聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、イザヤ書7章1節〜14節。
新共同訳旧約聖書1070ページ〜1071ページです。
7:1 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。
7:2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
7:3 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、
7:4 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。
7:5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、
7:6 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、
7:7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。
7:8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)
7:9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
7:12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
「クリスマスどころじゃないあなたへ」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・アドベントの始まり
今年もいよいよ12月になりました。
アドベントのロウソクにも火が灯り、3週間後にはクリスマスがやってきます。
今年こそは、余裕を持ってクリスマスを迎えたいと思っていましたが、いつも通り、やはり今年も余裕はありません。
心がざわざわして落ち着かない。
感染症も流行っているし、世界では、戦争や紛争が続いています。
先日は、日本の上空をロケットが通過しました。
私、テレビを見ていましたけれども、急にJアラートに切り替わって、とても驚きました。
とても怖かったし、慌てました。
本当に、どうしよう、どうしようって思いました。
「地下に逃げてください」って言われても、地下なんてありませんし、本当に怖くなりました。
沖縄上空を通過したようですが、沖縄の人たちはもっと怖かっただろうと思います。
その時に、思ったのが、ウクライナやガザにいる人々のことです。
ウクライナやガザの人たちは、こんな日常を過ごしているのかと思わされました。
彼らは、どんなふうにクリスマスを迎えるのでしょうか。
きっと、クリスマスどころじゃないと思います。
もしかしたら、皆さんの中にも、クリスマスどころじゃない事情を抱えておられる方々がいらっしゃるかもしれません。
受験生なんかもそうかもしれませんし、病気と戦っておられる方、課題に追われている方もいらっしゃるかもしれません。
でも、そんな人々のためにこそクリスマスはあるし、そんな人々のためにこそ、今年もクリスマスは来るんだと、聖書は、そう語っていると思います。
・クリスマスといえば
聖書には、様々なクリスマスの御言葉が記されています。
どれか一つあげてと言われたら、皆さんは、どんな言葉を思い出されるでしょうか。
たとえば、ヨハネ福音書の冒頭にあります「光は闇の中に輝いている、闇はこれに打ち勝たなかった。」というのもそうですし、マリアが天使のお告げを受け入れる時に言った言葉「お言葉通り、この身になりますように。」も、とても有名な言葉です。
「宿屋には、彼らの泊まる場所がなかった。」という言葉も、クリスマスを語る上で、欠かせない言葉だと思いますが、
そんな言葉たちと共に、クリスマスには必ずと言って良いほど、読まれる言葉があります。
ヨセフが、マリアを受け入れる場面で語られる言葉です。
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
とても有名な言葉です。
聞いたことがあるという方も多いと思いますが、実はこの言葉、この時、初めて言われた言葉ではありません。
イエス様が生まれる700年以上前、預言者イザヤが語った言葉でした。
その語った場面というのが、今日の箇所なんですが、この言葉が、どういう文脈で、どういう人に向かって語られた言葉だったのか。
なぜ神様は、インマヌエルという名の男の子を与えると言われたのか。
それはつまり、なぜクリスマスを与えると言われたかという問いであるわけですが、そのことを、見ていきたいと思います。
・誰に、どのような時に
まず、誰に向けて語られた言葉だったかということですが、語られたのは南ユダ王国の王アハズでした。
当時、イスラエルは、南北に分かれていました。
北イスラエルと南ユダという二つの国になっていました。
その南側の王アハズに語られたのが、インマヌエルの預言でした。
どういう文脈で語られたかと言いますと、この時アハズは、大きな不安の中にありました。
北イスラエルとアラムが手を組んで攻めてくる。
彼らは、当時、強大な力を誇っていたアッシリアという国に対抗するために同盟を結んでいました。
シリアとパレスチナの多くの国々が、この同盟に参加しましたが、南ユダは、参加しませんでした。
おそらく、勝てないと思っていたのでしょう。
どんなに同盟をつくって、力を合わせても、アッシリアには敵わない。
むしろ、返り討ちにされてしまう。
そう思って、アハズ王は、参加しなかったのだろうと思われます。
当然、北イスラエルとアラムは、黙っていません。
「なぜ南ユダは、参加しないのか。
アッシリアを倒すために、一致団結しないとならない時に、なぜ輪を乱すようなことをするのか。
アハズがダメなら、自分たちのいうことを聞く、別の王を立てよう。」
彼らは、アハズを失脚させて、自分たちに都合の良い王を立てようとしました。
そのために彼らは、エルサレムまで攻めてきたのです。
このことによって、アハズ王も、南ユダの民も、とても動揺しました。
2節には、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と記されています。
「森の木々が風に揺れ動くように」ざわざわざわっと、動揺が広がっていく。
北イスラエルとアラムが攻めてきている。
この国は大丈夫だろうか。逃げた方が良いんじゃないか。
包囲されていて、逃げることなんてできるのか。誰に助けを求めてたらいいか。どうしよう、どうしよう。
王だけでなく、民の心も、国全体が、この時、激しく動揺していました。
そんな時に与えられたのが、インマヌエルの預言だったのです。
・インマヌエル
「インマヌエル」は、「神は我々と共におられる」という意味の言葉です。
不安で動揺する人々に、神様は「私が共にいる。だから、落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と言われました。
これが、クリスマスに語られる「インマヌエル」の預言です。
その言葉は、平安に過ごす民にではなく、不安で落ち着かない民に語られた言葉だったんです。
同盟軍が攻めてくると聞いて、心がざわざわ、落ち着かない。
この先どうなるのか、不安でたまらない。
そんな人々に、神様は、私が共にいる。だから、大丈夫と語られたのです。
思い返すと、神様が「共にいる」と語られるところには、いつも、そのような人々がいました。
3つ、その例を、紹介したいと思います。
1つは、創世記28章15節「見よ、私はあなたと共にいる。」と記されています。
これは、神様が、イサクの息子ヤコブに対して語られた言葉です。
この言葉が語られた時、ヤコブは、逃走中でした。
父イサクを騙し、長男エサウに与えられるはずの祝福を奪い取ったヤコブ。
彼は、兄エサウに命を狙われて、逃げていくことになります。
これから自分はどうなるんだろうか。
家族も故郷も失って、生きていけるんだろうか。
不安の中で与えられたのが、共にいるという言葉でした。
2つ目は、出エジプト記3章12節「わたしは必ずあなたと共にいる。」と記されています。
これは、モーセに対して語られた言葉です。
場面としては、モーセが、イスラエルの民を解放するために、遣わされようとしていた場面です。
実は、この時、モーセも逃走中でした。
エジプトで、同胞であるイスラエルの民が、エジプト人に鞭打たれながら働かされるのを見たモーセは、我慢できなくて、そのエジプト人を殺してしまうわけです。
しかも、その様子を見られてしまうのです。
このままでは、捕まって、殺人罪で死刑にされてしまう。
それで、彼は、逃げていたのです。
それなのに、神様は、イスラエルの民を解放するために、エジプトへ行けというわけです。
当然モーセは断ります。「私は何者でしょう。一人の同胞も救えない私が、どうしてイスラエルの民を救うことができるでしょう」と言います。
そんなモーセに語られたのが、「私が共にいる」という言葉でした。
3つ目は、新約聖書から、マタイによる福音書28章20節「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と記されています。
これも、キリスト教会では、大変有名な箇所です。
大宣教命令と言われる箇所ですが、これは、復活したイエス様が、弟子たちを派遣する時に、語られた言葉です。
ご存知のように、弟子たちも、一度はイエス様を裏切って逃げた人々でした。
みんな逃げている。面白い共通点ですが、逃げてしまって、自信を失っていた弟子たちを、イエス様は再び呼び集め、新たに派遣される。
その時に、語られたのが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉でした。
このように、「共にいる」という神様の言葉は、不安の中にいる人々に与えられてきました。
先が見えない。敵に取り囲まれている。逃げ出したい。そんな想いを抱えた人々に与えられてきました。
「恐れるな。私があなたと共にいる。大丈夫。」
この神様のメッセージを示すために来られたのが、イエス様だったのです。
なぜ、神様は、クリスマスを与えると言われたか。
それは、不安の中にいる人々に、「恐れるな。私があなたと共にいる。大丈夫。」ということを伝えるため。
そのことを示すために、クリスマスはあるということです。
・アドベントの本当の意味
今、大丈夫じゃない状況に、置かれている方々。
病と戦っている方、課題に追われている方、受験を控えている方、貧しさに先が見えない方、戦争や紛争の中に置かれている方々、避難生活をされている方々。
そんな一人一人のために、クリスマスはきたし、今年もクリスマスは来るのです。
「アドベント」は日本語で待降節と言われ、クリスマスを待ち望む時とされています。
しかし、本来「アドベント」は「到来」を意味する言葉です。
イエス様が来てくださる。
準備ができていなくても、いや、準備などできない。
クリスマスどころじゃない人々のところに。
不安で落ち着かない人々のところに。
「神は、あなたと共におられる」そのことを示すために、今年も、クリスマスはやってくるのです。
・信じなければ、確かにされない
ただし、イエス様が来られて、一件落着とはなりません。
アンジェラス・シレジウスという人がこんな事を言いました。
「キリストがベツレヘムに千回生まれようとも、あなたの心に生まれなければ、あなたの魂は救われない」。
今日の箇所の9節にも、「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」と言われています。
どんなにイエス様が来られても、どんなに「神様が共にいる」と言われても、それを信じなければ、不安から解放されることはありません。
ヤコブやモーセや弟子たちは、「私が共にいる」という言葉を信じて、出かけていきました。
でも、アハズは違いました。
彼は、神様を信じるのではなく、アッシリアの軍事力に頼る道を選びました。
激しい動揺の中、彼が選んだのは、神様ではなく、アッシリアだったわけです。
この決断を、皆さんはどう思うでしょうか。
なぜ、神と共に生きる道を選ばなかったのか、と思うかもしれません。
でも、その選択は、容易なものではありませんでした。
アハズは王でした。
国の行く末を任されていました。
この時、彼には、3つの選択肢がありました。
1つは、同盟軍と手を組んで、一緒にアッシリアと戦うこと。
もう1つは、アッシリアと手を組んで、アラム・イスラエルの同盟軍と戦うこと。
これに対して、神が求めたのは、「落ち着いて、静かにしていること」でした。
同盟軍とも、アッシリアとも、手を組まず、神を信じて耐えしのぐことでした。
みなさんだったら、どの道を選ぶでしょうか。
神が示した選択肢は、3つの選択肢の中で、最も非現実的な選択肢だったと思います。
同盟軍が、すぐ目の前まで迫っている。
このままじゃやられてしまう。
不安の中で、アハズ王は、アッシリアと手を組むことを選んでいきました。
不安から出発するのか。
それとも信頼から出発するのか。
そのことが問われています。
不安から生じる行動は、保守的にならざるを得ません。
必ずと言っていい、保守的な行動へと、わたしたちを導いていきます。
国を守る。組織を守る。家族を守る。自分を守る。
でもイエスは言います。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
まさにアハズは、不安から、自分の命を守るために行動しました。
国を守るために、行動しました。
でも、それは、アッシリアの支配に下るということでした。
そのために彼は、主の神殿と王宮の宝物庫にある銀と金を取り出し、アッシリアの王に贈り物として送りました。
そして、アッシリアの王に、「私はあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、私に立ち向か うアラムの王の手とイスラエルの王の手から、私を救い出してください。」と言いました。
自分の命を守るために、アハズが手放したものは、とても大きかったと言えるでしょう。
結果的にその選択が、国を滅ぼすことになっていきました。
インマヌエルの言葉に対して、私たちは、どう応えていくでしょうか。
インマヌエルの神を信頼して生きるということは、神に委ね、自分を献げていくということです。
不安も、心配も、神様に任せて生きる。
自分の命を守ろうとするのではなく、神に自分を献げて生きるということです。
それは、私たちにとって、決して、簡単なことではありません。
でも、その道を選び取っていく時に、命を得ると言われています。
信じて、歩み出していきましょう。
お祈りします。