聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、創世記33章1節〜17節。
33:1 ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、
33:2 側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。
33:3 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。
33:4 エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。
33:5 やがて、エサウは顔を上げ、女たちや子供たちを見回して尋ねた。「一緒にいるこの人々は誰なのか。」「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです。」ヤコブが答えると、
33:6 側女たちが子供たちと共に進み出てひれ伏し、
33:7 次に、レアが子供たちと共に進み出てひれ伏し、最後に、ヨセフとラケルが進み出てひれ伏した。
33:8 エサウは尋ねた。「今、わたしが出会ったあの多くの家畜は何のつもりか。」ヤコブが、「御主人様の好意を得るためです」と答えると、
33:9 エサウは言った。「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい。」
33:10 ヤコブは言った。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。
33:11 どうか、持参しました贈り物をお納めください。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
33:12 それからエサウは言った。「さあ、一緒に出かけよう。わたしが先導するから。」
33:13 「御主人様。ご存じのように、子供たちはか弱く、わたしも羊や牛の子に乳を飲ませる世話をしなければなりません。群れは、一日でも無理に追い立てるとみな死んでしまいます。
33:14 どうか御主人様、僕におかまいなく先にお進みください。わたしは、ここにいる家畜や子供たちの歩みに合わせてゆっくり進み、セイルの御主人様のもとへ参りましょう。」ヤコブがこう答えたので、
33:15 エサウは言った。「では、わたしが連れている者を何人か、お前のところに残しておくことにしよう。」「いいえ。それには及びません。御好意だけで十分です」と答えたので、
33:16 エサウは、その日セイルへの道を帰って行った。
33:17 ヤコブはスコトへ行き、自分の家を建て、家畜の小屋を作った。そこで、その場所の名はスコト(小屋)と呼ばれている。
「ふたりの距離」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日も最初に子どもたちに向けて、メッセージをしたいと思います。
これまで、私たちは、エサウとヤコブという兄弟の話を、続けて読んできました。
8月に入ってからですので、今日で6回目になるんですが、今回で、いよいよ最後になります。
最後のお話はどんな話かというと、離れ離れになっていたエサウとヤコブが、再会するというお話です。
なぜ、離れ離れになっていたのか。
それは、弟のヤコブが、お兄さんであるエサウに与えられるはずだった祝福を奪ってしまったからでした。
先日、私も、楽しみにとっておいたハーゲンダッツを、息子に奪われました。
すごくショックでした。エサウの気持ちがちょっと分かったような気がしましたけれども、
でも、ハーゲンダッツはですね、食べようと思えば、また食べられます。
高級ですけれども、スーパーに行けば売っていますので、買って食べることはできるわけです。
でも、エサウが奪われた祝福は、一つしかありませんでした。
エサウさんは、そのたった一つしかない祝福を、ヤコブに奪われたわけです。
それはそれは、カンカンに怒りました。
もう絶対に許さない。ヤコブのことなんて殺してやるって、それくらい怒りました。
それでヤコブは、エサウから逃れるために、家を出て行ったわけです。
それから20年が過ぎました。
20年間、二人は、喧嘩したまま、離れ離れに暮らしてきたわけですが、いよいよ再会します。
その様子が、さっき読んでもらった箇所に書いてあるんですが、どんなふうに書いてあるか。
4節「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」って書いています。
エサウは、もう怒っていませんでした。
むしろ、ヤコブが帰ってくるのを待っていた。
二人は、泣くほど喜んで、抱きしめ合いました。
とても感動する場面です。
でも、このお話、ここで終わりじゃないんです。
感動の再会の後、二人はどうなったか。
エサウさんはヤコブさんに、「さあ、一緒に帰ろう」って言いました。
感動的な再会をして、さあこれからは、一緒に暮らそうって言ったわけです。
この流れからしたら、当然、一緒に暮らすことになるんだろうって思うのですが、
ヤコブさんは、その誘いを断って、別の場所に行ってしまいます。
これは、聖書に載っている地図ですが、エサウさんが住んでいたのは、セイルという場所。
この地図では、エドムって書いてありますが、この辺りに住んでいました。
でも、ヤコブさんが向かったのは、スコトっていう場所。
スコトは、ここにあります。
再会したのが、この間ですので、ヤコブさんは、エサウさんと逆方向に歩いて行ったということになります。
そして、結局二人は、離れ離れに暮らすことになります。
あれ、仲直りしたんじゃなかったの?感動的な再会はなんだったの?って思っちゃうんですが、でも、きっと、これで良かったんだと思います。
一緒に暮らすだけがゴールじゃない。
二人が仲良く生きていくためには、きっとこれくらいの距離が、必要だったんだと思います。
そのために神様は、それぞれに、居場所を与えられたんだと思うんです。
人と人が仲良く生きていくためには、距離が必要なんだって、そう教えられているように思います。
いつも一緒だからって、仲良くできるとは限りません。
距離が近過ぎて疲れちゃったり、喧嘩になってしまうこともあります。
離れているからこそ、仲良くいられるっていうこともあるんです。
そうやって、ちょうど良い距離を見つけていくことが、大事なんだって、今日、教えられているように思います。
学校や教会、家族の間でもそうです。
無理に一緒にいなきゃって思わなくて良い。
それぞれのペースで、心地よい距離感で、過ごしていけることが大事なんだ。
今日は、そのことを、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・感謝
今日は、あんまり時間がありませんので、メッセージと関係ないことを言ったらいけないんですが、一つ感謝をしたいと思います。
先日の祈祷会の分かち合いの時間に、2・3日前くらいから、右の脇腹から背中にかけて筋肉痛みたいな痛みがあるという話をしました。
「運動もしてないのに変だなと思ってたんですが、見てみると、ぽつっと蚊に刺されたような発疹ができていて、そしたら連れ合いに、帯状疱疹かもって言われたんですよ」って、言ったらですね、参加者の人たちから、「早く病院に行け」って言われまして、行ってみたら、即、「帯状疱疹です」って言われて、薬を出されました。
痛痒いくらいで、全然平気だったんですが、時間が経つにつれて、少しずつ辛くなってきまして、早く病院に行ってなかったら、もっと酷いことになっていたんだろうと思うと、病院に行っておいて、本当に良かったと思います。
祈祷会に参加してくださった皆さん、本当にありがとうございました。
おかげさまで今日も、こうして、メッセージをすることができます。本当にありがとうございます。
・なぜ別の道を選んだのか?
ということで、本題に入っていきたいと思いますが、
先ほども言いました通り、今日の箇所には、弟ヤコブが兄エサウと再会する様子が記されています。
子どもメッセージでは、感動の再会の後、別の道に進んでいったヤコブに注目しました。
なんでヤコブは、エサウと一緒に行かなかったんだろう。
なんで一緒に暮らさなかったんだろう。
大人のメッセージも、この問いからスタートしたいと思います。
なぜヤコブは、エサウと一緒に行かなかったのか。
・感動的な再会
話の流れからすると、一緒に行くのが自然だと思います。
20年ぶりの再会。
怖くてしょうがなかったエサウが、走り寄って抱きしめ、口づけをして迎えてくれた。
怒っていると思っていたエサウが、喜んで迎えてくれた。
ヤコブも嬉しくなかったはずがありません。
むしろヤコブからしたら、とんでもないサプライズだったと思います。
だってヤコブは、エサウが400人のお供を連れてやってくるというのを聞いて、そして実際に見て、とんでもない恐怖の中にいたんです。
家族もろとも、殺されてしまうんじゃないか。
そう思ったからこそ、彼は、家族を、3隊に分けたわけです。
「側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。」
緊急事態にこそ、人の本性があらわになるものだと思いますが、それにしてもヤコブは、酷い人だなと思います。
側女とその子供を前に、レアとその子供をその後に、最後に、一番愛するラケルとその息子ヨセフを置いた。
この偏愛が、来週から読んでいくヨセフ物語に繋がっていくんですが、
しかし、一つだけ評価できるのは、ヤコブが先頭に立ったということです。
恐怖に押しつぶされそうになりながらも、捨て身の覚悟で、先頭に立っていったんだと思います。
そんなヤコブに対して、エサウは、走り寄って抱きしめ、口づけしました。
そして、共に泣いたと、書いています。
20年間、お互いに積もっていた想いが、重なり合うわけです。
なんて感動的な場面だろうと思います。
・解けない緊張感
でも、この後のやりとりを見てみると、なんだか様子がおかしいんです。
「弟よ」と呼びかけるエサウに対して、ヤコブは「御主人様」と呼んでいます。
エサウは、兄弟として接するんですが、ヤコブは、奴隷のように、エサウの前にへりくだっています。
贈り物を渡すのは良いのですが、そこにも何か、必死な感じがあります。
エサウは、20年という隔たりを感じさせないほど、心を開いてヤコブに話しかけていますが、ヤコブには、まだまだ緊張感があるように感じます。
そして、極め付けが、別の道に進むということでした。
「一緒に行こう」というエサウの招きに、ヤコブは、「先に行ってください」と応えます。
子供達や家畜のテンポに合わせてゆっくりいくからと言っていますが、本当にそうでしょうか。
エサウが、供の者たちを何人か残していこうと言いますが、それもヤコブは断って、結局、ヤコブは、エサウと反対方向に進んで行きました。
・消えない恐怖、それでも良い
なぜヤコブは、エサウの誘いを断り、反対方向に進んでいったのか。
そこにはやはり、拭いきれない恐怖があったんだと思います。
どんなに喜んで迎えてくれたとしても、腹の底ではどう思っているかわからない。
今は良かったとしても、ずっと良いとも限らない。
何かの拍子に、あの時の怒りが戻ってくるということもあるかもしれない。
エサウと違って、ヤコブは、20年という隔たりを、一気に詰めることはできなかったのです。
ゆっくりいきたかったのは、子供達でも家畜でもなく、ヤコブ自身だったのだと思います。
このことを思う時に、改めて、関係の修復っていうのは、そう簡単なことじゃないんだと思わされます。
一度壊れた関係は、なかなか元には戻らない。
エサウからしたら、許してやってるのに、なんで?って気持ちがあったかもしれませんが、ヤコブにとっては、そう簡単にはいかないわけです。
20年間の溝、殺してやると言われた経験は、そう簡単には乗り越えられなかったのです。
だから、反対方向に進んでいったわけですけれども、
でも、神様は、そんなヤコブの選びとりを、悪いものだとは言われませんでした。
離れ離れになった二人を、無理にくっつけようともしていません。
むしろ神様は、この後ヤコブをベテルへと導きます。
故郷を追われた直後、ヤコブが石を枕にして寝て、神が共にいるということを夢で見た、あのベテルへと、ヤコブを導くわけです。
あの場面で、神様は、なぜ、故郷に連れ帰るとは言わず、ベテルに連れ帰るとおっしゃったのか、私は、すごく謎だったんですが、それは、まさに、この時のためだったんだと思います。
エサウとヤコブが、ちょうど良い距離感の中で、良い関係を保っていくために、神様は、ベテルという居場所を用意されていたのだと、そう思うのです。
・それぞれの距離感
一緒に暮らすだけがゴールではない。
二人には二人の距離感があったんだということを、教えられます。
そもそも、二人は、生まれた時から、見た目もタイプも全然違いました。
エサウは巧みな狩人で野の人でしたし、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常としました。
好きなことも、得意なことも、生き方そのものが全然違う。
そんな二人が、一緒に暮らす方が、不自然だったのかもしれません。
無理をして、一緒に暮らしていた方が、関係はこじれていたかもしれない。
この後、二人が一緒に暮らすということはありませんでした。
でも、それで良かったんだと思います。
35章の最後に、父イサクが亡くなる場面があるんですが、そこに、「息子のエサウとヤコブが彼を葬った」って書いてあります。
かつてエサウは、「父が亡くなった時には、必ずヤコブを殺してやる」とそう言っていました。
ヤコブは、それを聞いて、家を飛び出したわけですけれども、その二人が、揃って父イサクを葬ることができた。
これが何よりのハッピーエンドであると思います。
だから、それぞれが、それぞれに暮らすで良かったのです。
そのために神様は、それぞれに、それぞれの居場所を与えられたのです。
これは、私たちにも言えることでしょう。
理想に当てはめて無理に近づこうとしなくても良いということです。
家族であっても関係性はそれぞれです。
「こうあるべき」とか「こうでないといけない」なんて思って、無理をするよりも、それぞれの関係に合った、それぞれの距離を見つけていくことが大事なんだと思います。
これは、家族関係だけでなく、学校とか、会社とか、教会でも、言えることだと思います。
教会もよく神の家族なんていうふうに言われて、兄弟姉妹という呼び方をしますけれども、こういう言い方は、ある人にとっては、重荷になったり、プレッシャーになっているかもしれません。
そうやって理想を押し付けるのではなく、それぞれがそれぞれのペースで、それぞれの距離をもって交われる。
そんな交わりこそ、理想的な交わりなのだと思います。
エサウとヤコブに必要な距離があったように、私たちにも、必要な距離がある。
関係性によってその距離感は変わってきますが、
それぞれの関係に合った、それぞれの距離を見つけていくことが大事なんだということを、今日は覚えておきたいと思います。
お祈りします。







