントラストは、今日の最後に語られている言葉「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」という言葉と、響き合っているようにも思います。
・救いの外にいる人々こそ、神の国に入れられる
これらの言葉を通して、イエス様が伝えたいこと。
それは、「救いの外にいる人々こそ、神の国に入れられる」ということではないでしょうか。
これは、異邦人の救いだけを意味しているのではありません。
病人や犯罪者、寄留者、やもめや孤児など、当時のユダヤ社会には、救いの外にいると思われていた人々がたくさんいました。
もっと言えば、弟子たちもそうです。
彼らも弱く、欠けだらけの罪人にすぎません。
やがてはイエス様を裏切り、逃げていく、そんな弱さを抱えていました。
そのことを忘れ、高ぶっていたからこそ、イエス様は、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたのです。
「狭い戸口から入るように努める」というのは、努力して、良い人間になる、神の国にふさわしい人間になる、ということではありません。
むしろ逆です。
「狭い戸口から入るように努める」というのは、小さくなりなさいということです。
身を低くしなさいということです。
ある牧師は、狭い戸口から入る様子を、茶室に入る様子と重ねて、説明しています。
このように、茶室の入り口は、非常に狭くなっています。
「にじり口」と言われるそうです。
縦横の長さは、60cmぐらいしかないそうです。
私は、入れるだろうかと思ってしまいますが、なぜ、こんなにも狭く作ってあるか。
それは、茶室の中ではすべての人が平等ということを示すためだったそうです。
これを導入したのは、千利休という人だそうですが、彼が生きた時代は、戦国時代でした。
刀を持った武士たちも、刀を外し、頭を下げなくては茶室に入れない。
そうすることで、武士も商人も、身分の隔てなく平等とするために、あえて入り口を狭くしたそうです。
これと同じように、狭い戸口から入るというのは、自分を飾っているもの、身分や職分、地位や名誉を脱ぎ捨てるということです。
そうやって、本来の私、何者でもない私になるということです。
弟子たちは、イエス様の近くにいる間に、本来の自分を見失っていたのではないでしょうか。
イエス様の弟子であることによって、あたかも自分が救われるにふさわしい人間だと、無意識のうちにも、思い上がっていたところがあったのではないでしょうか。
そして、周りの人々を、上から見下ろす、高みから見下ろすような、
「ああ、あの人たちは救われないんだな」と、神もないのにそんなことを思うようになってしまっていたのではないでしょうか。
この危険は、教会にもあるように思います。
一歩間違うと、私たちも、弟子たちと同じようになってしまう。
ノンクリスチャンの人々を、上から見下ろすように憐れんだり、嘆いたりする。
そんな思い上がりの誘惑が、私たちにもあるのだろうと思います。
そんな私たちに、イエス様は今日、おっしゃるのです。
狭い戸口から入りなさい。
自分を飾っているものを脱ぎ捨てて、本来の自分を、思い出してみなさい。
そのままのあなたでいいんだ。
弱く、小さく、欠けだらけのままでいいんだ。
そのままを受け入れてくれる場所、それが神の国なんだ。
そうイエス様は、語りかけておられるのだと思います。
改めて、神の国は、身分や職分、地位や名誉によって入る場所ではないことを覚えたいと思います。
救いの外側にいるような私たち。
ありのままの私たちを受け止めてくれる場所。
それが神の国です。
だから、弱く、小さく、欠けだらけの私たちとして、生きていきましょう。
大事なのは、高みに昇る努力ではありません。
ありのままの私、何者でもない私であることを忘れない努力です。
神様の愛がなければ、赦しがなければ、神の国に入れない。
そんな私たちであることを、忘れない。
それは同時に、ありのままの私を受け止めてくださっている神様を忘れないということでもあります。
それこそが、狭い戸口から入るように努めるということなのだと思います。
神の愛を信じて、高みを目指すのではなく、いと小さき者として、生きていきましょう。
お祈りします。