2023年1月15日メッセージ「イエス様に従った女性たち」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書8章1節〜3節。

8:1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。

8:2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、

8:3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

「イエス様に従った女性たち」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

世の中には、たくさんの職業がありますけれども、

昔と比べて、名前が変わっている職業があるの、知っていますか?

たとえば、保育士さん。

幼稚園とか、保育園の先生のことですけれども、

私が小さい頃は、保母さんって言われていました。

でも、今は、保育士さんって、言われています。

看護師さんもそうです。

昔は、看護婦さんって言われていましたが、今は、看護師さんって言われています。

なんで、そうやって、呼び方が変わったのか、知っていますか。

それは、男の幼稚園の先生とか、男の看護師さんが、増えてきたからです。

もともと、保母さんも、看護婦さんも、女の人がなる職業だと考えられていました。

男の人がなるなんて、思っていなかった。

だから、呼び方も、保母さんとか、看護婦さんって、女の人にしか、使えないような言葉が、使われていたんです。

男でも、看護師さんになっていいし、幼稚園の先生になったっていい。

ちなみに、私のお父さんは、幼稚園の先生です。

40年以上、幼稚園の先生をしています。

男の人で、そんなに前から幼稚園の先生をしている人は、とても珍しいと思います。

でも、園長先生はどうでしょうか。

幼稚園の先生は女の先生がほとんどなのに、園長先生は、男の人が多いように思います。

小学校とか、中学校でも、女の先生はいますが、校長先生はどうでしょうか。

男の人が多いのではないでしょうか。

病院もそうです。

看護師さんは、女の人が多いけど、お医者さんは、男の人の方が多いと言われています。

女性のお医者さんは、五人に一人の割合だそうです。

それでも、ずいぶん増えたそうで、40年前は、十人に一人もいなかったそうです。

実はこれ、牧師にも言えることです。

牧師も、ほとんど男の人です。

女性の牧師は、少ないです。

なんで少ないか。

それは、「女性は牧師になれない」「牧師は男性であるべき」って、考えられていたからです。

なんでそんなふうに考えられていたかというと、それは、聖書に、そう書いてあるって、考えられてきたからです。

確かに聖書を読んでみると、男の人ばっかり出てきます。

イエス様に従った十二弟子も、みんな、男の人です。

中には、「女性は、男性に従いなさい。

女性が教えたり、男の人の上に立ったりしてはならない。」って言葉もあります。

でも、果たして、イエス様は、そんなこと、望んでいるんでしょうか。

そのことを考える時に、二つのことを、覚えておいてほしいと思います。

一つは、イエス様の弟子の中には、女性たちも、たくさんいたということ。

イエス様の弟子は、男性だけじゃなかった。

女性たちもたくさんいたと、聖書に書いてあります。

そして、二つ目、その女性たちが、最初に、イエス様の復活の知らせを受けたということです。

彼女たちは、イエス様に、最後まで従っていきました。

男の弟子たちは、イエス様が十字架にかかる時、みんな逃げてしまいましたが、女の弟子たちは、最後までイエス様に従って行きました。

そして、最初に、復活の知らせを聞き、人々に、知らせに行ったんです。

彼女たちを通して、イエス様の復活の知らせは、広められていったんです。

もし、イエス様が、「女の人は教えたりしちゃダメ」って思っていたとしたら、女性たちに、最初に、復活の知らせが届けられることはなかったと思います。

イエス様は、女性とか男性とか関係なく、どんな性別の人であっても、福音を伝えるために、用いられるお方です。

女性が、男性に、教えたっていい。

女性が、牧師になったっていい。

「女性は、男性に従う者」という考えは、イエス様の考えではない。

今日は、ぜひ、そのことを、覚えておいてほしいと思います。

お祈りします。

昨年の五月から、ルカによる福音書を続けて読んでいますが、

今日の箇所は、とても短く、内容的にも、取り立てて話すこともない箇所だと思っていました。

それで、飛ばして、次の箇所に進もうかと思いました。

しかし、読んでいるうちに、飛ばしてはならないという、強いメッセージを、感じるようになりました。

それは、イエス様に従う女性たちによってです。

今日の箇所には、イエス様と弟子たち一行の中に、多くの女性たちがいたことが記されています。

新共同訳では、「婦人たち」と訳されていますが、最近作られた共同訳聖書では「女たち」と言い換えられています。

それは、「婦人」という言葉の中に、誤解を与えるニュアンスが含まれているからです。

「婦人」というと、既婚の女性をイメージする方が多いと思いますが、イエス様に従った女性たちが、皆、既婚女性だったという証拠はありません。

また、「婦人」の「婦」という漢字は、女偏に「ほうき」と書きます。

「ほうきを持つ女性」「掃除をする女性」を表すという説もあるそうです。

最近では、その説は間違いだと言われているようですが、

いずれにせよ、この「婦人」という言葉に、「掃除は女性がするものだ」という誤った理解が含まれているという、そういう問題意識の中で、使うのが避けられるようになっているそうです。

日本バプテスト女性連合も、元々は「婦人連合」でしたが、「女性連合」に改められました。

私たちの教会でも、「婦人会」ではなく、「女性会」としています。

このことも、今日のテーマと、無関係ではありません。

話を戻しますが、そのように、イエス様に従うのは、決して男性だけではなかった。

むしろ、多くの女性たちがいたということです。

たった三人ですが、名前が紹介されている人々もいます。

このような記述は、大変珍しいものです。

女性の弟子もいた。

しかも、一人や二人ではなく、多くいたということがわかります。

しかし、それにも関わらず、語られるのはいつも、十二弟子を中心とした男性の弟子たちばかりなのは、なぜでしょうか。

それは、聖書が、男性優位な価値観の中で記されてきたものだからです。

聖書を書いた人々も、皆、男性だったと言われています。

何より、聖書の背景には、家父長制の社会がありました。

家父長制というのは、父親が、家の長として、家を支配する制度です。

そのような社会秩序の中で、女性は男性に従う者。

女性が男性の言うことを聞くのは当たり前だと、考えられていました。

そのような考え方は、旧約聖書にも、新約聖書にも、当たり前のように、語られています。

今、祈祷会では、旧約聖書のサムエル記を読んでいますが、

先日読んだ箇所では、女性が、政治的な取引に使われたり、

子孫を残すための道具のように、使われたりしている場面が、ありました。

まるで、女性が、男性の所有物であるかのような、そんな扱われ方です。

そんな社会の中に生きる男性によって書かれた書物。

それが、聖書なんだということを忘れてはいけません。

私たちは、この聖書にこそ、神の言葉があり、真理があると信じています。

でも一方で、この聖書には、乗り越え難い限界もあります。

時代や場所、文化的背景に、強い影響を受けている。

そのことを無視して、神の言葉を受け取っていくことはできません。

今、私たちが読んでいる箇所もそうです。

今日の箇所に登場する女性たちも、どこか、従属的に語られています。

彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していたと言われています。

「一行」というのは、イエス様と十二弟子のことを指すのでしょう。

イエス様、その周りに十二弟子、その一行の働きを、持ち物を出し合って支える。

宣教の主体である男性たちのお世話役。

そんなふうに、女性たちのことが、語られています。

女性に対する、このような理解を、教会は、今日に至るまで、受け継いでしまっております。

私たちの教派の歩みについては、「ひらかれる教会~女性の牧師の招聘にむけて~」というこの冊子が、日本バプテスト連盟から出されておりますので、ぜひ、読んでいただきたいと思います。

この冊子の中には、女性であるということによって、牧師として立ちたくても認められず、道を閉ざされ、他のタイトルで働くことを指導されたり、結婚を勧められたりしてきた事実があることが、語られています。

牧師以外のタイトル、たとえば、音楽担当牧師とか、教育担当牧師とか、主事とかですね、

そのようなタイトルで働くことが悪いということではありません。

男性の牧師と結婚し、連れ合いとなって、共に教会を支えるという献身の形も、認められるべきです。

問題なのは、女性だということで、牧師として立ちたくても、認められないということです。

「女性は、牧師になれない」とか、「牧師にふさわしくない」とか、そういう考え、

そして、その考えが、聖書を根拠に、絶対的な真理として語られることが、問題なのです。

そのような聖書の読み方は、日本バプテスト連盟の母体である、アメリカ南部バプテスト連盟から影響を受けたものです。

2000年に出された、南部バプテスト連盟の信仰宣言には、次のように記されています。

「教会で奉仕する賜物は男性にも女性にも与えられているが、牧師職については、聖書に規定されているように、男性に限られている。」

この言葉に対して、日本バプテスト連盟、とりわけ、その中で働いておられる女性の働き人たちから、抗議の声が上げられました。

南部バプテスト連盟から派遣されていた宣教師たちの中には、この信仰宣言に反対したことで、解雇された宣教師たちもいました。

日本バプテスト連盟に連なる諸教会は、このことに問われ、今も、問われ続けています。

2002年には、「女性牧師に関する声明」が、連盟総会で、採択されました。

2017年、連盟結成70年の総会では、「連盟70年の歩みから性差別の歴史を悔い改める」声明が、採択されました。

そして、言葉だけでなく、具体的な行動として、連盟理事選挙の改革が行われました。

私たちの教会は、どうでしょうか。

私たち一人ひとりは、このことに、どう向き合っているでしょうか。

そのような問いの中に立たされている私たちにとって、今日の箇所は、簡単に通り過ぎてはならない。

イエス様と共に働いた女性たちの数少ない記録として、私たちの中に、記憶し続けなければならない箇所だと思わされます。

もう一つ、今日の箇所に登場する女性たちについて、忘れてならないことがあります。

それは、子どもメッセージで言いました通り、彼女たちが、この後、イエス様の十字架と復活の証人となっていったということです。

十字架の場面においては、イエス様を見捨てて逃げ去った弟子たちとは違い、彼女たちは、留まりました。

そして、イエス様の死と埋葬までを見、復活の日の早朝、墓へやってきました。

聖書は、そんな彼女たちに、最初に、復活の知らせが届けられ、

彼女たちが、最初の復活の証人として、用いられていったことが、記されています。

ルカによる福音書24章10節には、マグダラのマリアと、ヨハナの名前が、残っています。

他の福音書も、名前などは微妙に違ったりしますが、しかし、どの福音書も、イエス様に従った女性たちが、復活の証人になっていったと、語っています。

ここに、イエス様の御心が示されています。

イエス様は、性別によらず、一人ひとりを尊重し、招き、用いられるお方です。

宣教の主体は男性で、女性はそれを補助する者という考えは、イエス様の御心ではありません。

実際、イエス様の復活の証人として、最初にその知らせを受けたのは、女性たちでした。

彼女たちを通して、復活の知らせは、広められていったんだということを、覚えましょう。

そして、「女性だから」とか「男性だから」ではなく、一人の人間として、私たちも、互いに尊重しあっていきましょう。

お祈りします。

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