聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節〜14節。
新共同訳新約聖書102ページ〜103ページです。
2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
「自分のことでいっぱいいっぱいな私たちに」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
クリスマスおめでとうございます。
今年も、クリスマスがやってきました。
先日の子どもクリスマス会では、「クリスマスといえば、プレゼント」と、みんな言っていましたが、
みんなの家には、サンタさんはきたでしょうか。
もうプレゼントは、もらったでしょうか。
小さい頃、私はよく、「良い子にしてないとサンタさんは来ない」って、言われました。
みんなも言われたでしょうか。
でも、あの言葉は、本当なんでしょうか。
サンタさんっていうのは、良い子のところにしか来ないんでしょうか。
悪い子のところには、来ないんでしょうか。
もしそうなら、それは、サンタさん、クリスマスをわかってないっていうことになります。
クリスマスっていうのは、イエス様の誕生をお祝いする日です。
神様の子どもであるイエス様が、私たちのところに来てくださった。
そのことを覚える日ですけれども、
さて、イエス様は、私たちが良い子にしていたから、来てくれたんでしょうか。
神様の言うことを真面目にちゃんと守ってたから、そのご褒美として、来てくれたんでしょうか。
そうじゃありません。
もしそうだったら、イエス様は、今日の箇所に書かれているような、こんな生まれ方していなかったと思います。
今日の聖書の箇所には、イエス様が、生まれた時の様子が書かれています。
そこには、布に包んで、飼い葉桶の中に寝かせられたって書いてあります。
「飼い葉桶」っていうのは、こういうのです。見たことあるでしょうか。
これは、普段、なんのために使われるものか、知ってますか。
これは、牛とか馬に与える餌、草とか藁を入れておくものです。
飼い葉桶っていうのは、牛とか馬の餌箱のことなんです。
それが置いてあるってことは、つまり、イエス様が生まれた場所は、家畜小屋だったということです。
人の家じゃない。
家畜の家で、イエス様は、生まれたんです。
そこは、人が生まれるのに、ふさわしい場所ではありません。
イエス様は、なんで、そんな場所で生まれなきゃいけなかったんでしょうか。
なんででしょう。
今日の箇所には、こう書いてあります。
一番最後のところ。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。
宿屋がいっぱいだった。
もう泊まる場所がなかった。
だから、家畜小屋で生まれなきゃいけなかった。
聖書には、そう書いてあるけど、それだけじゃないと思います。
イエス様のお母さんのマリアさんは、この時、臨月でした。
臨月っていうのは、赤ちゃんが生まれる時のことです。
もう、いつ生まれてもおかしくない。
そんな妊婦さんを断るっていうのは、単に、宿屋がいっぱいだったということではない。
人々の心が、自分のことで、いっぱいだった。
他の人を心配したり、労ったりする隙間もない。
受け入れる優しさも、愛もない。
そんな世界だったからこそ、イエス様は、家畜小屋で生まれたんです。
私たちが良い子だから、クリスマスが来た?とんでもない。
むしろ反対です。
私たちの心が、自分のことでいっぱい。
人のことを考える余裕も、隙間もない。
そんな私たちを赦し、愛するため。
そして、私たちが、互いに愛し合い、共に生きるようになるために、イエス様は来てくださったんです。
私たちが良い子だから、イエス様が来てくれたんじゃありません。
どうしようもない、自分のことでいっぱいいっぱいになっている私たちを赦し、愛するため。
そのために、イエス様は、来てくださったんです。
そして、今も、私たちと一緒にいてくださっている。
そんなイエス様のことを、今日は、心に覚えたいと思います。
そして、少しでも良い、自分のことだけじゃなくて、他の人を大切にする。
この1週間、そのことを覚えて、生きていきましょう。お祈りします。
・今もイエス様の居場所はない
イエス様が、家畜小屋に生まれたのは、単に場所がなかったからではありません。
場所の問題というよりも、人の問題です。
場所がいっぱいだったという以上に、人々の心が、自分のことで、いっぱいいっぱいだった。
他の人を心配したり、労ったりする余裕も、隙間もない。
そんな世界だったからこそ、イエス様は、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かされたのですが、
それから2000年以上経ちました。
今の世界はどうでしょうか。
イエス様を迎えるにふさわしい世界、ふさわしい私たちになっているでしょうか。
今年2月、ロシアがウクライナに侵攻しました。
みるみるうちに戦争になり、10ヶ月経った今も、終わっていません。
日本も含め、国際社会は、この戦争をやめさせたいのか、応援しているのか、よくわかりません。
どうしたら終わるんでしょうか。
ミャンマーで起こった、国軍によるクーデターも、もうすぐ2年が経とうとしていますが、今も、暴力的な支配が続いています。
学校が空爆されたり、コンサート会場が空爆され、多くの人々が、命を奪われています。
少数民族の村を中心に、多くの村の家屋に火が放たれ、60万人以上の人々が、避難生活を余儀なくされていると、言います。
この世界は、今も、イエス様を迎えるにふさわしい世界ではありません。
皆さんの中にも、クリスマスどころじゃない。
そんな日々を、過ごしておられる方が、いらっしゃるかもしれません。
先日、妻の父である奥村敏夫先生から、葬儀が入ったので祈ってほしいと、連絡がありました。
奥村先生は、北海道の釧路教会で牧師をされていますけれども、
天に召された方は、その釧路教会に転入会することを、希望されていた方だったようです。
クリスマスを迎えるこの時期に、大雪と共に、葬儀になったということで、無事を祈っておりましたけれども、
その連絡を受けながら、私自身、昨年の岸本姉妹の葬儀や、
私が就任した年、2014年の12月に天に召された、村上みさこ姉妹の葬儀のことを思い出しておりました。
ああ、あの年は、クリスマスどころじゃなかったな。
クリスマスを喜ぶ余裕もなかったなと、思い返しておりました。
しかし、それでもなお、クリスマスはやってくる。
クリスマスを迎える余裕も、隙間もない私たち。
それでもなお、イエス様は、私たちのところに来てくださる。
私たちが良い子であろうがなかろうが、関係なく、イエス様は来てくださる。
それが、クリスマスです。
・アドベントとは、アドベンチャー
みなさんは、アドベントという言葉をご存じでしょうか。
日本語では、待降節と言われたりします。
降りてくるのを待つ時と書いて、待降節です。
クリスマスまでの4週間が、待降節とされ、クリスマスに向かって、様々な準備を、私たちはしていくわけですが、
しかし、実はそれは、アドベントという言葉、本来の意味とは違います。
アドベント本来の意味は、「接近する」とか「到来する」ということです。
ラテン語のアドベントゥスという言葉からできたそうで、冒険を意味するアドベンチャーも、同じ語源に由来していると言われています。
ですから、本来アドベントというのは、備えの時というよりも、
イエス様が、到来してくださった時、
イエス様が、冒険してくださった時であるということです。
「冒険」という言葉を、辞書で調べてみますと、「危険を伴うことをあえてすること」と、ありました。
危険を伴うことをあえてする。
確かにその通りだなと思います。
イエス様が、この世に来るというのは、とてつもない冒険でした。
神が人になるというだけでも、冒険でありますが、
イエス様は、赤ちゃんとして、
私たちと同じように、赤ちゃんとして、この世にお生まれになりました。
なんでもおできになったであろう、神の身分を捨て、何にもできない、赤ちゃんになられた。
私はそこに、イエス様の信頼を感じます。
この世は、イエス様を迎える余裕も隙間もない。
にもかかわらず、イエス様は、この世を愛し、この世を信じてくださった。
信じて、冒険の旅に出てくださったのです。
このイエス様の姿を思う時に、私は、アフガニスタンの人々と共に生きられた、中村哲さんの言葉を思い出します。
「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」
あるインタビューで、哲さんは、次のように答えておられました。
「いろんな人に裏切られたり、盗まれたりしてきた。
でも、その人の持っている真心というのは、信頼に足る。
その真心というのは、誰の中にもあるもの。
殺人を犯す人の中にもある。
逆に、どんな善人であっても、影は、その人の中にもある。
それをひっくるめて、人間というのは、愛するに足る。
真心というのは、信ずるに足るものだと、そう思う。」
どんな人の中にも、たとえ殺人を犯した人の中にも、人を想う気持ちはあるものだ。
真心というのはあるものだ。
愛のある言葉だなと思います。
イエス様もそうだったのだと思います。
この世界、そしてそこに生きる人々は、どうしようもない。
裏切ったり、盗んだり、殺したり。
罪を犯さずには生きられない。
でも、そんな人々の中にも、人を想う気持ちはあるものだ。
人を愛する気持ちはあるものだ。
どんなに罪深くても、それでもあなたは素晴らしい。
「あなた方は、地の塩、世の光である。」
イエス様は、そう言って、私たちのところに、来てくださるのです。
・冒険に出た人たち
クリスマスの物語には、このイエス様の信頼に応えて、立ち上がった人たちの姿が、語られています。
母マリアは、そのイエス様を、お腹の中に迎えました。
婚約中に、婚約者以外の子をみごもるなんて、とんでもないことでした。
結婚は破断になってしまうかもしれない。
姦淫の罪で、石打の刑にされてしまうかもしれない。
でも、マリアは、信じて、イエス様を受け入れていきました。
同様に、夫ヨセフも、マリアを受け入れていきました。
結婚の約束をしていたのに、ある日突然、誰の子だかわからない子どもをみごもった。
そんなマリアを、お腹の子もろとも、受け入れていきました。
また、詳しくは語られていませんが、今日の箇所には、その三人を受け入れ、居場所を用意した人たちがいたことも、読み取れます。
確かに、そこは、家畜小屋でしたが、しかし、居場所がない三人、しかも臨月の妊婦を受け入れるということは、簡単なことではなかったと思います。
きっと、出産を手伝ってくれた人もいたでしょう。
食べ物を与えてくれた人もいたでしょう。
何も書かれていませんが、イエス様誕生の背景には、そういった人々がいたのだと思います。
クリスマスを迎えることができたのは、そういう人々のおかげでもあったのだと思います。
この世を愛し、この世を信じ、危険をかえりみず、この世に来てくださったイエス様。
そして、その到来を、恐れおののきつつも、受け入れていった人々。
この両者の献身によって、クリスマスの出来事は、起こっていったのです。
今日は、その両者のことを、心に覚えたいと思います。
・クリスマスを迎える
何よりもまず、イエス様が、きてくださった。
準備も何もできていないこの世界。
そこに生きるどうしようもない人々を、それでも愛し、信じてくださった。
そして、危険をかえりみず、冒険の旅へとでかけてくださった。
そのイエス様の姿を、
イエス様の愛を、覚えましょう。
そして同時に、そんなイエス様を、危険を承知で、引き受けた人たちがいたこと。
イエス様の愛に応えるようにして、引き受けていった人たちがいたことを、覚えたいと思います。
クリスマスというのは、一方的に与えられた神様からの恵み。
イエス様の愛と信頼の出来事でありますが、
と同時に、その愛と信頼に応えて、立ち上がった人たちの物語でもあります。
彼らの献身によって、この世界は、救い主を迎えることができたのです。
だから、このクリスマスの時、イエス様の愛と恵みを覚えつつ、
同時に、私たちも、それに応えて、生きるものでありたいと思います。
イエス様が、私たちを愛し、信頼してくださっているように、
私たちも、愛し合い、信頼し合いながら、生きていきましょう。
確かに、人を信頼するということは危険なことです。
人は、騙したり、裏切ったりすることもあります。
それでもなお、人は愛するに足る。
真心は信ずるに足る。
そのことを心に留めて、人を愛し、人を信頼しつつ、生きていきましょう。
お祈りします。