2026年2月8日主日礼拝「荒れ野を行く時も」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、出エジプト記10章1節〜9節です。

16:1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。

16:2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。

16:3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」

16:4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。

16:5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」

16:6 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、

16:7 朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」

16:8 モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」

16:9 モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、

16:10 アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。

16:11 主はモーセに仰せになった。

16:12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」

16:13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。

16:14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。

16:15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。

「荒れ野を行く時も」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日は、下関教会の皆さんと一緒に礼拝を献げることができますことを感謝いたします。

今日も最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、

今日の聖書の箇所には、イスラエルの人たちが、オアシスから、荒れ野に向けて出発する様子が記されています。

これは、その様子を絵にしたものですけれども、

この絵を見た時に、「この人たちは、どんな気持ちで、荒れ野に向けて出発したんだろう」って思わされました。

この絵にあるように、オアシスには泉があります。

ヤシの木もありますし、ヤシの実もなっています。

ここにいれば、食べるものもあったし、飲むものもあった。

反対に荒れ野っていうのは、右側のような場所です。

泉もなければ、ヤシの木もありません。

あるのは、ゴツゴツとした岩ばかり。

そんな場所に向かって出発するって、嬉しいはずがないですよね。

きっと、人々は、行きたくない、オアシスにいたいって、思っていたと思います。

みんなにも、朝起きた時。

寒くて、眠くて、布団からなかなか出られないことが、あると思います。

もうちょっと寝ていたい。布団の中にいたいって思うことが、あると思います。

でも、起きなきゃいけないんですよね。

布団の中は、あたたかくて気持ちいけど、そこにずっといるわけにはいきません。

学校に行ったり、やらなきゃいけないことがあるわけです。

イスラエルの人たちも、そうでした。

目的地に行くためには、荒れ野を越えていかなければいけませんでした。

「オアシスにいたいけど、ずっとここにいるわけにはいかない。前に進まなきゃ」って、そんな気持ちで、荒れ野に向かっていったんだと思います。

でも、予想通り、荒れ野は、とても大変な場所でした。

昼は暑いし、夜は寒い。

しばらくすると、食べるものもなくなってしまいました。

すると人々は、不安になって、文句を言い始めます。

「どうして、こんなところに連れてきたんだ。

こんなことなら、来なきゃよかった。」

でも、そんな人々の声を、神さまは、無視しませんでした。

神さまは、人々の声を聞いて、マナという食べ物を与えられました。

どんな食べ物か、詳しくはわかりませんが、蜂蜜を塗った薄いお煎餅のようなものだったって、言われています。

人々は、それを毎日与えられて、旅を続けることができました。

荒れ野はとても大変で、危険な場所でしたが、そこにはいつも神様がいました。

荒れ野で、人々は、神様と出会っていったんです。

みんなも、生きていると、辛い時や、不安な時があると思います。

学校に行くのが辛いなって思うこともあるかもしれない。

新しい場所に行くのが、不安だなって思うこともあるかもしれない。

でも、そこに神様がいる。

聖書は、そう教えています。

もちろん、立ち止まる時も必要です。

イスラエルの人たちも、1ヶ月くらい、オアシスにいたそうですから、休憩することも大事です。

でも、同時に、荒れ野に神様がいる。

不安だな、ドキドキするなって、そう思った時、その道の先に神様がいる。

聖書にはそう書いていたなって、ぜひ、思い出してほしいと思います。

そして、信じて、一歩踏み出していってほしいと思います。

荒れ野にこそ、神様はいる。

今日はそのことを心に覚えましょう。

お祈りします。

・序

大分教会の礼拝では、今、出エジプト記を続けて読んでいます。

前回は、イスラエルの民がエジプトから解放された場面を読みました。

長い長い奴隷の時代が終わって、ついに自由の身となったイスラエルの民でしたが、それで終わりではありませんでした。

神様は、民を、約束の地カナンへと導かれます。

前回は、その始まりの様子を読みましたが、今日の箇所は、それからおよそ一か月後の場面です。

1節には、次のように記されています。

「イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。」

ごく簡単に書かれていますが、とても内容の深い1文であると思います。

先ほども言いました通り、エリムは、荒れ野の中のオアシスでした。

泉があり、ナツメヤシが茂り、水も食べ物もある場所でした。

直前の箇所で、水がない、飲むものがないという経験をした民にとって、その場所は、やっと辿り着いた救いの場所でした。

でも、その場所を、旅立っていかなければならない。

しかも、再び何もない荒れ野に向かって、旅立っていかなければならないというのが、今日の箇所です。

その中で、民は、不平不満を口にします。

「なぜ、我々を連れ出したのか。どうして、こんな場所に導いたのか。」

このような問いは、私たちの歩みの中にも、あるんじゃないでしょうか。

「なんでこんなことが起こるのか。

どうして、こんなことになるのか。」

つぶやかずにはいられないことが、私たちにもあると思います。

イスラエルの民同様、私たちも、荒れ野のような道を通らされることがあります。

そんな私たちの歩みを、イスラエルの民の歩みと重ねながら、今日は、聖書のメッセージを聞いていきたいと思います。

・エリムを旅立つ

まず、心を向けたいのは、やはり、エリムを出発した民の想いです。

民は、どんな想いで、エリムを出発していったのでしょうか。

それは決して、心躍る出発でも、希望に満ちた出発でもなかったと思います。

なぜなら、エリムは荒れ野の中にあって、数少ない「安心できる場所」だったからです。

聖書によりますと、エリムには12の泉があり、70本のナツメヤシが茂っていたと記されています。

12とか7とかいう数字は、聖書の中で、非常に良い意味で用いられる数字でありまして、そこから考えますと、この場所は、相当良い場所だった、神様の祝福に満ちた場所だったと、そう言えるかもしれません。

水があり、食料があり、木陰もあり、しばらく腰を落ち着けて休むことができる場所でした。

最初に、今日の箇所は、エジプトの国を出発してからおよそ1ヶ月後の場面だと言いましたが、おそらく、このエリムでしばらく過ごしたのだろうと思われます。

それだけ、エリムは居心地の良い場所だったということです。

それに対して、今日、彼らが目指して旅立ったのは、シンの荒れ野でした。

水があるかどうかも分からない。食べ物が見つかる保証もない。

昼は暑く、夜は寒く、命の危険と隣り合わせの場所でした。

そこへ向かって旅立つことに、モチベーションなど湧くはずがありません。

民の中にはきっと「ここに残りたい」「もうここでいいんじゃないか」と言った人もいたと思います。

もし私たちなら、果たして、エリムを出発することができたでしょうか。

居心地の良さを捨てて、先の見えない新しい場所に、しかも荒れ野に旅立っていくことができたでしょうか。

これは、今から10年前のことですが、「世界一チャレンジしない日本の20代」というコラムが投稿されて、話題になったことがありました。

20代の日本人にアンケートしたところ「クリエーティブであるのは大切」「冒険や刺激のある生活は大切」と答える人の割合が、他の国に比べて、極端に低かったそうです。

その要因は何か。

コラムには、「若者の冒険志向の低さは、失敗に不寛容な日本社会の思想を反映している」と書かれていました。

つまり、失敗した時のリスクを考えて、挑戦しないことを選ぶ若者が、増えているということです。

同時にもう一つ書かれていたのが、日本の生活水準が高いということでした。

「チャレンジしなくてもそこそこの生活ができる」。

冒険して、大きなリスクを背負うよりも、多少不満はあっても、そこそこの生活に留まる道を選ぶ。

このそこそこの生活が、ある意味、現代日本のエリムということができるかもしれませんけれども、

それから10年経って、今はどうでしょうか。

今日は、衆議院選挙の投開票日ですが、先日テレビで、どんなことを政治に期待しますかという質問に対して、ほとんど全ての人が「安定した生活」と応えていました。

10年前の状況は、良くなるどころか、悪化し続けていると言って良いと思います。

そんな私たちにとって、エリムを出発するということが、いかに難しいことか。

多少不満はあっても、そこそこの生活に留まれるなら、それでいい。

リスクを取るよりも、そこに留まっていたい。

そう思われる方が多いと思います。

これは、イスラエルの民も、一緒だったでしょう。

民の中にはきっと「エリムに残りたい」と言った人もいたでしょう。

しかし、民は、旅立っていくのです。

そうしなければ、目的地であるカナンにたどり着くことはできません。

約束の地は、荒れ野の先にあったのです。

エリムのオアシスに後ろ髪を引かれながら、民は出発していきます。

・荒れ野の危機

しかし、予想通り、荒れ野の旅は、大変厳しいものでした。

昼は容赦なく照りつける太陽の下を歩き、夜は冷え込み、体力を奪っていきます。

やがて食料も尽き、明日の見通しが立たなくなっていきました。

そのとき、人々の心に湧き上がったのは、不安と恐れでした。

そしてその不安は、やがて不平となって口からあふれ出します。

「エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。」

それだけ、荒れ野の旅路は過酷だったのです。

自由を得た喜びも、救いの感動も、命の危機を前にして、かき消されてしまいます。

これもまた、皆さん、経験があると思います。

順風満帆、物事が順調に進んでいる時は、感謝や希望を語ることができても、ひとたび風向きが変われば、不安や恐れが心を支配し始める。

感謝や希望を歌っていた口は、不平不満の口になる。

「なんでこんなことになるのか。どうしてこんな目に遭わなければならないのか。」

荒れ野に立たされたイスラエルの民の姿は、危機に直面する私たちの姿です。

・荒れ野の出会い

でも、聖書は、そこに、神との出会いが与えられていくのだと語るのです。

神様は、人々の不平の言葉を聞かれました。

今日の箇所には、4回も、「不平を聞かれた」という言葉が記されています。

神様は、私たちの不平の言葉、

それは、命の叫びであるわけですが、その叫びを聞いてくださるお方であり、さらに、その叫びに、応えてくださるお方でもあります。

そのしるしが、マナでした。

マナは荒れ野を旅する間、毎日、尽きることなく与えられました。

このマナによって、民は、荒れ野の旅路を乗り越えていくことができました。

このような経験を通して民は、神と出会い、神を知り、神と共に生きる者として整えられていったのです。

これは、荒れ野を通らなければ、経験できなかったことでした。

荒れ野は、私たちにとって、過酷な場所ですが、同時に、神との出会いの場でもあるのです。

今日の箇所の直後に、荒れ野で、安息日を守る民の姿が記されています。

荒れ野において、安息日を守るというのは、命がけの行為でした。

何があるかわからない。何の保証もない。

そんな場所で、民は、どんな想いで、安息日を守っていったのでしょうか。

きっと、心がザワザワして、落ち着かなかったことでしょう。

1日も早く荒れ野を抜けたい。エリムのようなオアシスを見つけたいと思っていたはずです。

中には、食料を探しにいった人々もいました。

でも、神様は民に、安息することを求めました。

それは、オアシスによって安心を得るのではなく、主が共にいるということに安心、平安があると知らせたかったからだと思います。

荒れ野は、確かに、過酷な場所でしたが、そこで民は、神様と出会い、神様を知り、神様との関係を結んでいきました。

ここに、神様の目的があったのだろうと思います。

民を約束の地に導くだけが、神様の目的ではなかったのです。

その過程で、神様と出会い、神様を知り、関係を結んでいく。

この過程そのものが、重要だったんだのだと思うわけです。

・結

私たちも、時に、人生の荒れ野を通らされることがあります。

荒れ野は、私たちにとって過酷な場所です。

できることなら避けたい場所です。

でも、避け難く、荒れ野を通らされることがあります。

経済的な困窮、病気、災害、親しい人との別れ…。

不安や悲しみの中で、私たちは立ち止まり、前に進めなくなることがあります。

もちろん、立ち止まる時も必要です。

イスラエルの民がエリムで1ヶ月休んだように、立ち止まることもまた恵みです。

でも聖書は、その先にある荒れ野にも、神はおられると語るのです。

むしろ、荒れ野にこそ神との出会いがある。

荒れ野を通らなければ気づけないこと、出会えないことがあるのだと、語っているのです。

その出会いは、きっと、私たちの人生の宝となることでしょう。

神様を信じて、荒れ野を通らされる時も希望を捨てずに、歩んでいきましょう。

神は、荒れ野におられる。

そのことを心に留めて、新しい一週間の歩みを、歩み出していきましょう。

お祈りします。

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