2026年1月4日新年礼拝「踏み出そう、神と共に」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、出エジプト記4章10節〜17節です。

4:10 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうで す。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

4:11 主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくする のか。主なるわたしではないか。

4:12 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

4:13 モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」

4:14 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼 が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。

4:15 彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。

4:16 彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

4:17 あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」

「踏み出そう、神と共に」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も最初に子どもメッセージをしたいと思いますが、2026年、新しい年が始まりました。

またここから新しい歩みが始まっていきますけれども、

皆さんは、今、どんな気持ちでしょうか。

新しい1年が楽しみだっていう人もいると思いますが、中には、ドキドキするとか、不安だという人もいるかしれません。

お正月にテレビを見ていたら、大勢の人が、神社やお寺に行って、お願い事をしていました。

病気になりませんようにとか、仕事がうまくいきますようにとか、それぞれ願い事をしていましたが、それも不安のあらわれかもしれません。

病気になったらどうしよう、仕事がうまくいかなかったらどうしよう、勉強はついていけるだろうか、友達とは仲良くできるだろうか。

先のことを考えると、色々と不安が湧いてきます。

今日の聖書のお話にも、まさにそんな不安の中で、立ち止まっている人が出てきます。

それがこのモーセさんです。

このモーセさん、後に、大勢の人を助ける、すごい人になっていくんですが、

今日の聖書のお話では、全然すごくありません。

神様から、「苦しんでいる人たちがいるから、助けに行きなさい」って言われても、全然行こうとしないんです。

「なんで私なんですか。」

「もっと良い人がいるんじゃないですか。」

そう言って、なかなか動こうとしなかったんです。

この時、モーセさんの心は、不安でいっぱいでした。

「苦しんでいる人を助けるなんて、そんなことできるだろうか。」

「失敗したらどうしよう。」

「そもそも神様から遣わされたって、そんなことを信じてくれる人、いるんだろうか。」

考えれば考えるほど、モーセの心は重くなって、動けなくなっていました。

そんなモーセさんに、神様はどうしたか。

まず、モーセさんが神様の使いだというしるしを二つ与えました。

一つは、地面に投げると蛇に変わる杖。

もう一つは、手を入れると、皮膚病になったり、治ったりする不思議な力を与えました。

それでもモーセさんは、「自分には無理だ。話すのが苦手だから」というと、

今度は、話すのが上手な、アロンさんという仲間を与えました。

そうやって神様は、しるしを与えたり、仲間を与えることで、あるメッセージを伝え続けました。

どんなメッセージかというと、それは、「私があなたと共にいる」というメッセージでした。

「私があなたと共にいる。」

神様はモーセに、「がんばりなさい」とか、「強くなりなさい」とは、言いませんでした。

「私がついてるから、大丈夫」そう言い続けたんです。

この言葉を聞いて、モーセは、新たな旅に出かけて行きました。

不安がなくなったわけじゃありません。

怖い気持ちもあったと思います。

それでもモーセは、「一人じゃない。神さまがついてる」って、そう信じて、一歩踏み出していったのです。

自信がなくても、不安でいっぱいでも、私たちは決して一人じゃない。神様がいるし、仲間がいる。

そう信じる気持ちが、前に進む力になります。

「私は決して一人じゃない。神様がいるし、仲間がいる。」

そのことを心に覚えながら、新しい1年の歩みを、始めて行きましょう。

お祈りします。

・序

新年明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いします。

2026年、新しい年が始まりましたが、皆さんはこの新しい年をどのような気持ちでお迎えになったでしょうか。

期待をもって迎えられた方もいれば、不安の中に迎えられた方もいらっしゃるかもしれません。

新しい年の始まりは、新しい旅の始まりでもあります。

ここからまた、私たちの新しい歩みが始まって行きます。

何が起こるか、どんな出会いが待っているか、わかりません。

きっと、思うようにならないこともあるでしょう。

振り返ってみますと、1年前、私は、風邪をひいて寝込んでおりました。

それで、昨年の新年礼拝には、参加することもできませんでした。

本当はメッセージをしなきゃいけなかったんですが、急遽、3人の方に証しをしていただいて、私は家で休んでおりました。

新年早々、本当に迷惑をかけてしまった1年だったなと思うのですが、

そんなふうに、私たちの歩みには、何が起こるかわからないのです。

今日は、そんな「わからなさ」の中に立たされている者として、

新しい歩みのスタートラインに立たされている者として、共にみ言葉に聞いていけたらと思っています。

・ためらうモーセ

今日の聖書の箇所には、新しい旅立ちを前にして、不安を抱え、ためらっている一人の人物が登場します。

その人物の名前は、モーセです。

モーセといえば、イスラエルの民をエジプトの支配から解放した、偉大な指導者として有名ですが、

今日の箇所に登場するモーセは、私たちが思い描くようなかっこいいモーセではありません。

むしろ、何度も神の招きを拒み、言い訳を重ね、逃げ道を探している、そんな実に人間的なモーセです。

神様は、エジプトの支配に苦しむイスラエルの民を解放するため、モーセを遣わそうとされました。

しかしモーセは、「どうして自分なのか」「民は信じてくれないのではないか」と、次々に不安を口にします。

イスラエルの民を救うなんて、そんなこと、自分にできるんだろうか。

イスラエルの民は、神から遣わされたということを、信じてくれるのか。

考えれば考えるほど不安が湧いてきて、踏み出すことが怖くなっていく。

この時、モーセは、そんな状況にありました。

モーセにもこんな時があったのです。

不安で足が前に進まなくなってしまう。

新しいことに踏み出す勇気を持てず、チャレンジするのをためらってしまう。

私たちにもそんな時があるのではないでしょうか。

モーセも、私たちと同じように、弱さや欠けを抱える普通の人間だったのです。

最初から立派な指導者だったわけでは、決してありません。

一歩、また一歩と、小さな歩みを積み重ねていく。

そうやって、少しずつ前に進んでいった結果、立派な指導者になっていったのです。

私たちも、この小さな一歩を積み重ねて行きたいと思います。

問題は、その小さな一歩を、どう踏み出すかということです。

モーセはこの時、見えない未来が不安で、一歩踏み出すことに、恐れを感じていました。

そんなモーセが、神様の使命を受けて、新しい歩みへと、一歩踏み出すことができたのには、粘り強い神様の関わりがありました。

・神の関わり

ちょっとその関わりの様子を、確認したいと思いますが、

4章の始まりを見てみますと、まずモーセは神様に対して、「『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言っています。

「『私は神様の使いだ』なんて言っても、誰も信じてなんてくれないだろう」ということです。

それで神様は、どうしたかというと、神様の使いである「しるし」を与えられます。

一つは、地面に投げると蛇に変わる杖。

もう一つは、手を入れると、皮膚病になったり、治ったりする不思議な力を与えました。

それを見せれば、神の使いだと信じてくれるだろうということで、この二つのしるしをお与えになったわけですが、

それでも信じてもらえなかった時のために、三つ目のしるしとして、ナイル川の水を血に変えるということも約束されました。

これでモーセも安心だと思いきや、さらにモーセは言うわけです。

10節「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

今度は、口下手だということを理由に、神様の招きを断ろうとしました。

しかし、ここでも神様は、諦めません。

12節「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

話すことは私が教えると、だから、安心して行きなさいと、神様はそう言われたのです。

それでもモーセは、「はい」とは言いません。

13節モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」

この言葉を聞いて、とうとう神様は怒ってしまいます。

当然でしょう。

しるしを見せてもダメ、話すことを教えると言ってもダメ、それじゃ一体どうしたらいいんだと、

私だったら、とっくに諦めていると思いますが、それでもなお神様は、諦めないのです。

怒りながらも神様は、モーセの兄弟アロンを代弁者として、お与えになります。

・踏み出そう、神と共に

モーセも相当しぶといですが、神様はさらにしつこいお方だなと思います。

何度モーセが弱音を吐いても、神様は決して、諦めませんでした。

この忍耐強いやり取りを通して、神様が伝えたかったこと。

それは、端的に、「私が共にいる」というメッセージでした。

モーセは、漠然と不安だったというよりも、自信がなかったのだと思います。

4章1節の「主がお前などに現れるはずがない」という言い方とか、口下手だということもそうですが、

彼は終始、自分の弱さや欠けを理由に、神様の招きを断ろうとしています。

そこには、過去のトラウマもあったのかもしれません。

エジプトにいた頃、彼は、同胞であるヘブライ人が重労働を課せられ苦しんでいる姿を見ました。

エジプト人が、同胞のヘブライ人をムチで打っているのを見て、我慢ならず、殺してしまうということもありました。

そして彼は、ファラオの裁きを恐れ、逃げ出してしまったのです。

今日の話は、それから長い年月が経った後の話ですが、モーセの心に残った傷、自身の喪失は、深いものがあったのだと思います。

でも、神様は、そんなこと知っていました。

モーセの弱さも欠けも、モーセ一人にできることも、全てご存知でした。

そのうえでモーセを用いようとされたのです。

そもそも神様は、モーセに自力でイスラエルの民を救えなんて言っていません。

イスラエルの民を救うのは、神様です。

モーセは、そのことを勘違いしていたのかもしれません。

イスラエルの民を救い出すという、背負いきれない重荷まで、一人で背負わなきゃいけないとそう思い込んでしまって、潰れそうになっていたのだと思います。

このようなことは、私たちにもあるかもしれません。

背負いきれない重荷まで背負わなきゃと思ってしまって、潰れそうになってしまう。

目をあげれば、助けてくれる人や、相談できるところがあるのに、見えなくなってしまって、抱え込んでしまう。

この時のモーセは、そうでした。

神様がいくら、共にいると言っても、彼の心には届いていませんでした。

結局、その言葉が届いたのかどうか、今日の箇所だけでは判断できませんが、しかしモーセは、旅立って行きました。

不安がなくなったから旅立ったのではないと思います。

しるしを与えられても、助け手がいても、うまくいく保証なんてありません。

神様が共にいるということにも、半信半疑だったかもしれない。

でも、モーセは、一歩、踏み出して行きました。

自身も確信も持てないけれど、一歩踏み出して行った。

そのことによって彼は、神が共にいるということを経験していき、立派な指導者として、整えられていったのです。

全てが準備万端、整って踏み出して行ったのではありません。

心も体も信仰も、何一つ万全でないまま、それでも、一歩踏み出して行った。

そこに、神様の出来事は起こされていったのです。

このモーセのように、私たちも、不安を抱えたままで、踏み出して行きたいと思います。

準備万端整えてからでないと、出発できないと、私たちは考えてしまいがちですが、決してそんなことはありません。

準備万端整えてからでないと出発できないという、その考えそのものが、私たちの足を止めてしまうのだと思います。

必要なものは、現地調達すればいいぐらいの気持ちで、まず一歩踏み出してみる。

それが大事なんだと思います。

私たちが踏み出す、小さな一歩に、神様は伴っておられます。

大きな一歩でなくてかまいません。

立派な信仰がなくてもかまいません。

迷いながら、揺れながら、それでも神様に向かって踏み出す小さな一歩は、きっと神様との出会いにつながっています。

新しい年も、神様との出会いにつながるその小さな一歩を、共に積み重ねてまいりましょう。

お祈りします。

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