2023年10月8日礼拝メッセージ「偽らずに生きるために」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書12章1節〜7節。

新共同訳新約聖書131ページです。

12:1 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々の パン種に注意しなさい。それは偽善である。

12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。

12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。

12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。

12:6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。 12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

「偽らずに生きるために」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日は、一冊の絵本を読みたいと思います。

1、「はだかの王様」っていう絵本です。

とても有名な絵本ですけれども、読んだことがあるでしょうか。

今日は、まず、この絵本を読みたいと思います。

「はだかの王様」。

2、あるところに、新しい服が大好きな王様がいました。

その王様のところに、ふたりのあやしい人たちがやってきました。

二人は言いました。

「珍しい布で服を作って差し上げましょう。

愚か者や、役立たずには見えない、特別な布です。」

「それは面白い!」

王様は喜びました。

早速、二人に、服を作るよう、頼みました。

3、二人は、金貨をどっさり受け取って、早速仕事に取り掛かりました。

ギーコ、ギコ、バッタン。

ギーコ、ギコ、バッタン。

部屋から、布を折る音が聞こえてきます。

ギーコ、ギコ、バッタン。

ギーコ、ギコ、バッタン。

二人は、手を動かし続けています。

でも、実はこの二人、大嘘つきなのでした。

4、「どんな服だろう。」

王様は、待ちきれず、賢い大臣に、見に行かせました。

「美しい服でございましょう。」

二人は得意顔で自慢しますが、大臣には、何も見えません。

大臣は、自分が役立たずなのかと心配になりました。

メガネを外して目をぱちくり。

でも、やっぱり見えません。

しかし大臣は、「色も柄も立派でございましたよ!」

王様にそう報告しました。

愚か者だと思われないように、嘘をついてしまったのです。

5、それを聞いて、王様は、家来を連れて、服を見に行きました。

「美しい服でございましょう。」

二人は手を動かしながら、自慢します。

でも、王様には、何も見えません。

「色も柄も立派ですな!」

家来たちも見えていませんでしたが、大臣と同じ言葉を言いました。

それを聞いて、王様は、自分が愚か者なのかと心配になりました。

6、不思議な布の噂は、町中に広がりました。

「いつその布が見れるのかな。」

「今度のパレードだよ!」

パレードの前の晩、二人は、徹夜で、服を仕立てていました。

チョキチョキ、チョキチョキ。

布を手にしたふりをして、はさみを使い、

布を手にしたふりをして、針を使っていました。

7、パレードの日がやってきました。

王様は鏡の前で、二人の言う通り、服を脱ぎました。

二人は、王様に、服を着せる仕草をしました。

「蜘蛛の糸をおったように軽いズボンですよ。」

「ふむふむ、なるほど素晴らしい。」

「上着もご立派でございますよ。」

「そうかそうか、なるほど素晴らしい。」

8、王様は、パレードの先頭に立ちました。

町の人々は目をこすりながら見つめています。

「ご立派ですわ!」「お美しい!」

みんな、愚か者になりたくありません。

9、王様も、ニコニコ得意顔。

そこへ、子どもが飛び出してきて、言いました。

「王様、はだかだよ!」

周りにいた人たちが、口々に言いました。

「そうさ、そうだよ。そう思っていた。」

「そうよ、私だって、そう思っていたわ。」

10、みんなの声が、王様の耳に届きました。

王様は、自分がはだかなのかもしれないと思いましたが、パレードを止めるわけにはいきません。

王様は、はだかのまま、みんなの前を歩かなければいけませんでした。

恥ずかしくて、顔を真っ赤にしながら、歩いていきました。

二人の男に騙されて、恥ずかしい思いをした王様の話でした。

それにしても、なんでこの王様は、二人の男に騙されてしまったんでしょうか。

二人の作った服が見えないなら、なんで、素直に見えないって、言えなかったんでしょう。

服なんてないじゃないか!って、なんで、言えなかったんでしょう。

それは、愚か者だって思われたくなかったからですね。

みんな、そうでした。

王様も、大臣も、家来たちも、そして、町の大人たちも。

みんな、愚か者だって思われたくない。

それで、見えてもいないのに、さも見えているかのように、素晴らしい!なんて言って、嘘をついてしまった。

そして、その結果、王様は、恥ずかしい思いをしてしまったわけです。

愚か者だって思われたくない、そう思うあまり、本当の愚か者になってしまったという、なんだか悲しい話ですが、

でも、私たちにも、そんなことがあるんじゃないでしょうか。

愚か者だって言われて、気持ちが良い人なんていません。

みんな、賢いって思われたいし、良い人だって言われたい。

それで、本当はわからないのに、わかっているふりをしたり、本当はできないのに、できるって嘘をついたりしてしまう。

そんなことがないでしょうか。

でも、そうやって嘘をついて生きるのは、とても苦しいものです。

いつばれるか、いつばれるか、おびえながら生きなきゃいけなくなります。

どうしたら嘘をつかずに生きられるんでしょうか。

どうしたら、ありのままの自分で、生きられるんでしょうか。

そのために、イエス様は二つのことを教えています。

一つは、神様が、私たちの全てを知っておられるということ。

どんなに人の目をごまかせても、神様の目はごまかせません。

隠すも隠さないも、神様は、私たちの全てを知っておられる。

良いところだけじゃなく、私たちの悪いところも知っておられる。

私たちのずるいところも、弱いところも、それを隠すために強がっているところも、全部知っておられる。

その上で、私たちを大切に思ってくださっている。これが二つ目です。

私たちの弱さや欠けを知っていて、それでも、大切だって言ってくださる。

「だから、安心していきなさい。

嘘をついたり、隠したりしないで、ありのままでいきなさい。

神様が大切だって言ってくださっているんだから、そのまんまで生きなさい。」

イエス様は、そう言っておられます。

このイエス様の言葉を、心に覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・今日のテーマ

先週は、イエス様が、ファリサイ派の人の食卓で、ファリサイ派と律法の専門家に対して、厳しい言葉を語られた場面を読みました。

「杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」

外側のことは、自分の格好も含め、杯や皿さえも綺麗にするのに、内側は汚いものでいっぱいだ。

何をどのくらい献げるか、そんなことにはものすごく気を使っているけれど、肝心な神への愛が疎かになっている。

つまり、外側ばっかりで、中身がないということです。

そんなふうに、イエス様は、厳しく、そして激しく、ファリサイ派の人々を批判しました。

当然、ファリサイ派の人々も、律法の専門家も、イエス様に対して、激しい怒り、敵意をもちました。

それで彼らは、なんとかしてイエス様を捕まえてやろうと、無理難題をふっかけてくるようになりました。

つまり、公然と、イエス様を攻撃するようになったということです。

しかし、それでもなおイエス様のファリサイ派批判は止まりません。

今日の箇所では、弟子たちに、ファリサイ派に気をつけるようにと注意を促しています。

その内容は、先ほど言った内容とも繋がっています。

外側は綺麗に繕っているが、内側は強欲と悪意に満ちている。

イエス様は、これを偽善と言っています。

この偽善、もっと言えば、「偽」、偽りということが、今日のテーマです。

・偽善とは

イエス様は、ファリサイ派の偽善に注意しろと言われます。

偽善とは、読んで字の如く、偽りの善のことです。

聖書には、その具体例も記されています。

たとえば、ファリサイ派の人たちが、会堂や大通りの角など、人目につく場所にわざわざ立って祈ったり、施しをしたりするのが、そうです。

あるいは、断食をする時も、人にアピールするように、沈んだ顔つきをする。

それは、神様に対する行為ではなくて、人に対するパフォーマンス、演技だ。

神様に熱心に仕えているように見せて、本当のところは、人に良く思われようとしているだけ。

それは、神に対する奉仕ではなく、演技である、偽りであると、イエス様はそう言われるのです。

この偽善に注意しろと、イエス様は言われます。

・偽善に注意するとは

注意するとは、どういうことでしょうか。

騙されるなということでしょうか。

そういう意味合いもあるかもしれません。

でも、私はむしろ、彼らのようになってはいけないと、言われているように感じます。

2節、3節で、イエス様は、こう言われています。

12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。

12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。

イエス様は、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と言われます。

簡単に言えば、「いつかはばれる」ということです。

どんなに綺麗に繕っても、上手に偽っても、隠し通すことはできないということです。

そのことをイエス様は、弟子たちに向けて言っているんです。

「あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

ファリサイ派の人たちと同じように、あなた方も、どんなに陰で隠れて言っても、いつかはばれるからねって、イエス様は、言われているわけです。

つまり、ファリサイ派の問題は、ファリサイ派の人たちだけの問題じゃないということです。

弟子たちも、そして私たちも、そうならないように、注意しなさいという言われているんです。

先ほど、「はだかの王様」の絵本を読みました。

読みながら、王様の気持ちがわかるって思った人、たくさんいたんじゃないでしょうか。

私は、よくわかります。

愚か者だって思われたくない気持ち。

良い人間だって思われたい気持ち。

そして、そう思うあまり、見栄を張ったり、カッコつけたりしてしまう。

私も、そんなことばかりです。

こうして私が、牧師として、みなさんの前で話しているのもそうです。

どこかで、カチンコを鳴らしている自分がいます。

カチンコっていうのは、映画の撮影の時に、カチンって音を鳴らすやつです。

映画を撮影する時に、俳優が役に入るように、私も、牧師になっているんだと思います。

そうでもしないとですね、こんな場所には、なかなか立てないように思います。

わかってもいないのに、わかったようなふりをしたり、さも良い人間であるかのように振る舞ったり、そんな自分が、時々にいるように思います。

ですから、先週と今日と、イエス様の言葉がズキズキと、私の心に突き刺さっておりますが、

・偽りの根本には恐れが

でも、そんな私だからこそ、わかることもあります。

それは、「自分を偽って生きるのは辛い」ということです。

自分の弱さや欠けを繕って生きるのは、そんなに楽なことではありません。

いつも、心のどこかに、不安がある。

本当の自分がばれることに、不安がある。

そういう不安を抱えながら生きることは、苦しいことです。

弱さも欠けも隠さず生きられるのなら、その方が、どんなに楽でしょうか。

でも、なかなかそうできないのが私たちなのではないでしょうか。

私はよく、インターネットで本を買うのですが、その時によく「嫌われる勇気」という本が出てきます。

世界中でベストセラーになっている本だそうですが、そういう本が売れるというのは、嫌われることに恐れを感じている人が大勢いることの証拠だと思います。

はだかの王様が、愚か者だと思われることに恐れを抱いたのと同じように、偽ることの根っこには、恐れがあるように思います。

本当の自分を知られてしまうのが恐い。恥ずかしい。

そういう想いが、私たちを、偽ることへと、追いやっていくのではないでしょうか。

・偽らずに生きるために

そんな私たちに対して、イエス様はまず、「人ではなく神を恐れよ」と言います。

全ては、人に対する恐れから始まります。

どう思われるんだろう。

どう言われるんだろう。

人の目を気にするからこそ、偽ろうとしてしまうのだと思います。

イエス様は、そんな私たちの心を、神様へ向けます。

人を恐れるのではなく、神を恐れなさい。

神様の方が、人の何倍も権威を持っている。

だから、神を恐れなさいということです。

ただ、恐れがある限り、根本的な問題は解決しません。

だから、続けてイエス様は「恐れるな」と言われるのです。

一見、矛盾しているようにも思われますが、そうではありません。

イエス様は、「恐れるべきお方である神は、あなたたちの髪の毛一本もご存知だ。

もちろん、弱さも欠けも知っている。

その上で、あなたたちをかけがえのない存在として大切に思っておられる。

だから、安心して生きなさい」と仰っているのです。

恐れるべきお方である神様は、私たちの弱さも欠けも知っておられる。

私たちの全てを、知っておられます。

つまり、もうすでに、ばれている、知られているということです。

ですから、隠す必要がないわけです。

「隠さなくても大丈夫。

もう知っているから。

その上で、あなた方のことを愛している。」

神様はそう仰っているんだと、言われているんです。

これこそ、私たちを、偽りから解放する、福音の言葉ではないでしょうか。

「隠さなくても大丈夫。もう知っている。それも含めて、あなたのことを愛している。」

このメッセージを心に留めて、またここから、新しく歩み出していきましょう。

お祈りします。

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