2023年9月17日礼拝メッセージ「澄んだ目を求めて」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書11章29節〜36節。

新共同訳新約聖書129ページです。

11:29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。

11:30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。

11:31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。

11:32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

11:33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。

11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。

11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。

11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

「澄んだ目を求めて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざを、聞いたことがあるでしょうか。

坊主というのは、お寺にいるお坊さんのこと。

袈裟っていうのは、そのお坊さんが着ている服のことです。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、お坊さんのことが嫌いだって思うと、そのお坊さんが着ている服まで、憎く思えてしまうということです。

つまり、「相手のことが嫌いだって思うと、相手に関係のあるもの全部が、嫌いに思えてしまう」という、そういう意味のことわざです。

イエス様の周りにいた人たちは、きっと、そんな状態にあったんじゃないかと思うんです。

先週、私たちは、イエス様が、口の利けない人を話せるようにしたっていう話を聞きました。

話すことができずに苦しんでいた人たちが、話せるようになった。

これは、すごいことです。

話せるようになった人たちも、その家族も、友達も、さぞ喜んだことでしょう。

でも、それを見て、「あれは悪霊の力だ」っていう人たちがいた。

「イエスは危ない力を持っている。悪い奴だ。」って、騒ぎ立てる人たちがいた。

彼らがどんな人たちか、詳しくはわかりません。

でも、イエス様のことを気に入らない、目障りだって思っていた人たちがいたっていうのは確かです。

きっと、そういう人たちだったんだろうと思います。

イエス様は、間違っていることは間違っているって、はっきりいう人でした。

当時の常識や社会のルールも、おかしいと思うことは、おかしいって言って、そのルールに縛られずに、自由に生きられた人でした。

罪人と一緒に食事をしたり、安息日っていう仕事をしてはいけないってされた日にも、病気の人を癒したりしていました。

そんなイエス様を、気に入らないって思っていた人たちが、結構たくさんいたんです。

彼らは、「イエス様が何をしたか」なんて関係ない。

どんなに病気の人を癒しても、どんなに素晴らしい言葉を語っても、認めようとしませんでした。

イエスが嫌い。なんとかしてイエスを陥れてやろうって、そんなことばっかり考えていたので、

どんなに目の前で救われている人がいたとしても、全然目に入らない。

すごいことが起こっていたとしても、その目には、悪いことにしか見えなかったんです。

これこそまさに、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だと思います。

そのように、人を思う心っていうのは、全てに影響を及ぼす。

相手が嫌いって思うと、その人が、どんなに良いことをしていても、認められなくなってしまう。

どんなに素晴らしいことをしていても、憎らしく思えてしまう。

相手を思う心が、自分の目を、曇らせたり、濁らせたりしてしまうということです。

人間ですから、どうしても、好き嫌いはあるでしょう。

意見が合う人、合わない人、いるでしょう。

クラスの中にも、気が合う人もいれば、合わない人もきっといると思います。

でも、相手がどんな人であれ、良いことは良い、正しいことは正しいって、受け入れられる人になりたい。

認められる人になりたいと思います。

そのためには、私たちの心が大事です。

憎しみや怒りを持ったまま、相手を見ると、どんなに良いことも見えなくなってしまう。

どんなに正しいことも、憎らしく思えてしまう。

相手を見る目は、私たちの心で、変わっていく。

イエス様は言っています。

「みんなの心が、暗くなっていないか。

暗いままで、相手を見つめていないか。

自分の心に、よく注意しなさい」って。

憎しみや怒りを持ったままで、相手を見ないように、注意しましょう。

相手を見る目は、私たちの心で、変わっていく。

今日は、そのことを、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・澄んだ目を求めて

今日は、「澄んだ目を求めて」というタイトルにしました。

11章34節で、イエス様は、「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」と言われています。

目が澄んでいれば、全身が明るい。

それは、目が澄んでいれば、輝いて生きることができるということをあらわしています。

せっかく与えられた命ですから、輝いて生きていきたいと思うものですが、そのために大事なのは、目だと言われています。

目が澄んでいれば明るいが、濁っていれば暗くなる。

目が良いとか、悪いとか言われているのではありません。

澄んでいるか、濁っているかが問われています。

目が澄んでいるとか、濁っているというのは、どういうことでしょうか。

何が、私たちの目を濁らせるのでしょうか。

そのことを、念頭におきながら、今日の箇所を読んでいきたいと思います。

今日の箇所は、先週の続きです。

先週は、イエス様が、悪霊を追い出している場面を読みました。

その様子を見て、大勢の人々が驚いていました。

しかし、中には、イエス様に文句をつける人たちもいました。

「あの男は悪霊の頭だ。だから、悪霊を追い出せるのだ。天からの者だと言うなら、その証拠を見せろ。」

彼らは、イエス様に、天からのしるしを求めました。

「天からのしるし」って、一体何でしょうか。

イエス様は、足の不自由な人を歩けるようにしたり、口が利けない人を話せるようにしたりしていましたが、それは、「天からのしるし」ではなかったのでしょうか。

人によっては、それこそが「天からのしるし」だって、そう受け取っていった人たちもいました。

彼らは、どうだったのでしょうか。

その出来事は、彼らの目に、どう映っていたのでしょうか。

彼らに対してイエス様は言いました。29節。

「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

イエス様は、しるしを欲しがること自体が邪だ、悪しきことだと言っています。

でも、どうでしょうか。

天からのしるし、見たいと思いませんか。

私は、見たいです。

私は、もともと理系の人間として、論より証拠の世界で生きていました。

ですから、証拠が見たい。

できることなら、私も、イエス様の時代に行って、イエス様が病気を癒したり、ラザロを生き返らせたりする場面を見てみたいと思います。

そう思うこともダメなんでしょうか。

しるしを欲しがることが、なぜ、悪いことなのか。

いろいろ調べていましたら、ある神学者の言葉で「しるしをもとめることは、信仰の終わりである」という言葉を見つけました。

その言葉を見て、なるほどと思いました。

しるしを求めるということの根本には、疑いがあります。

疑いがあるからこそ、しるしを、証拠を求めるわけです。

イエス様の弟子にトマスという人がいました。

このトマスという人は、実にタイミングが悪い人で、復活したイエス様が弟子たちの前に現れた時、彼だけそこにいなかったそうです。

そこで、弟子たちは、「イエス様が復活された。私たちは、イエス様を見た。」ってトマスに言うんです。

でも、トマスは、彼らの言うことを、信じませんでした。

そして、彼は、「手に釘跡を見、その釘跡に触れてみなければ、決して信じない」って、言いました。

まさに彼は、しるしを求めたわけです。

「イエス様が復活されたなんて、そんなこと、信じられない。

手の釘跡を見て、それに触れてみなければ、私は絶対に信じない。」そう言った。

そんなトマスの前に、イエス様は現れます。

そして、トマスの望んだ通り、手の釘跡を見せ、触れるように言うわけです。

そこでトマスは、イエス様が本当に復活されたと受け入れるわけですが、そんなトマスに、イエス様は言います。

「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

イエス様が仰っているのは、「疑うのではなく、信じなさい」ということだと思います。

「疑うのではなく、信じなさい。信じるものとなりなさい。」

今日の箇所もそうです。

しるしを求めるのではなく、信じなさい。

それが、イエス様の言いたいことなのだと思います。

イエス様は、「どんなにしるしを求めても、ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」と言っています。

ここで紹介されているヨナは、旧約聖書「ヨナ書」に登場する預言者です。

彼は、ニネベという町の人々を、悔い改めさせるために、神様に遣わされました。

でも、そこで彼がしたのは、奇跡なんかではありません。

神様から伝えるように言われた言葉。

「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」という言葉を語っただけでした。

でも、ニネベの人々は、そのヨナの言葉を信じたんです。

なんのしるしもないのに、ヨナの言葉を信じたのです。

イエス様は、そんなヨナのことを引き合いに出して、「ここに、ヨナにまさるものがある」と言われています。

「ニネベの人々は、何のしるしもなしに、ヨナの言葉を信じた。

ここに、ヨナにまさるものがある。あなた方は、どうするのか。

それでも、なお、しるしを求めるのか。」そういう迫りを感じます。

同じように31節で、イエス様は「ここにソロモンにまさるものがある」とも仰っています。

ソロモンとは、ダビデの息子で、イスラエルの3代目の王様です。

彼は、神様から授かった知恵を持っていました。神の知恵です。

世界中の人々が、その神の知恵を求めて、ソロモンのもとを訪れていました。

南の国の女王もその一人です。

先週の祈祷会では、ちょうどこの南の国の女王が、ソロモンのもとを訪れる場面を読みました。

その箇所によると、彼女は4トン以上もの金を携えて、ソロモンのもとにやってきたと、記されていました。

4トンの金なんて、想像できるでしょうか。

それだけじゃありません。さらに、宝石や香料も携えて、遥々アラビア半島の南の端っこからやってきたと言います。

もちろん、電車も、車もない時代です。

きっと、何日もかかったでしょう。

4トンもの金を運ぶためには、大勢の人々も必要だったでしょう。

それだけの労力、それだけのコストをかけてでも会いたいと思った。

ソロモンの知恵を、聞きたいと思った。

そうやって、世界中の人々が、高価な贈り物を携えて、ソロモンのもとにやってきました。

イエス様は、そのソロモンにも勝る者です。

それなのに人々は、イエス様を拒むのです。

なぜでしょうか。

なぜ、ソロモンは讃えられ、イエス様は拒まれなければならなかったのでしょうか。

ここで、問われているのが、目です。

イエス様は、「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」と言われます。

イエス様を見つめる目が問われています。

ソロモンとイエス様において明らかに違ったのは身分でした。

ソロモンは王様。

イエス様は、ガリラヤという、差別された村出身の貧しい青年でした。

そのことが、人々の目を、濁らせていたのではないでしょうか。

故郷の人々は、イエス様の言葉を聞いた時「この人は大工の息子じゃないか。このような知恵を、どこから得たのか」と言いました。

その言葉通り、イエス様は、満足な教育も受けていませんでしたし、律法学者のような社会的な地位も、資格も、家柄も持っていませんでした。

それなのにイエス様は、人々を教えたり、癒したり、悪霊を追い出したりしていました。

勝手に罪の赦しを宣言したり、罪人と食事をしたり、安息日に病気を癒したりもしていました。

そんな振る舞いが、ファリサイ派や律法学者の怒りを買うことになっていったのです。

彼らは、イエス様に言いました。

「何の権威でそんなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か。」

彼らの疑いや怒りの根本には、イエス様が、ガリラヤの貧しい青年だったということがあったのだと思います。

もし、イエス様が、家柄も良く、知恵も資格も持っていたならば、きっとそういうことにはならなかったでしょう。

素直に驚いたり、感動したり、できたのではないでしょうか。

彼らが、イエス様を受けいれなかったのは、イエス様が、何の資格も、地位も持たない、差別された村出身の青年だったからです。

差別や偏見が、人々の目を濁らせていたのです。

イエス様は言われます。35節

「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」

岩波訳では、「あなたの中の光が闇ではないように留意せよ」と訳されています。

「あなたの中の光が闇でないように、注意しなさい。」

私たちの内側、私たちの心に、注意を向けるように呼びかけています。

私たちの目や耳は、私たちの内面と強く結びついています。

子どもメッセージで、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言いましたが、人を憎しみの目で見れば、何をしたって憎く見えてしまうのです。

大事なのは、私たちの心です。

私たちの心が、闇に落ちていないか。

敵意や憎しみ、差別や偏見が、私たちの心を暗くし、目を濁らせていないか。

その心の状態に、注意しなさいと、イエス様は言われるのです。

澄んだ目を求めるならば、何よりもまず、澄んだ心を求めなければなりません。

自分の中にある、敵意や憎しみに注意する。差別や偏見に注意する。

そして、そのような私が変えられていくようにと、祈り願うことが、澄んだ心を求めるということであり、澄んだ目を求めるということなのだと思います。

澄んだ目でいるために、澄んだ心を願いましょう。

「あなたの中の光が闇ではないように、注意しなさい」。

このイエス様の言葉を、今日は、心に覚えたいと思います。

お祈りします。

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