聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書14章12節〜24節。
新共同訳新約聖書137ページです。
14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
14:15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
14:16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
14:17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
14:18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
14:19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
14:20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
14:21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
14:22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
14:23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
14:24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
「神の晩餐」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日も、子どもメッセージから始めたいと思いますが、
これは、なんのイラストでしょうか。
そうですね、これは、食事会をしているイラストですね。
とても楽しそうな食事会ですけれども、ちなみに、イエス様の時代の食事会は、どんな感じだったかというと、こんな感じだったそうです。
わかるでしょうか。寝ながら、肘をついて食べてます。
今、こんな食べ方をしたら、叱られてしまいますけれども、イエス様の時代は、これが普通だったそうです。
今でも、こんなふうに食べている地域があるそうです。
時代や場所が違うと、食べ方も、ずいぶん違うんだなって驚きますけれども、今日は、この食事会のお話です。
皆さんは、食事会を、開いたことがありますか。
まだ、流石にないんじゃないかと思いますが、でも、ちょっと想像してみてください。
もし、皆さんが、食事会を開くとしたら、誰を招待するでしょうか。
招待したい人を、思い浮かべてみてください。
仲の良い友達を思い浮かべたっていう人、手をあげてください。
家族を思い浮かべたっていう人は、いるでしょうか。
他にも、思い浮かんだ人がいるっていう人はいますか?
ありがとうございます。
なぜ、その人たちを、招待したいって思ったでしょうか。
一緒に食事をしたら楽しいって思ったから、っていう人。
楽だから、気を遣わなくていいから、っていう人。
それ以外の人。
ありがとうございます。
そうですよね。皆さんが手をあげてくださったように、きっと多くの人が、楽しい食事会をしたいと思って、仲の良い友達や家族を招待するって言うと思います。
それは、ごく当たり前のことだと思います。
でも、今日の箇所で、イエス様は、こんなことを言っています。
13節「食事会をするときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。」
友人も、家族も呼んじゃダメだって言われています。
なんで呼んじゃダメなんでしょう。
続きには、こう書いています。
「その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。」
「お返し」ってなんでしょう。
「お返し」っていうのは、お礼のことです。
招待してもらったお礼に、もっとおいしいものをご馳走してくれるかもしれない。
だから、呼んではならないって、イエス様は言っています。
なぜ、お礼してもらっちゃダメなんでしょうか。良いじゃないですか、お礼してもらって。何が悪いんでしょうか。
食事会をして、お礼してもらって、食事会をして、お礼してもらって、・・・そんなことが続いていくうちに、お礼してくれる人しか呼ばなくなる。
お礼してくれない人は、嫌な奴だって、思うようになってしまう。
そんな人間になるなって、イエス様は言っているんじゃないでしょうか。
続きには、こう書かれています。
「食事会をするときには、貧しい人など、お返しができない人を呼びなさい。そうすれば、神様がお返ししてくださるだろう。」
貧しい人など、お返しできない人を食事に招きなさい。
そうすれば、神様がそれを喜んで、あなたにお礼をしてくれるだろうって、言われています。
神様は、いつも、貧しい人たちと共におられます。
だから、貧しい人たちと共に食事をするっていうのは、神様と一緒に食事をするっていうことなんだと思います。
今日は、この二つのことを覚えておきたいと思います。
1、お礼してくれるかどうかで、人を選んだりしない。
2、貧しい人たちと食事をする=神様と食事をするってことなんだ。
今日はこのことを、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・
イエス様は、宴会を開くときには、お返しができない人を招きなさいと言われます。
そうすれば、正しい者たちが復活するとき、つまり、神の国が来るときに、あなたは報われる。
神様が、そのことに報いて、良いものを与えてくださるだろうということです。
このことからわかるのは、神様が、お返しできない人たちを招くことを、願っておられるということです。
具体的には、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人が挙げられています。
イエス様が生きられた時代において、彼らは、社会的に排除された人たちでした。
ある聖書の註釈には、「失格者」とみなされる人たちだったと、記されていました。
ですから、宴会に招かれるということもなかったでしょう。
でもイエス様は、そのような人々こそ、招きなさい。
なぜなら、そのような晩餐こそ、神様が喜ばれる晩餐、神の晩餐だからだとおっしゃっているわけです。
先週は、神の国の話をしました。
末席にいる人たち、神様から最も遠くにいると思われていた人たち。
そのような人たちこそ、神の国に招き入れられるという話でした。
それに続いて、今日の話は、神が望んでおられる晩餐、神の晩餐の話ですが、言われていることは、同じだろうと思います。
お返しができない人たち、当時の社会の中で、まさに末席に置かれていた人たち。
いや、末席にすら、座ることが許されなかった人たち。
そのような人たちこそ、神様は、喜んで、食卓に招いてくださる。
お土産を持っていく必要も、お返しを気にする必要もありません。
誰もが、遠慮せずに食べたり飲んだりできる、それが神の晩餐なのです。
そのような晩餐、神の晩餐を整えるようにと、イエス様は招いておられるのです。
・
一方で、今日の箇所の後半に記されているたとえ話はどうでしょうか。
そこには、盛大な宴会を催した主人の話が記されています。
最初、私は、このたとえ話も、神の国の祝宴、神の晩餐の話だと思っていました。
盛大な宴会を催した主人は神様で、その宴会を知らせに行った僕はイエス様。
イエス様は、神の国の祝宴を知らせに行ったのに、当初招かれた人たちは、誰も来なかった。
それで主人は方向転換して、招いていなかった人々、先ほど、言われていました、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来させる。
これは、ユダヤ人から、異邦人への転換を表している。
イエス様が招いているのに、ユダヤ人たちは、それに応えようとしなかった。
それで、異邦人を招くことへと、救いの射程が転換されていった。
このたとえ話は、そのことを表しているというのが、伝統的な解釈です。
私も、最初、そのような話として、この話を読んでいました。
でも、それだと、イエス様がおっしゃっていることと、つじつまが合いません。
イエス様は、はっきりと、お返しできる人たちを、呼んではならない。
貧しい人、体の不自由な人、お返しできない人たちこそ、招きなさいと言われています。
それこそが、神様が喜ばれる晩餐、神の晩餐なのだと、おっしゃっています。
それなのに、たとえ話に出てくる主人が、最初に招いた人たちは、どのような人たちだったか。
畑を買うことができる人。
牛を2頭ずつ5組買うことができる人。
妻を迎えることができる人。
どちらかというと、彼らは、イエス様が呼んではならないと言った人たちだと思います。
確かに、たとえ話の後半には、イエス様が招きなさいと言われた人たち。
貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人が連れて来られる様子が記されていますが、それは、招いた人たちが来なかったからでした。
招いた人たちが来なかったことに、主人が怒って、そのはらいせに、彼らが呼ばれたという話になっています。
仕方なく、しょうがなく、あるいは、ドタキャンした人たちに対するはらいせとして、貧しい人たちが連れて来られる晩餐。
無理やり、強引に、連れて来られる晩餐。
それが、神の晩餐なのでしょうか。
私には、とても、そのようには思えないのです。
このたとえ話で語られている主人が、神様であるとも思えないですし、
このたとえ話で語られている晩餐が、神の晩餐であるとも、思えないのです。
・
では一体、このたとえ話を通して、イエス様は、何を語っておられるのかということが、問題になってくるわけですが、
私は、このたとえ話の中に、貧しい人たちや、体の不自由な人たちの置かれていた現実が、語られているのではないかと思います。
たとえ話で語られている主人というのは、神様などではない、どこにでもいる普通の主人。
自分が喜んだり、自分が楽しむため、あわよくば、見返りも得たいと、そんなふうに願って、宴会を開く、どこにでもいる普通の人です。
その主人が、宴会を開いた。
でも、誰もきてくれなかった。それも突然にです。
来ると言っていたのに、土壇場でキャンセルされた、ドタキャンされたわけです。
そりゃ怒るでしょう。
宴会の準備はもうしてしまっている。
怒った主人は、『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』と僕に命じる。
それでも、まだ席が埋まらないというので、もう誰でもいいから、とにかく、家をいっぱいにしてくれという。
その結果、確かに、その食卓には、貧しい人たちがいるわけですが、しかし、主人からすれば、所詮彼らは、単なる穴埋め。
怒りを鎮めるための、道具でしかない。
これが、あなた方の限界だろう。
貧しい人たちというのは、そのようにしか扱われない。
用意していた宴会に、誰も来ないというような異常事態が起こらないと、呼ばれない。
呼ばれたとしても、来なかった人に対する当てつけか、主人のはらいせでしかない。
それが、貧しい人や、体の不自由な人が置かれている現実だと、イエス様は、そうおっしゃっているのではないでしょうか。
そして、そんな人々に、そんな生き方をやめて、神の晩餐を整えなさい。
誰も来なかったから仕方なくとか、はらいせにとかではなく、まず、貧しい人々を招きなさい。
彼らを中心に、晩餐を、整えなさい。
それこそが、神の晩餐なのだと、イエス様は、おっしゃっているのだと思います。
このイエス様に対して、私たちは、教会は、どう応答していくでしょうか。
・
新型コロナウイルスに対する対応が緩和される中、教会での愛餐会も、再開するようになりました。
3年間できなかったということを考えると、大きな前進だったと思います。
でも、それでいいんだろうか。
教会のなすべき晩餐とは、なんだろうか。
私たちは、どんな晩餐を整えていくべきなんだろうか。
そのことを考えさせられます。
私たちが、食卓を囲むとき、その交わりから排除されている人たちがいないだろうか。
私たちは、誰と共に、食卓を囲むのか。
そのことが問われているように感じました。
イエス様は言われます。
お返しするすべを持たない人たち、それゆえに、宴会に招かれることのない人たち。
そのような人々と、共に、食事を囲みなさい。
その晩餐を、神様は喜んでくださる。
そのような晩餐こそ、神の国において開かれる神の晩餐、神の国の祝宴である。
そのような晩餐を整えなさいと、イエス様は、招いています。
この招きに答えていく時、そこにはどんな晩餐が待っているのでしょうか。
神の晩餐、神の国の祝宴とは、どのようなものなのでしょうか。
共に、そのような晩餐に、あずかっていきたいと願います。
お祈りします。