2026年2月22日主日礼拝「十戒ー恵みに生きるための指針ー」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、出エジプト記20章1節〜3節です。

20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。

20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

「十戒ー恵みに生きるための指針ー」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も子どもメッセージからしたいと思いますが、

皆さんは、十戒って聞いたことがあるでしょうか。

十戒っていうのは、こうやって書きます。

十戒の十は、数字の十です。

十戒の戒は、戒めという言葉です。

ま、ルールのことだと思っていいと思います。

つまり、十戒っていうのは、10個のルールのことです。

この10個のルールを、神様が与えたというのが、今日のお話なんですが、具体的には、どんなルールがあるか。

わかりやすいところでいうと、盗んではならない。

それから、嘘を言ってはならない。

殺してはならないって言うことも書かれています。

10個のルールのうち、8個が「~してはならない」っていう、禁止のルールになっています。

これをしてはならない、あれをしてはならないって、

そういう言葉を聞いていると、なんだか堅苦しいなとか、厳しいなって、思う人もいるかもしれません。

何で神様は、そんな堅苦しい決まり、ルールをお与えになったんでしょうか。

それは、神様がイジワルだからでは、ありません。

私たちが、間違いやすい生き物だからです。

特に、苦しい時や不安な時、私たちは、間違ってしまいやすいものです。

食べるものがなくて、お腹が空いてしょうがない。

そんな時に、つい人のものを盗んでしまったり、

間違って友達のおもちゃを壊してしまって、とっさに、嘘をついてしまったり、

そんなふうに、私たちは、追い詰められると、何をするかわからない。

そんな弱さを抱えています。

十戒を与えられた人たちもそうでした。

神様が、十戒を与えられたのは、荒れ野を旅していた時でした。

荒れ野の旅路は、とても大変でした。

食べるものがない、水もない、いつ敵に襲われるかわからない。

そんな中で、人々の心は、不安でいっぱいでした。

するとどうなるかというと、普段優しい人たちも怒りっぽくなったり、余裕がなくなって、自分のことしか考えなくなったりしていきました。

もしこれで、ルールがなかったら、どうなるでしょう。

人の食糧を、奪ってしまう人も、出てくるかもしれない。

弱いものいじめする人も、出てくるかもしれない。

きっと、荒れ野を旅していた人たちは、バラバラになってしまったと思います。

そうならないために、神様は、十戒をくださったんです。

十戒は、私たちを縛るためにあるんじゃありません。

間違いやすい私たちを、守るためにあるんです。

私たちが、道を外れないように。

不安な時も、自分だけじゃなく、他の人のことも大切にできるように。

一人一人が大切な存在として、生きられるように。

そのために神様は、十戒を与えてくださったんです。

そのことを今日は、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・序

今日は、十戒について考えます。

十戒とは、モーセがシナイ山で、神様から授かった十の戒めです。

戒めと聞くと、堅苦しさや、厳しさを感じられる方が多いかもしれません。

確かに「~しろ」とか「~するな」という言葉だけ聞くとそう感じるでしょう。

しかし、そこには、大事な前提が欠けています。

この前提があるかないかで、十戒の受け取り方は、大きく変わってきます。

その前提というのは、十戒の序文であります20章の2節に記されています。

今日は、この言葉に注目しながら、十戒について考えてみたいと思います。

・十戒は救いの条件じゃない

20章2節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

神様は、戒めを語る前に、まず、「わたしは主、あなたの神」であると言われました。

これは、民に対する、神様の、深い関わりをあらわす言葉です。

神様は、戒めよりも先に、「私があなたの神である」という関係、深い関わりを、宣言されたのです。

戒めを守ったら、あなたの神になってあげるよ、というのではありません。

戒めよりも先に、関わりがある。

つながりがある。

私はあなたの神である。

この宣言から、戒めは始まっていきます。

後半では、その神様が、一体どんなお方かということが語られています。

あなたの神であるこの私は、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言われています。

イスラエルの民は、長い間エジプトで、奴隷として、虐げられていました。

断ることもできず、過酷な重労働を課せられていました。

神様は、そんな民の苦しむ姿を見、叫びを聞き、痛みを知られました。

そして、民を救い出されたのです。

民が何か良いことをしたから、救い出されたわけではありません。

民は、ただただ、神の憐れみによって、恵みによって、救い出されていったのです。

これが十戒の前提として語られていることです。

何が言いたいのかというと、つまり、十戒は救いの条件ではないということです。

私たちはしばしば、十戒を、救いの条件だと思ってしまうことがあります。

十戒を守れば救われる。

神様の言うことを守ったら、そのご褒美として、救ってもらえるんだと、そう思ってしまうことがあります。

こういう考えを、律法主義と言います。

律法によって救われる。

律法を行うことで、救いに到達できるという考え方です。

しかし、もし私たちが、律法を行うことで救いに到達できるならば、キリストが十字架にかかる必要なかったということになります。

自分の力で、救いに到達できるならば、キリストも、十字架も、必要ありません。

そうできないからこそ、キリストはこの世に来られたし、十字架を背負われたのです。

パウロは、手紙の中で、「正しい者はいない。一人もいない」と教えています。

どんなに頑張っても、私たちは、自分の力で正しくなることはできません。

どこまでいっても、罪人であり続ける。

だから、キリストが必要だし、赦しが必要なのだということです。

私たちは行いによって救われるのではありません。

どこまでいっても罪人である私たちを救うことができるのは、神様だけです。

私たちは、神様の恵みによって救われるのです。

これは、イスラエルの民も同じです。

イスラエルの民も、自力で救いに到達したわけではありません。

ただただ神様の憐れみによって、エジプトから、救い出されたのです。

・恵みに生きるための指針

ですから、十戒は、救いの条件でもなければ、神の民になるための手段でもないということです。

では十戒は、何のために与えられたのでしょうか。

それは民が、救い主である神の民として生き続けるためでした。

確かに民は、ファラオの支配から解放され自由になりました。

しかし、それで全てが解決したわけではありませんでした。

民を待ち受けていたのは、荒れ野の旅路でした。

そこで民は、様々な困難に襲われます。

食糧がない、水がない、いつ敵に襲われるかわからない…。

そんな中で民は不安になり、混乱し、どうして良いかわからなくなります。

不安を埋めるために、金の子牛の像をつくって拝んだこともありました。

荒れ野の旅路が辛すぎて、エジプトに帰ろうとする人もいました。

せっかくエジプトから救われたのに、せっかく神の民とされたのに、自らその恵みを手放そうとしてしまう。

あれだけ苦しめられてきたのに、再び、神なき者にひれ伏そうとしてしまう。

そんなふうに、人間は、不安になったり、余裕がなくなったりすると、とんでもないことをしでかしてしまう者なのです。

だからこそ神様は、十戒をお与えになったのです。

荒れ野の旅路でも、迷うことなく、救い主なる神に従って生きられるように、神は、十戒という指針を与えられたのです。

十戒は、民を縛るための鎖ではなく、荒れ野で迷わないための道標、

救い主である神を神として生きるための恵みの指針だったのです。

・十戒を受け取り直す

私たちもまた、先の見えない道を歩んでいます。

経済的な不安。行き詰まり。

5年後、10年後、どうなっているのか。先はなかなか見えません。

そんな不安の中で、心に余裕がなくなると、人は、自分のことしか考えられなくなっていきます。

自分が大事、自分が第一。

他の人のことは二の次、三の次。まず自分。自分のことが大事。

そんな人々の心を掴んだのが、「日本人ファースト」という言葉だったのではないでしょうか。

「あなたが一番大事。」

「あなたのこと、この国のことを第一にする。」

その言葉に、多くの人が希望を感じました。

今も、そうかもしれません。

でも、その希望というのは、誰かを切り捨てることで成り立つ希望です。

それが、本当に、希望なのか。

余裕がないから、自分のことで精一杯だから、だから、他の人は切り捨てても良い。

そういう社会で、安心して生きることなどできるでしょうか。

いつ自分が切り捨てられるかわからない。そんな社会で、本当に良いのでしょうか。

私たちは、気づかないうちに、神なきものを神にしてしまっているということが、あるのではないでしょうか。

安心を与えてくれるもの。

力を約束してくれるもの。

自分を正当化してくれるもの。

それらを主人にしてしまう。

しかし、神なきものを神とするということは、恵みを手放すということです。

罪人であった私を、赦してくださった。

自らを投げうって、愛してくださった。

その愛を手放すということです。

十戒の第一戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と語られています。

これは、支配の言葉ではありません。

他の支配に屈するのではなく、恵みの中を生きなさいという招きです。

その呼びかけは、今、この時代にこそ、必要な招きなのではないでしょうか。

荒れ野のただ中で、不安のただ中で、迷走する時代のただ中で、私たちは、主を見失います。

そして、主を見失う時、私たちは、戒めを失い、どう生きたら良いかわからなくなります。

その結果が、自分ファーストです。

自分のためなら、人のものを盗んでも良い。

自分のためなら、嘘をついても良い。

自分の国のためなら、戦争をしたって良い。

そんな時代に生きる私たちに、神様は、言われます。

「わたしは主、あなたの神である。」

私たちには、罪人である私たちを愛し、赦し、そのために、ご自身を献げてくださったイエス様がいます。

このイエス様によって救われたこと、このイエス様こそ、我が主であることを、心に留めたいと思います。

このことに立ち返るとき、私たちは初めて、本当の自由を得ることができます。

他者を切り捨てる自由ではなく、他者と共に生きる自由へと導かれるのです。

そこに平和があり、平安があります。

余裕がなくなる時、自分のことで一杯一杯になる時、私の主は誰なのかを、思い出したいと思います。

「わたしは主、あなたの神である。」

この呼びかけを、イエス・キリストの呼びかけとして、受け取り直していきたいと思います。

私の主は、私のために、その身を献げてくださったイエス・キリストである。

この恵みを心に留める時、私たちは、自己中心という鎖から解放され、隣人と共に生きる歩みへと導かれます。

そこに、平和があり、平安がある。

そのことを改めて、心に刻みたいと思います。

お祈りします。

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