2023年9月24日礼拝メッセージ「生きるためには」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、創世記2章4節b〜7節、18節。

新共同訳旧約聖書2ページです。

2:4 主なる神が地と天を造られたとき、

2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。

2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。

2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

「生きるためには」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・序

おはようございます。

今日は、時間の都合上、子どもメッセージと大人のメッセージを分けずに、メッセージをさせていただきます。

今日の礼拝は、召天者記念礼拝です。

神様の御許に召された方々のことを覚えながら、礼拝を献げています。

この日を覚えて、礼拝に出席してくださっていますご遺族の皆様、本当にありがとうございます。

昨年に引き続き、コロナの影響によって、参加したくてもできない方々もいらっしゃいますが、この礼拝を覚えて、献金やお手紙、お花を送ってくださっている方々もいらっしゃいます。

そういう方々の想いも含めて、今日、こうして召天者記念礼拝を献げられることを、感謝いたします。

毎年、この日には、死とか命とか、生きるとはどういうことかとか、そういうことを特にテーマにしながら、聖書のメッセージを聞いていますが、

今日は、特に、神様が、人間をおつくりになった場面から、「生きるためには」と題してメッセージをさせていただきます。

人間は、どうやってつくられ、何によって生きる者となっていったのか。

そのことに注目しながら、私たちが生きるために必要なことを、共に考えたいと思っています。

まず、人間が、どのようにつくられたのか、ということですが、実は、聖書には、二つのことが書かれています。

一つは、天地創造と言われる、天地万物が作られていく中で、人間がつくられていったという話。

それは、創世記1章27節に記されています。

1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

これが一つ目の人間がつくられた話ですが、この文脈は、2章の4節前半で終わっていまして、今日読んでいただいた4節後半からは、もう一つの人間創造の話が、語られているわけです。

え?2回も、人間がつくられたの?って、混乱される方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。

もともと聖書というのは、一人の人が書いた書物ではありません。

聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合わせて66巻の書物からなっていますが、それぞれ、書かれた時代も、書いた人々も違います。

1つの書物であっても、複数の人たちが書いている場合もあります。

創世記などは、まさにそうです。

いろいろな人たちがのこした、いろいろな資料を、一つにまとめてつくられています。

人間がつくられた話が二つあるのは、二つの独立した資料を、両方とも採用したからです。

なぜ、両方採用したかは分かりませんが、それぞれに、異なった視点で、人間が物語られています。

聖書の人間観は、決して一つではない。

これもまた、とても大切なメッセージであると思います。

今日は、特に、2章4節後半から語られています、人間創造の話から、人間とはどういう存在で、どう生きるよう招かれているかを、考えていきたいと思います。

・Eさんからの問いかけ

まず、今日の箇所には、人間が、土の塵でつくられたということが書かれています。

この箇所には、私自身、とても印象深い思い出があります。

それは、ある一本の電話があったからです。

お会いしたことも、どこに住んでおられるかもわからない方なのですが、イニシャルEさんという方から、ある時電話がありまして、突然、「人間はゴミなのですか」と言われたことがありました。

深刻な痛みを感じながら話を聞きました。

すると、Eさんは、そう言われている子どもがいるということを、テレビで見たそうです。

それを見た時に、とてもショックを受けられて、そしてその時に、聖書に、人が土の塵でつくられたと書いてあったのを思い出したそうです。

「塵というのは、ゴミのことですよね。聖書は、人のことをゴミだというんですか。もしそうならひどい。あんまりだ。ねえ、牧師さん、どうなんですか。」と言われました。

全く同感だと思いながら、改めて、その方が指摘している箇所を読み直しました。

それが、今日の箇所でした。

読んでみますと、確かに、そこには、人間が土の塵によってつくられたことが書かれています。

そして、その「塵」という言葉を調べてみますと、聖書では、「どこにでもあるもの、それゆえ無価値なもの」として使われていることが分かりました。

例えば、ヨブ記2章12節には、ヨブを見舞いに来た友人たちが、天に向かって塵をまき、頭の上に散らしたと記されています。

これは、悲しみの表現で、自分がいかに無力な存在であるかを、あらわしていると言われます。

自分は、土の塵に過ぎない、無力で無価値な存在である。

そう言って、聖書の民は、高ぶった自分を戒め、悔い改めたそうです。

そのように、土の塵というのは、確かに、価値がないものをあらわす時に、使われています。

でも、だからと言って、人間が無価値な存在だというのは、いろいろなものをぶっ飛ばしすぎです。

今日の箇所を読むと、人間を構成するのは、塵だけじゃありませんし、塵も、決してつまらないものなんかではありません。

注意しながら、今日の箇所を読んでいきたいと思います。

・4節、5節

今日の箇所には、人間がつくられる前の導入として、地上には、まだ野の木も草も生えていなかったと記されています。

そして、その理由として、「主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである」と、言われています。

野の木や草も、自分一人の力では生きられない。

神様の働きがあり、雨が降らなければ、生きられない。

そのことを物語っています。

・6節

その上で、6節。

ここで、水が出てきます。

「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。」

草も木もなかった大地に、水が与えられた瞬間です。

ここから、人間がつくられていきます。

このことが、一つとても大事なところだと思います。

人間がつくられる前段階として、大地があり、それを覆う水があった。

・7節

そのうえで、神は、人間をつくるために、土の塵を選ばれたのです。

それは、粘土をつくるためだったんじゃないでしょうか。

土というのは、乾いている時はさらさらです。

でも、そこに水分が加わると、くっついたり、粘り気を帯びたり、固まったりしていきます。

そのような粘土をつくるためには、粒子が細かくないといけません。

硬い岩に、どんなに水をかけても、粘土にはなりません。

土の塵ほど、粒子が細かくないと、粘土にはなっていかないわけです。

そしてそのようにしてつくられた粘土じゃないと、形づくることはできません。

確かに塵は、ごくありふれたものです。どこにでもあるものです。

でも、だからと言って、価値がないわけではありません。

ちりにしかできないことがある。

水分を吸収し、粘土になることができる。

これは、塵の、大事な特徴です。

塵だけでは、つまらないものかもしれませんが、水と合わさることで、粘土になることができる。

そして、粘土になることによって、さまざまなものになることができるようになります。

お皿にもなれます。コップにもなれます。レンガにもなれます。家も建てられます。

土の塵がいかにすごいものであるかが、わかります。

人間をつくるという文脈において、土の塵というのは、決して、無価値なものなんかではありません。

むしろ、必要不可欠の要素であったということができます。

・神の息

ただし、聖書は、それだけでも、人間は、生きられないと、語っています。

土の塵と水によって、形をつくることはできても、生きる者にはならない。

土と水だけでは、ただの、粘土作品にしかなりません。

でも、そこに、神の息が吹き入れられる。

そうして人は生きる者となったと、聖書は語っています。

人間も、野の草や、木と一緒です。

自分の力だけでは生きられない。

どんなに頑張って、形を保とうと思っても、そのままでは、ボロボロと崩れていってしまいます。

神の息、神が生きる力を吹きかけてくださらなければ、人間は倒れてしまうということです。

・先週の私

私にとって、先週の1週間は、そのことを、突きつけられるような、1週間でした。

先週、私は、西南学院大学神学部の集中講義を行うために、福岡へ行っておりました。

初めてですね、学生に向かって、講義をさせていただきました。

もちろん、私一人ではありません。

私が所属しています、日本バプテスト連盟の特別委員会。

日韓・在日連帯特別委員会に授業の依頼がありまして、8名の委員と外部講師1名で、講義を担当させていただきました。

日韓・在日連帯特別委員会は、日本によるアジア侵略、とりわけ、朝鮮半島の植民地統治の罪責に対する悔い改めのとして、1975年に設置されました。

以来、今日に至るまで、歴史課題に対する取り組みと共に、在日コリアンはじめ、在日・滞日外国人の人権課題に取り組んできました。

今年5月、入管法が改定されました。

入管における長期収容の課題を、難民申請者に押し付ける、非常に問題のある改定であったと思います。

多くの難民申請者が、今、命の危機にさらされています。

日本で生まれ育った子どもたちが、行ったこともない、言葉もわからない国へ、強制送還される可能性もあります。

そのような状況の中で、私たちにできることは何か、他団体と協力しながら、活動を続けております。

私は、今年度より、その委員会の委員長として、働きを担うこととなりました。

知識も、実践も、経験も足りない私には、不相応な役割ですが、他の委員の状況もあって、断ることもできず、させていただくことになりました。

委員長として、頑張らなければならない。

しっかりしなければならない。

私が委員長になったことによって、これまで続けてきた活動、これまで築いてきた他団体との関係を、壊してはならない。

そんなことを思いながら、自分なりに一生懸命、働きを担わせていただいているんですが、

しかし、当然、初めてのことですから、先輩たちのようには、できないわけです。

いざ、やってみると、足りないところが、たくさん出てくるわけです。

知識も足りないし、言葉も、経験も足りない。

そんな中で、なんとか頑張ろうと思うのですが、頑張ろうとすればするほど、空回りになってしまう。

今回の授業でも、授業時間を30分オーバーしてしまって、学生たちに迷惑をかけてしまったり、

夜の集会の準備が間に合わなかったり、

焦ってしまって、司会進行がうまくいかなかったり、本当に、ぼろぼろでした。

改めて、自分の弱さや脆さを、突きつけられる時となりました。

これが人間の土性であると思います。

土は、水を含んで頑丈になったり、臨機応変に形を変えることができたりという特性もあるが、それは同時に、崩れやすかったり、弱かったり、いつまでも形を維持できない、儚いものでもある。

それは、まさに人間の特徴そのもの。

頑張って形を止めようと思ってもできない。

弱いし、脆いし、儚いものである。

まさに、私自身、そうやってボロボロになっていた中で、先週の水曜日、姪浜教会の祈祷会に行きました。

そこで、分かち合われたみ言葉が、今日の礼拝の最初に読んでいただいた詩編34編のみことばでした。

そこには、こう記されています。

34:18 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。

34:19 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。

34:20 主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し

34:21 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。

そのみ言葉を聞きながら、私の体に、神の息が、吹き入れられるのを感じました。

明日への生きる力が与えられました。

神の息とは、神からのエールだと思います。

励ましであり、支えであり、応援です。

大丈夫だ!わたしがいるぞ!支えてるぞ!受け止めてるぞ!共にいるぞ!って。

人は、そういう言葉によって、生きることができるのだと思います。

この世には、たくさんの言葉がありますが、その中には、人を傷つけたり、痛めつける言葉もたくさんあります。

電話をくださったEさんも、そういう言葉によって、深く傷ついた一人であったのだと思います。

たった一言でも、そのような言葉を聞くと、人は生きられなくなることがあります。

いなくなりたい、消えてしまいたいと思うことがあります。

そういう世の中に置かれている人々に、神様は、一生懸命語りかけています。

人を生かす言葉を、生きるために必要な言葉を、語りかけています。

神の言葉は、言葉だけに終わるものではありません。

神様は、見えないところで、今も働いてくださっています。

私たちには、見えにくいものですが、見えないところで、私たちを支えてくださっています。

そのことによって、私たちは、生きることができるのです。

み言葉と、具体的な働きかけ。

それが、私たちを生かしてくのです。

・18節

でも、どんなに神がそう、私たちに働いてくださっていても、それだけでも良くないと、神様は言います。18節

2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

人が生きていくためには、まだ、必要なものがある。

それは、助け合い、共に生きる仲間です。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを作ろう。」

「彼に合う」というのは、対等、平等な関係を表しています。

対等で、平等な助け手、パートナーが必要だということです。

このパートナーを、男女の関係や、結婚関係に捉える人が多いかもしれません。

確かに、この後の文脈を読んでいくと、そのように展開しておりますが、

しかし、神様が必要だと言っているのは、自分と違う特徴をもった対等な助け手、パートナーの存在です。

異性であるかどうは、関係ありません。

結婚しているかどうかも、関係ありません。

神様が言われているのは、人間は一人じゃ生きられないということと、生きていくためには、自分とは違う、他者との助け合いが必要だということです。

先週の金曜日に、私は、福岡から大分へ帰ってきました。

疲れ果てて、帰ってきましたけれども、家族が迎えてくれました。

教会に行ってみると、祈祷会のプリントが置いてありまして、私の留守中にも、武宮姉妹が大切に祈祷会を担ってくださっていたことを知ることができました。

また、夜の祈祷会は、石井兄弟と伊東兄弟が、二人で、祈祷会を守ってくださっていました。

昨日は、退院したばかりの大下姉妹が、早速お花の奉仕に来てくださっていて、お会いしながら、とても励まされました。

福岡での授業も、私一人ではなく、共に重荷を担う委員や、様々な助け手が与えられました。

それによって、なんとか、私も、働きを担うことができました。

人間というのは、そうやって生きる者なのだと、改めて教えられたように思います。

・結論

土の恵み、水の恵み、そういった自然の恵みによって形づくられ、神の息、神様からのエールを受けて生きるものとなり、助け合う他者によって、豊かに、より良く、生きていくことができるようになる。

人間とは、そういう生き物なのだということです。

どれが欠けても、私たちは、生きていくことができません。

どれか一つが欠けただけで、命の危機に陥ってしまう。

そんな存在であることを、忘れないでいたいと思います。

そして、自然を大事に、神様が共にいることを忘れずに、他者と共に生きる者でありたいと願います。

お祈りします。

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