2023年2月19日メッセージ「これがわたしの命令である」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ヨハネによる福音書15章11節〜17節。

新共同訳新約聖書199ページ。

15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあ なたがたに知らせたからである。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名に よって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

「これがわたしの命令である」と題して、別府国際教会の酒井朋宏牧師に、メッセージをしていただきます。

 本日、別府国際教会の母教会である大分教会で、皆さんと共にイエス・キリストの神を礼拝することができる恵み、そして大変大切な説教のご奉仕をさせていただくことを、私はとても嬉しく思います。

 大分教会、臼杵教会、別府国際教会が、姉妹教会(兄弟教会)として繋がっていることは、別府国際教会の牧師であるわたしにとっても、とても大きな励みと支えになっています。

 先日には(1月29日)、三教会の証しの日で、大分教会から二人の姉妹が証と賛美のために別府国際教会へ来てくださいました。お二人をお迎えして、証、賛美をお聞きして励まされ、そして礼拝の後も(まだ食事などができないのは残念でしたが)教会の人同士が、お互いにお交わりされている様子を見て、わたしは本当に嬉しく思いました。

 村田悦牧師はわたしにとって(年はわたしよりずっとお若いですけれども)先輩牧師であって、わたしは赴任以来(家族同士でも)先生とは大変親しくさせていただいています。教会のことや牧師としての仕事で分からないことや悩みがありますと、よく私は村田先生にご相談させていただくこともあります。

 わたしが西南学院大学神学部を卒業した時(2017年)卒業礼拝の時、博多の西南学院大学まで村田先生も来てくださっていました。その時村田先生が(たしか卒業礼拝出席の各教会の方が紹介される時に)、こう言ってくださったのをわたしはよく覚えています。

 別府国際教会の方も出席してくださっていて「酒井牧師をお迎えできることを、教会は喜んで待っています」と言ってくださいました。そして村田先生も、「酒井先生、大分教会も酒井先生が来られるのを、お待ちしています」と言ってくださったんですね。正直わたしその時は、多少社交辞令のような感じでそのお言葉をお受けしたかと思います。

 しかしその後大分の教会同士の交わりの中へ入れられ、何かとわたしにも声をかけて下さる村田先生との交わりを持たせていただくことで、“村田先生(そして先生は大分教会の代表として、という思いで)、本当にわたしを待っていてくださっていたんだな”と感謝を持って、あの時の言葉を思い出します。

今日の聖書箇所として、ヨハネ福音書15章の11~17節を選ばせていただきました。村田先生から、今年度大分教会の皆さまはヨハネ15章4~5節の聖句に基づいて「つながる」ということを大切にして教会活動を歩んでおられるとお聞きしました。

 今、”待っています”という、村田先生がわたしにかけてくださった言葉の話をしました。わたしたちも“待っています”という気持ちで教会に人々をお迎えしたいと思います。なぜなら、わたしたちの神が、イエスさまがわたしたちを“待っていてくださるお方”であるからです。わたしたちが罪を犯し、神様から離れてしまっても、それでも神は決してわたしたちを見捨てることなく、“いつでも帰っておいで”と言ってわたしたちのことを忍耐強く待っていてくださるお方、わたしたちの神はそのようなお方です。ですから神に愛されたわたしたちも、心から「待っています」という気持ちをもって、教会にできるだけの人をお迎えしたいと願うのです。

しかし、人との繋がりをつくるためには、ただ待っているのではなく、“自分から出かけて行く”ことも時に必要になります。イエス様も今日の箇所で(16節で)「わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」と言われました。イエス様は「わたしがあなたがたを選んだのは、あなたがたが今いるところから一歩踏み出して出かけて行くためだ」と、ここではそうおっしゃっているのです。ただ待っているのではなく、わたしたちの側からも外へ出て行って、自ら出会いを作ろうとすることも大切なのです。

以前、“友だちは、作ろうと思って努力をしないと出来ない”と聞いたことがあります。その意見には異論もあるかもしれません。友達は自然に出来るもの(与えられるものだ)という考えもあるかもしれません。(友達を作ろう、などと打算的に考えるものじゃない)しかし、人と知り合い、友達になるには、自分が今いる場所に留まるのではなく、できることなら外にでかけていき、そして自分の考えや思いにこだわり自分中心になるのではなくて、心を開いて、他者と知り合い理解をしようとする、時には自らが変わろうとする、そういう努力や姿勢が確かに必要だと思います。

ですから、今、大分教会の皆さんがコミュニティーコンサートなどの働きを通して、自ら外へ出かけて行き新しい出会いを作ろうとしておられるのは、わたしたちは大変素晴らしいと思います。どこか内に閉じこもりがちなるわたし自身(酒井)が反省させられる思いがしています。わたしたちが自らでかけていくことで、それによって新しく生まれる出会いとつながりを通して、イエス・キリストの福音がそこで豊かに分かち合われ、福音が拡がっていくことをわたしたちは願いたいと思います。

イエス様は今日の箇所の15節で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。これは凄いお言葉です。神の子であるお方、神と等しいお方であるイエス様が、わたしたち人間のことを”友達だ”と言ってくださったのです。それはイエス様が、わたしたちのほうへ来てくださった(出かけて)ということです。それは、イエス様にとってまさに命をかけた大変危険なことでした。最後はご自分の弟子たちにも裏切られ、十字架に掛けられてイエス様は死なれました。そのようにしてイエス様はわたしたちに教えてくださったのです。今日の13節に書かれています。「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。イエス様はご自分からわたしたちのほうへ来てくださって、そして命を捨てて、「あなたたちはわたしにとって、これほどまでに、とても大切な存在だ、あなたは尊い人なのだ」と教えてくださったのです。

 イエス様は、今日の箇所で弟子たちに(そして今のわたしたちにも)ある命令をしておられます。

12節  わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

17節  互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

 イエス様がわたしたちにこう命じておられる。命令しておられるのです。イエス様からの命令ですから、キリスト者はこの命令、掟に従って生きなくてはなりません。そして”命令”といっても、これは主人が僕(奴隷)に一方的にくだす、そういう意味での”命令”ではありません。

 主人が僕(奴隷)にくだす命令は、それは主人の利益のための一方的な命令です。主人が僕(奴隷)に命令をくだす時、主人は僕にその命令の内容や、なぜそう命令するのか、という理由を説明する義務もありません。主人は自分が望むように、ただ一方的に僕に命令することができ、僕は文句を言わずに、ただその言うことを聞かなくてはなりません。しかし、イエス様の命令は違います。

 

15節をお読みします。

 もやは、わたしはあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているかを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである

 イエス様は、天の父なる神の御心をすべて、わたしたちに知らせてくださいました。イエス様ご自身のお言葉と、そしてその生き方を通して、“天の父なる神の御心、神があなたがたに何を望んでおられるのか、それらすべてをわたしはあなたたちに伝えた”と言うのです。主人と僕の関係であれば、そんなことをする義務はないのです。しかしイエス様は、そのお言葉と生き方を通して、最後は十字架の上での死を通して、父なる神の御心をわたしたちに全て知らせてくださいました。そして今も神は聖霊を通して、わたしたちに聖書の言葉を通して、わたしたちに常にその御心を知らせてくさっています。

そのようにして、神の愛と御心を知らされた私たちは、互いに愛する者へと、きっと変えられていくはずなのです。

ではわたしたちは、どのようにして(具体的に)このイエス様の命令“互いに愛し合いなさい”というお言葉・命令に従ってゆくことができるのでしょうか。

他者を愛するひとつの具体的な行為として、“相手の気持ちになって、相手の身になって、心を傾けてその人の話を聞く”、“その人が、本当に望んでいることは何なのか、と想像しながら、他者の話を聞き、他者に向き合う”という姿勢があげられると思います。実はわたしは本当にそれが日頃から実践できておらず、人の気持ちや、あるいは家族の気持ちが分からずに、十分に聞くことをせずに早急に(自分自身の思いで)判断してしまい、きっとそのことで人を傷つけていることが多いのです。

最近わたしが“人と向き合って、人の話を聞く”ということについて、深く考えさせられた時のことをお話させてください。あるテレビの番組を見ていて考えさせられたことです。

昨年日本を代表するプロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなりました。わたしは中学一年の時、地元名古屋の、家の近くのスーパーでアントニオ猪木のサイン会、握手会があって、そこへ行ったことがあります。わたしは(実は、プロレスが好きだったのです)その握手会で、猪木に握手をしてもらい、人全体を包むような笑顔、握手をしてもらって、一変に猪木ファンになってしまいました。

アントニオ猪木はそれから何年か後に国会議員の選挙に立候補して、当選できるかどうか、懐疑的な見方が多かったと思いますが、猪木さんが精力的に選挙活動中で沢山の有権者と握手をしてまわっている姿をわたしはテレビで見ていました。当選が決定したときは(結構ぎりぎりまで当選が分からない接戦だったと思いますが)、わたしは“猪木と握手をした人たちは、きっと猪木に投票しただろうな”と思いました。

1990~91年に勃発した湾岸危機・湾岸戦争の時には、イラクで人質として囚われになっていた日本人全員を出国させるため、猪木単身イラクに乗り込んでイラク政府と交渉し、最終的に日本人全員の出国を成し遂げた、、、凄い人でした。

猪木さんは昨年に10月になくなりましたが、年末のテレビ番組で、アントニオ猪木が最後の闘病中の姿、なくなる何日か前の姿までを映したテレビ番組を偶然見ました。本当に弱り切った、あの燃える闘魂の姿からは程遠い、痩せて弱り切って、ベッドに横たわった猪木の姿を番組は見せていました。

そこへ猪木の弟子である藤波辰巳というレスラーが猪木を訪問している場面が映し出されました。藤波も70歳近いですが、確か今でも現役でレスリングをやっています。

藤波が「猪木さん、こんどわたしのレスラー生活50周年の記念大会があるので、ぜひ猪木さんに来てほしいんです」と言いました。藤波にとっては、猪木を励ます意味もあったと思うのです。そして「できることなら、また元気になってほしい」という弟子としての純粋な願いもあったでしょう。

それに対して猪木が(ほんとうにか細い、声で)「いやー、自分の意識は、もうそういうところにないからな」と言いました。

元気なころのアントニオ猪木、燃える闘魂アントニオ猪木を知っている人は、いつまでも猪木は猪木でいて欲しいという気持ちがある。そして「また元気になってください」という言葉が、きっとその人を励ますだろう、という思いもあるわけです。しかし猪木は「自分の意識が、もうそういうところにない」と答えた。その言葉を受けて、「まだ時間がありますので、また考えてみてください」というように答えていた藤波辰巳の姿も、とても印象的にわたしの記憶に残っています。

この地上での命を終えようとしている人に向かって、どう向き合い、その人に寄り添い、そしてどんな言葉をかけるべきなのか、あるいはどのようにその人の話を聞くべきなのか、ということについて深く考えさせられる場面でした。それは、相手が年配の方でなくても、小さなこどもでも、同年代の人であっても、どこの国の人であっても、話す言語が違っても、心を傾けて相手の話を聞き、そしてその上で、わたし自身も心を開いて、自分の気持ちや願いを相手に伝える、そのように“お互いに理解しあう、愛し合う”そのために努力をする、それがいつも私(わたしたち)の課題であると、思わされました。

イエス様は今日の箇所で、「また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)とも言われました。

わたしたちが心合わせて、天の父なる神に願うものは、何でも惜しみなく神は与えてくださる~これはわたしたちに与えられた神からの、大きな希望の約束です。そしてそのために(神に願いを聞いていただくために)必要になることも、わたしたちが互いに“繋がり”、“愛し合う”ことです。なぜなら、そのような関係性がないのならば、わたしたちは同じことを神に願い祈るということができないからです。

祈りは個人的なものでもあり、またそれ以上に、わたしたちが信仰によって結ばれる行為でもあります。信仰による交わり、信仰による関係を私たちが他者と築き、そしてわたしたちが心をあわせて、同じことを(心一つにして)願うならば、神は必ず私たちのその祈りを聞いて下さりそれを与えてくださる。

そんな神の大きな、希望の約束がわたしたちには与えられているのです。

今、わたしたちは何を神に願おうとしているのでしょうか。わたしたちは何を望んでいるのでしょうか。今わたしたちが出会わされている他者は、何を願っているのでしょうか。そして神は、わたしたちに何を願っておられるでしょうか。

信仰に基づいた出会い、つながりを通して、”互いに愛しあいなさい、これがわたしの命令である”~イエス様のこのお言葉に、少しでも従って生きるものでありたいと私たちは願います。

お祈りしましょう。

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