聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一8章7節〜13節。
新共同訳新約聖書309ページ〜310ページです。
8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。
8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。
8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
「愛によって不自由に」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、自由ということについて、考えみたいと思いますが、皆さんは、自由に生きていますか。
それとも、もっと自由になりたい、自由が欲しいって、思うでしょうか。
何があったら、自由になれるでしょう。
すぐ思いつくのは、やっぱり、お金でしょうか。
お金があれば、自由に、好きなものを買うことができます。
美味しいものも食べられるし、好きなところに旅行に行くこともできます。
他には、どうでしょうか。
自由になるためには、時間も、大事だと思います。
どんなにお金があっても、時間がなければ、行きたいところにも行けないし、友達とも遊べません。
自由になるためには、時間も必要です。
それから、健康も大事だと思います。
どんなにお金があっても、時間があっても、風邪をひいていたら、これまた、行きたいところにも行けないし、友達とも遊べません。
だから、健康も大事です。
今日の聖書の中にも、私たちを自由にしてくれるものについて書いてありますが、何だと思いますか。
答えは、知識です。
知識は、私たちを自由にする。
例えば、コンピューターの知識をいっぱい持っていたら、パソコンで買い物をすることができたり、遠いところにいる友達と、通信ゲームができたりします。
バスとか、電車の乗り方を知っていたら、バスとか電車に乗って、遠いところに行くことができます。
逆に、美味しいものを食べたいと思っても、美味しい物を知らなければ、食べることはできません。
皆さんは、マグロの中トロとか大トロって、食べたことがあるでしょうか。
今では、とても高級品で、食べたくてもなかなか食べられませんが、昔は、捨てられていたそうです。
トロの部分っていうのは、すぐに鮮度が落ちて悪くなってしまうので、昔は、人気がなかったそうです。
もったいないなーって思いますが、そんなふうに考えると、知っているっていうのは、得だなって思います。
美味しいものも食べられるし、好きなところに行くこともできる。
でも、今日の箇所を見てみると、知識には気をつけなさいって、書いてあります。
今日の箇所のちょっと前だけど、「知識は人を高ぶらせる」って書いています。
高ぶらせるっていうのは、偉そうにさせるってことです。
「俺は、お前たちの知らないこと、いーっぱい知ってる。
パソコンの使い方だって知ってるし、電車だって乗れる。
美味しい食べ物だって、お前たちより、いーっぱい知ってるんだぞ。すごいだろ!」って、そんなふうに、偉そうになってしまう。
そして、偉そうになってしまうと、自由というよりも、自分勝手になってしまう。
周りの人のことを考えず、勝手に行動して、人を傷つけたりしてしまう。
そんなふうになるくらいなら、不自由な方がいいって、今日の箇所には書かれています。
大事なのは、自由になることよりも、周りの人を大切にすることだ。
初くんは、よく充くんと遊ぶ時、充くんに合わせるでしょ。
本当は、初くんの方が、早く歩けるけど、充くんに先頭を譲ったりするでしょ。
自由に、自分の好きなようにすることよりも、そうやって、相手のペースに合わせたり、相手のことを考えて行動することのほうが、何倍も価値あること。
何倍も、すごいことなんだって、聖書は教えています。
自分勝手な自由よりも、相手を大切にすることによって不自由になることの方が、何倍もすごいことなんだ。
今日は、そのことを、覚えておいて欲しいと思います。
お祈りします。
・
4月は、パウロが、コリント教会の信徒たちにあてて書いた手紙を、続けて読んでいます。
パウロの時代、手紙を書くって、すごい大変なことだったと思います。
今よりも、何倍も労力がかかったでしょうし、時間もかかったと思います。
でも、伝えたい、伝えなきゃいけない、そう思って、パウロは、手紙を書いたのだと思います。
今日の箇所も、そうです。
パウロは、今日の箇所から、何を伝えたかったのでしょうか。
一緒に聞き取っていきたいと思うんですが、今日は、結論からいきたいと思います。
今日の箇所を通して、パウロが、伝えようとしていること。
それは、今日の箇所の始まりであります1節に書いてあります。
8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
この、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)これが、今日の箇所で、パウロが伝えたいことだと思います。
これは、コリント教会の、特に知識を持っている人たち、教える立場にある人たちに対して書いた言葉です。
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」、知っている、そういう人たちに対して、パウロは、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と、語りかけているのです。
パウロは決して、知識を否定しているわけではありません。
むしろ、この手紙の冒頭を見てますと、パウロは、コリント教会の人たちが、知識の点でも豊かにされているということを喜んでいます。
コリント教会の人たちの知識が豊かにされている、増し加えられているということを、パウロは喜んでいるわけです。
しかし、同時に、注意を促しているのです。
知識は人を高ぶらせるものだから、注意しなさいと、そう呼びかけています。
事実、コリント教会では、知識が人を高慢にさせ、自分勝手にさせ、問題となっておりました。
・
その一つが「偶像に供えられた肉」問題です。
「偶像に供えられた肉」って何?って、皆さん思われると思います。
まず、そのことから話したいと思いますが、これは、読んで字の如く、偶像にお供えされたお肉のことです。
コリントという町は、古代ギリシャの主要都市でありまして、町のいたる所に神殿があったり、ギリシャ神話の像が立ち並んでいました。
皆さんも、ギリシャ神話というのは、聞いたことがあると思います。
ゼウスとか、ポセイドンとか、アテナ、アフロディーテとかですね、皆さんも聞いたことがある名前があると思いますけれども、そういう神々の像が、至る所に立ち並び、礼拝されていたわけです。
「偶像に供えられた肉」というのは、その礼拝の中で、献げられた肉のことです。
この肉は、礼拝が終わった後、礼拝参加者に振舞われたり、市場にも出回っていたそうです。
神殿から卸された肉が、市場で、他の肉と混ざって売られていたのです。
おそらく、どれが神殿から卸された肉で、どれがそうじゃない肉なのかなんて、見分けはつかなかったと思います。
その肉を、コリントの人たちは買って、食べていた。
当然、会食の場にも出てきたでしょう。
そんなときに、キリスト者として、どう振る舞えばよいのか。
自分はキリスト者だから食べませんと言うべきか。
でも、断ると、失礼ではないか。
どうしたら良いかということが、コリント教会の中で、問題になっていたのです。
・
これに対して、知識のある人たちは、どう考えていたかと言いますと、8節に記されています。
8節「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。」
これは、知識を持っている人たちの言葉です。
食物が、私たちを、神のもとに導くのではない。
食べたからと言って、偶像を礼拝することにもならないし、宗教的に汚れるなんてこともない。
だから、食べたって何の問題もないんだと、そう言って彼らは、偶像に備えられた肉を、気にせず食べていたわけです。
でも、この行動は、当時、非常に注意しなければならない行動でした。
なぜなら、その行動を見て、つまずいたり、誤解してしまう恐れのある人たちがいたからです。
当時のキリスト教会というのは、まだまだユダヤ教から、独立していない。
ユダヤ教の一派、ユダヤ教イエス派というような状況でありまして、ユダヤ人からキリスト者になった、いわゆるユダヤ人キリスト者が多数派でありましたし、ユダヤ教的な考え方が、多く残っていました。
ユダヤ教的な考えというのは、要するに律法のことです。
彼らは、幼い頃から、律法を守るように教育されていました。
偶像を礼拝してはいけない、偶像に備えられたものを食べてはいけないと、そう教えられてきたわけです。
そんな人々からすると、偶像に備えられた肉を食べるなんて、とんでもないことでした。
いくらキリスト者になったと言っても、受け入れられない。
その行動は、彼らにとって、つまずき以外のなにものでもなかったわけです。
彼らだけじゃありません。
知識のある人々の自由な振る舞いは、教会に来て間もない人たち、何が良くて何が悪いかという、善悪の判断のつかない人たち、
そういう人たちのことをパウロは、「弱い人々」と書いていますが、
そういう人たちにも、悪い影響を与えていました。
彼らは、自由に振る舞う人たちを見て、「偶像に備えられた肉でも、食べていいんだ」と、当然思ったでしょうし、中には、「ああ、キリスト教も、いろんな神々の一つなのか」って、
「ギリシャ神話の神々と一緒に、礼拝していいんだ」って、そんなふうに思う人たちもいたかもしれません。
それで、11節「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。」
滅びてしまうっていうのは、キリストとの関係が壊れてしまうということでしょう。
せっかくキリスト者になったのに、間違った道に行っちゃうよってことです。
彼らを傷つけたり、彼らを誤った道に導くのは、キリストに対して罪を犯すことである。
あなた方は、自分の知識に則って、何も間違ったことなんてしていないって、言うかもしれない。
でも、その勝手な振る舞いによって、周りの人たちが間違った道に行ってしまったら、それは罪なんだと、パウロは、厳しく指摘するわけです。
こういうことは、私達の身近にもあることでしょう。
子どもの前で、冗談を言うとかですね。
大人は冗談のつもりでも、子どもたちは真剣に受け取ることがあります。
バラエティー番組で、芸人が、人を笑わすために、誰かをけなすことがありますけれども、
それを見て、子どもたちが、「ああ、こういう事を言っていいんだ」「こんなことやっていいんだ」と思ってやってしまう。
そんなことが時々に問題になることがありますが、
そんなふうに、偶像に供えられた肉を食べるという行為も、見る人によっては、罪に招くことになりかねない。
だからパウロは、気をつけなさいと言っているのです。
周りの人たち、特に、まだキリストの教えをよく分かっていない人たち、それによって善悪の判断ができない人たちのことを、配慮しなさいと言いたいのです。
・
最初に言いました通り、パウロは、彼らの知識を否定しているわけではありません。
むしろ、考え方としては、彼らに共感していたでしょう。
律法からの自由というのは、パウロの宣教の柱でもありましたので、食べたって、救いが取り消されることもなければ、汚れることもないと、パウロもそう思っていたでしょう。
しかし、9節にあるように、パウロは、「あなた方のその自由な態度が、誰かをつまずかせないように、注意しなさい」というわけです。
どんなに正しい知識だったとしても、周りの人たちをつまずかせるようなことになってはいけないと、注意を促しているのです。
さらにパウロは、13節
8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
と言っています。
兄弟をつまずかせるくらいなら、私は今後決して肉を食べない。
知識を得ることで、自由に振る舞う人たちに対して、パウロは、自分は、彼らをつまずかせないために、肉を食べない。
本当は肉を食べられるけれど、その自由を断念するというのです。
つまりパウロは、誰かをつまずかせてしまうくらいなら、不自由になった方がいいと、言っているのです。
兄弟たちのために、不自由になる。
ここに、パウロの愛があります。
知識を得ることで自由に振る舞うよりも、愛によって不自由になることを選び取る。
ここが今日、特に、覚えておきたいポイントです。
知識によって自由になることよりも、愛によって不自由になることの方が価値あるし、大事なことなのだということです。
このことを思います時に、私は、子育て中のお母さんやお父さんのことを思います。
私たちも、子育て真っ最中ですけれども、特に連れ合いは、今はそうでもないと思いますが、何年か前までは、子どもにつきっきりの1日でした。
朝早く起きて、子どもたちにお弁当を作ったり、学校に行く支度を手伝ったり、親子通園の時は、一緒に幼稚園にも行って、そして、一緒に帰ってくる。
帰ってきたら、掃除をして、洗濯をして、買い物に行って、気づいたら夜になって、夕食を作って、子ども達をお風呂に入れて、寝かしつけていたら、そのまま一緒に寝てしまう。
もう一日中、子どもたちのために過ごしている、そんな日もあったように思います。
自分の時間なんて、全然ない。
やっと最近、次男が小学生になって、自分の時間を過ごすことができているんじゃないかなと思ったりします。
そんな連れ合いの姿を見ると、本当にすごいなと思います。
愛によって、不自由になるというのは、そういうことかなと思うわけです。
この愛による不自由さを、最も体現しておられたのが、イエス様です。
フィリピの信徒への手紙の2章に、こんな言葉があります。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
大変有名な言葉ですけれども、ここにありますように、キリストはもともと神の身分であったわけです。
神様だったわけですから、それこそ、何でもおできになる。
全知全能の力を持って、誰よりも自由な存在であったのだと思います。
それなのに、その身分、力を捨てて、無になられた。
僕の身分になり、人間になられたわけです。
何のためか。
それは、人と共に生きるためです。
人と共に生きるため、人を愛する者となるため、イエス様は、神の自由を捨て、人となられた。
いや、神の自由によって、人となられたのです。
何でもできる、どんなものにもなれるという自由を使って、イエス様は、人になられたのです。
私たちと共に生きるために、不自由になる道を選ばれたのです。
ここに愛があると、教えられているように思います。
知識によって自由に、尊大に振る舞うのなら、愛によって、不自由になることを選ぶと言った、パウロの言葉を心に留めたいと思います。
私たちは、自分の自由を、誰のために、使うでしょうか。
お祈りします。