2024年3月10日主日礼拝メッセージ「帰るべき場所」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書15章11節〜24節。

新共同訳新約聖書139ページです。

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。

15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

「帰るべき場所」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も、まず、子どもたちと一緒に、聖書のメッセージを聞いていきたいと思いますが、

今日の聖書の箇所には、イエス様のたとえ話が、書かれています。

どんなお話か。さっき読んでもらいましたが、改めて、紙芝居で、見てみたいと思います。

1,ある人に二人の息子がいました。

弟のほうが、ある日、こんなことを言い出しました。

「お父さん、僕に財産を分けてください」。

お父さんは、先祖代々受け継いできた大切な財産を、弟息子に分けてあげました。

2,でも、この弟息子は、受け取った財産を、いとも簡単に、お金に換えてしまいました。

そして、お父さんのもとを離れ、遠い国へ、旅立ってしまいました。

3,そこで彼は、お父さんからもらったお金を無駄遣い。毎日遊んで暮らしました。

でも、そんな時間、長くは続きません。

4,お金はすぐになくなってしまいました。

友達も離れていきます。食べるものもありません。

5,追い込まれた弟息子は、豚飼いの仕事を見つけますが、全然、食べていけません。

「どうしよう。このままじゃ死んでしまう。

お父さんのところに帰ろう。

もう息子と呼ばれる資格はないけど、雇人の一人にしてもらおう。」

弟息子は、不安と緊張を抱えながら、お父さんのところに帰っていきました。

6,すると、遠くから、誰かが走ってきます。

よく見ると、お父さんではありませんか。

お父さんは、弟息子が旅立ってからずっと、彼の帰りを待っていたのです。

7,「いなくなっていた息子が帰ってきた!死んでいたと思っていた息子が帰ってきた!

よくぞ、帰ってきてくれた。さあさあ、早くお家にお入り。お祝いをしよう!」

お父さんは、喜んで、弟息子を迎え入れました。

これが、今日のお話です。

皆さんは、このお話から、どんなメッセージが聞こえてきたでしょう。

私は、「帰る場所はある」って、言われているように思いました。

お話に出てきた弟息子は、ひどい息子でした。

お父さんが先祖代々、大切に守ってきた財産を、いとも簡単にお金に換えてしまったり、

そのお金で、やりたい放題。無駄遣いをしてしまったり、ひどい息子です。

そんな息子が、ある日突然、家に帰ってきた。

もし、皆さんが、この息子のお父さんだったら、どうするでしょうか。

帰ってきた息子に、なんて言うでしょうか。

「あんなひどいことをしておいて、よく帰って来れたな!

お前なんか、もう息子でもなんでもない!出ていけ!」

普通は、そう言われると思います。

でも、イエス様の話に出てくるお父さんは、そうじゃありませんでした。

イエス様の話に出てくるお父さんは、まだ遠くにいる息子を見つけ、走り寄って抱きしめたって書いてあります。

財産を簡単にお金に換えてしまったり、

それを無駄遣いして、あっという間に使い果たしてしまったり、

とんでもない息子ですが、

でも、そんなこと、このお父さんには、どうでも良かった。

もう帰ってきてくれるだけで、良かった。

このお父さんって、誰か。

これは、きっと神様のことなんだと思います。

神様は、このお父さんのように、あなた方の帰りを、いつまでも待っている。

どんなに失敗しても、どんなに道を外れても、いつでも喜んで迎えてくださる。

だから、寂しくなったり、辛くなったら、いつでも帰っておいでって、

イエス様は言っているんだと思います。

私たちには、帰る場所がある。

何をしても、どんなことがあっても、神様は、私たちを、喜んで迎えてくださる。

教会は、そんな神様のお家です。

私たちには、帰る場所がある。

今日は、そのことを、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

帰る場所がある。私たちには、今日、帰る場所がある。

何をしても、どんなことがあっても、神様は、私たちを、喜んで迎えてくださる。

教会は、そんな神様の家である。

今日は、そのことを、共に、覚えたいと思います。

先週、先々週と、イエス様のたとえ話を、続けて読んできました。

見失った羊のたとえと、無くした銀貨のたとえ。

この二つのたとえ話の続きとして、見失ったシリーズ三部作の最後に記されているのが、今日の放蕩息子のたとえ話です。

今日はまず、この放蕩息子に注目したいと思います。

よくこのたとえ話を読みますと、自分はまさに放蕩息子だと、そういう感想をお持ちになる方がいらっしゃいます。

それは、この放蕩息子の中に、誰もが抱えている弱さや脆さ、愚かさがあるからだと思います。

そのことを覚えながら、まず放蕩息子の歩みに注目していきたいと思います。

・第一の愚かさ、鈍感さ

話は、放蕩息子が父親に、財産のわけまえを求めることから始まります。

12節 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。

ユダヤ教の格言には、「息子・妻・兄弟・友の誰にも自分を支配させないように、生きている間に財産を与えてはならない。死のときに遺産を分与しなさい」という言葉があるそうです。

死のときに遺産を分与しなさいと言われている通り、遺産を分けるタイミングは、父親が死んだ時と決まっていました。

それなのにこの息子は、父親がまだ生きているうちに遺産の分配を求めた。

それは、ユダヤ社会では、大変非常識な行為でした。

このことは、み言葉にも隠されているメッセージでありまして、

残念ながら日本語訳ではわからなくなってしまっているのですが、

今一度12節に注目していただきたいと思います。

12節には、「財産」という言葉が二度出てきます。

一度目は、弟息子のセリフ、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』という言葉。

もう一つは、その直後にあります「父親は財産を二人に分けてやった」というところに出てくる「財産」。

日本語では同じ「財産」と訳されていますが、実は、この2つの言葉、もとのギリシャ語を見てみますと、全く違う言葉が使われています。

弟息子が父親に求めた「財産」には、ウーシアという言葉が使われています。

これは、訳語の通り、財産や所有物を意味します。

しかし、父親が与えた方の「財産」という言葉には、ビオスという言葉が使われています。

この言葉は、人生とか、命を意味する言葉です。

弟息子にとっては、もともともらうことになっている財産の分前を、ちょっと早く受け取るぐらいのことだったのかもしれません。

でも、父親にとっては、そうではなかった。

父親にとって、その財産は、人生であり、命であった。

弟息子が受け取った財産、その中身は、父親の人生であり、命だったのです。

彼が受け取ったものは、それほど重たいものだったのです。

でも彼は、その重みを全くわかっていませんでした。

何日も経たないうちに、全てを金に換え、遠い国に旅立ち、あっという間に使い果たしてしまいます。

受け取ったものの重み、そこに込められた父親の気持ち、愛をわかっていたなら、こんなことにはならなかったでしょう。

あまりにも簡単に、そして軽く受け取ったからこそ、あっという間になくなってしまったのです。

この鈍感さ、鈍さ、気づけない心を思う時に、私自身、胸が痛くなります。

学生時代に買ってもらった野球のグローブやスパイク。バット。

使っていた時には、その重みはわかっていなかったなと思います。

今になって、その重みを感じています。そんなことが、たくさんあるなと思います。

聖書には、イエス様の愛が、語られています。

イエス様は、私たちのために、十字架にかかられました。

まさに、私たちのために、命を献げられた。

でも、私たちは、その愛の大きさに、どれほど気づけているでしょうか。

イエス様によって与えられた命が、どれほど重たいものなのか。

そのことを自覚して、その命を使っているでしょうか。

放蕩息子のように、与えられた命の重さに気づかず、無駄遣いしてしまっている自分がいるなと思わされます。

・第二の愚かさ、誘惑に弱い

放蕩息子は、手に入れたお金を持って、遠い国に旅立っていきました。

人間というのは遠くにあるものに大変弱いものであると思います。

手が届かない、だからこそ魅力的で、心惹かれる。

行ってみたい。見てみたい。さぞ良いところなんだろう。好奇心が掻き立てられる。

それに比べて、今、自分が置かれている状況、環境が、つまらなく見えてくる。

何不自由ない生活も、当たり前。

家族との関係も、当たり前。

むしろ、そういう環境やつながりが退屈で、うっとうしくさえ思えてしまう。

当時の社会は非常に閉鎖的な村社会でした。

家を継いでいく男性の多くは、その村で生まれ、その村で育ち、その村で死んでいきます。

社会秩序も固定化されやすく、地位も関係も、生まれた時から決まっている。

そんな村社会に生きる人々にとって、遠い国がどれだけ魅力的に見えたことでしょうか。

しかし、思い描いたような夢や自由を手に入れる人は、非常に少ない。

むしろ、この息子は、遠い国で、財産も人間としての尊厳も、何もかも失ってしまいます。

遠い国は、彼が思っていたような世界ではなかったのです。

私の好きな歌の歌詞に、「綺麗なものは遠くにあるから綺麗なの」という歌詞があります。

そのとおりだなと思います。

綺麗な山の雪景色も、遠くから見てこそ綺麗だと思えるのであって、近くにいたら、そんな悠長なことは言っていられません。

何年か前の冬に、連合の信徒研修会のために、北九州に行こうとした時、急に雪が降ってきて、恐ろしい目にあったことがありました。

ノーマルタイヤで、ブレーキを踏んでも止まらない。

ガードレールに突っ込んでる車もある。

そんな中、ハンドルを握る私は、怖くてたまりませんでした。

なんとか、ピンチを脱出して、国道に出た時、ふと、自分たちが通ってきた山が見えました。

雪化粧をした山は、とても綺麗に見えました。

その時、つくづく、遠くにあるから綺麗に見えるんだということを、思いました。

遠い国に心奪われた放蕩息子は、ほしいままに生き、すべてを使い果たしてしまいます。

使っている時は、夢のような時間だったかもしれません。

でも、聖書が語るようにそれは浪費、無駄遣いに過ぎませんでした。

何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めます。

彼を襲った大飢饉。それによる困窮は、不運で片付けられることではありません。

彼の困窮は、先のことを全く考えていなかった彼自身の過ちです。

先のことを考えず、今の快楽に没頭する。これもまた、人間の愚かさと言えると思います。

・第三の愚かさ、頼るべきところを間違った

追い詰められた放蕩息子は、その地方に住むある人のところに身を寄せます。

でも、その人は、彼を畑にやって、豚の世話をさせました。

ユダヤ人にとって豚は汚れの象徴です。

それゆえ、ブタ飼いの仕事は、人間のする仕事じゃないと、そう考えられていました。

そんな屈辱的な仕事を与えられ、人間の尊厳を剥ぎ取られながらも、それをするしかなかった。

むしろ豚の餌でも良いから食べたいと求めましたが、それさえ与えてくれる人はいませんでした。

・飢えによって我に返る

まさに、どん底。人生のどん底で、彼が思い出したもの。

それは、当たり前で退屈だと思って飛び出した、我が家の光景でした。

自分に与えられていた環境が、いかに恵まれていたか。

飢え死にしそうな状況になってはじめて彼は、そのことに気づくわけです。

そして、彼は、考えました。そこに帰るためにどうしたらいいか。

考えた挙げ句、彼が選んだのは、雇い人の一人にしてもらうことでした。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

犯した罪。もう息子と呼ばれる資格もない。

失ったものは、もう、もとには戻せないけれど、雇い人の一人にしてください、そう頼もう。

飢え渇き、自分のしたことに対する後悔と反省。

様々なものを抱えながら、彼は、父のもとへと帰っていきます。

その足取りは、さぞ重いものだったでしょう。

・父の愛

しかし、そんな彼を、父親は、遠く離れた場所から見つけ、走り寄って首を抱き、接吻しました。

放蕩息子が、反省していたから、そうしたのではありません。

確かに彼は、反省の弁を述べています。

謝罪をし、自分にはもう息子と呼ばれる資格はないと言っていますが、父親は、全く聞いていません。

資格があるとかないとか、息子は、色々考えていましたが、父親にとっては、息子がどんな風に帰ってくるのかは、問題ではなかったのです。

反省していようがいまいが関係ない。

息子が帰ってきさえすれば良い。

そのようにして放蕩息子は、父親の赦しと愛によって、受け止められていったのです。

これが放蕩息子のたとえ話です。

イエス様は、この話しを、ファリサイ派の人々や律法学者たちに向けて語りました。

彼らは、イエス様が、罪人たちを招いて楽しそうに話をしたり、食事をしたりしているのを見て、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とつぶやいておりました。

そこには、罪人と呼ばれる人々に対する、強い差別意識が見て取れます。

あんな人達と食事をするなんて、考えられないということです。

その差別意識の根っこには、自分たちは正しい、神にふさわしい人間だという想いがありました。

律法を守り、清く正しく生きている私達こそが、神の子と呼ばれるにふさわしい。

自分たちには、神に愛される資格がある。

でも彼らは、それを持っていない。

そんなふうに、罪人たちを見つめていたのです。

そんな彼らに、イエス様は、この放蕩息子の話をされた。

それは、放蕩息子こそ、喜んで受け止めてくださる神様を、伝えるためでした。

子と呼ばれる資格も、権利も、もってない。

それでも帰りを待って、喜んでくださるのが神様なんだ。

つまり、人間というのは、行いによって受け止められるのでなく、深い神の愛によって受け止められるのだということを、伝えたかったのです。

資格や行いによって、神の子になるのでは、決してない。

一方的で、無条件な神の愛によって、私達は、神の子とされているのだということです。

どんなに私たちが道を外れても、神様を見失っている時も、その事実は何も変わりません。

この神のもとにこそ、帰る場所があると、イエス様は教えています。

この話の中で、ただ一つ、放蕩息子に学ばなければならないことがあります。

それは、父親のもとに帰っていったということです。

唯一それは、正しい選択でした。

どこに帰っていくか。帰る場所を間違ってはいけません。

イエス様の弟子の一人に、イスカリオテのユダという人がいました。

彼は、銀貨30枚と引き換えに、イエス様を引き渡した人です。

裏切り者のユダとして、とても有名な人ですが、

しかし、彼は、まさかイエス様が有罪になり、十字架につけられるなんて、思ってもいなかったようです。

イエス様を裏切った後、彼は、自分のしたことの重大さに気づいて、後悔します。

そして、彼は、どこにいったか。

彼が行ったのは、取引をした祭司長や長老たちのところでした。

彼らのところに行って、ユダは、銀貨30枚を返そうとしました。

すると彼らはなんと言ったか。

「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言いました。

この言葉を聞いて、ユダは、自らその命を絶ってしまいました。

ユダは、帰る場所を間違えました。

彼が、帰るべきだったのは、祭司長や長老たちのところではなかった。

そこに、彼の帰る場所はありませんでした。

ユダが帰るべきだったのは、十字架にかけられたイエス様のもとです。

どうしてイエス様のもとに行けるのか。

十字架にかけた張本人であるユダが、どんな顔をして、イエス様のもとに行けば良いのか。

そう思うかもしれない。

でも、イエス様は、そんな彼に言うでしょう。

「よく帰ってきてくれた。よくぞ戻ってきてくれた。お前は、大切な息子だ」って。

こここそ、私たちの帰るべき場所です。

私たちには、今日、帰る場所がある。

何をしても、どんなことがあっても、神様は、私たちを、喜んで迎えてくださる。

教会は、そんな神様の家である。

私たちには、帰る場所がある。

今日は、そのことを、共に、覚えたいと思います。

お祈りします。

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