2025年11月9日主日礼拝「わたしはぶどうの木、あながたはその枝である」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ヨハネによる福音書15章1節〜17節。

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あ なたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れ ては、あなたがたは何もできないからである。

15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあ なたがたに知らせたからである。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名に よって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

「わたしはぶどうの木、あながたはその枝である」と題して、石井達兄に、メッセージをしていただきます。

今日示された聖句、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていれば豊かに実を結ぶ。」というイエス様の言葉は皆さんも良く知っておられる箇所ではないでしょうか。以前、夏期学校のテーマにしたこともあり、子どもたちにもすんなり受け入れやすい聖句のように思います。改めてこの聖句を共に学んでみたいと思います。

ところで、皆さんはクリスチャンとして生きるとはどういうことか?考えたことがありますか?もし、人からクリスチャンって何?と聞かれたらどう答えますか?

そうですね。教会という組織に属して、毎週礼拝に参加して献金を捧げる人でしょうか。確かにクリスチャンの多くはそうしています。でも、毎週礼拝にいけないクリチャンもいます。教会に属さないで信仰を保っているクリスチャンも知っています。では、何と言ったら良いでしょうか?

私は、今日の聖句にあるように【クリスチャンとはキリストに繋がっている人】ではないかと思っています。そして、そのことは私たちがこの世界で神様に喜ばれる生き方をする上で大切なポイントでもあると思っていますので、共に聖書から聴いていきましょう。

今日の聖句から学ぶことはたくさんあるように思いますが、特に3つの点について考えてみたいと思います。すなわち、「枝」について、「つながる」ということについて、そして「実」についてです。

まず、枝ついて考えてみましょう。

イエス様は木と枝を対比して説明しています。木は完全な存在です。根があり、幹があり、枝があり、葉をつけた存在ですから、当然自分の力で養分を確保し、実を結ぶことができます。一方、枝は不完全な存在であって、それだけでは実を結ぶことは勿論、生きていくこともできない物です。ほっておいたら枯れてしまうでしょう。今日の聖句の中でも、4節の後半でイエス様が言われるように「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」枝とはそういう存在なのだということです。

でも、ちょっと待ってください。イエス様につながっていなくても社会で成功している人いますよね。クリスチャンじゃなくてもすごい業績を残した人はたくさんいます。では、どうしてイエス様につながっていなければ、実を結ぶことができないと言われるのでしょう。どうですか?皆さんはイエス様無しに自分で実を結ぶことができると思っていますか?

もしイエス様無しに、自分の力で実を結ぶことができると思っているとしたら、きっとその人はまだ本当にイエス様を知っていないか、今はまだイエス様の救いを必要としていない人ではないかと思います。

私たちは、イエス様に出会い、イエス様の十字架での苦しみやその死がまさに自分のためだったと心から思えた時から、自分が枝のように不完全な存在であることを知ります。善を行いたいと思っても、自分では善を行うことができない。愛あるものであるつもりが、自分の中に愛が無いことを自覚します。聖書はこう言います。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」この言葉を聞いて確かにそうだと思える人は、自分が枝のように不完全な存在であることも受け入れるでしょう。

そのように考えると、イエス様が言われる「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉を受け入れ、その通りだと思えるかどうか?クリスチャンとして生きるということは、まずそのことが問われているように思います。皆さんはどうですか?この言葉を聞いて、確かに私は枝のように不完全な存在だと思えますか?そう思える人はきっとイエス様につながることも求めるでしょう。

そこで次に、「つながる」ということについて考えてみたいと思います。イエス様につながるということは、今日考えたい3つの中で一番難しいところかも知れません。それは、イエス様につながることを妨げるものが現代の私たちの生活には多く存在しているからです。ある牧師が、朝起きたらまず祈りを通してイエス様に会い、一日つながって生きることをまず確認しなさいと言われていました。私たちにとって、とても大切な生活習慣だと思います。しかし、どうでしょう。朝祈ろうとして目を閉じると前日の夜に見たドラマの続きが気になって祈れないとか、追われている仕事のことが気になってとにかく早く支度をしなければと思うと祈りに時間を使っていられないということになっていませんか?決して私もその時間が十分取れているとは思っていませんので、自分に言い聞かせるつもりで語りますが、イエス様と過ごす時間を大切に持ちましょう。朝イエス様と過ごすときっとその一日が変わるはずです。

私たちはどうしても、何とか頑張ってイエス様につながろうと努力します。しかし、4節の初め「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と言われるようにイエス様も枝にすぎない私たちがぶどうの木につながることを望んでいます。そればかりか、イエス様の側からもつながっていてくれている。ですから、つながるということは、私たちが必死につかまっているというよりは、イエス様に捕えられ、伴われて生きていくということなのかもしれません。

9節では、イエス様につながることを別の言い方で説明しています。「父がわたしを愛されたように(ここで言う父とは全知全能の父なる神様のことですね)、そのようにわたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と言われます。イエス様が私たちに示された愛とはどのようなものでしょうか?13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と言われるように、この言葉を残されたその次の日に、イエス様は十字架上でご自分の命を捨てられました。罪人である私たちの身代わりとしてその罪を背負い、その罪を罰せられたのです。このようにして救いが世にもたらされました。この救いはすべての人のためのものですが、すべての人が受け入れているわけではありません。この救いのことを理解するためには私たちには助け手が必要です。この方はイエス様が天に昇られた後、送られた真理の霊、聖霊です。この方のことは今日の聖書箇所の少し前、14章でイエス様が説明されていますが、14章の17節にはこう書かれています。「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

さらに、この聖霊がすべてのことを教え、イエス様が話されたことをことごとく思い起こさせてくだると、言っています。ですから、私たちはこの聖霊の導きにより、イエス様の愛を知り、その愛の深さや広さを少しずつ理解していくことができるのでしょう。聖霊の働きについては、私もクリスチャンになった時、不思議に思ったことがあります。それまで読んでもよくわからなかった聖書の内容が、不思議なくらい良く分かるようになり、なんで今までこれが分からなかったのだろうと感じたくらいでした。「私は枝のように不完全な存在だ。」そう思えること自体、私たちに聖霊が働いてくださる証しであり、その方は決して私たちから離れることはありません。私たちと共におられ、私たちの内にいてすべてのことを教えてくださるのです。こう考えるとイエス様につながるというのは、私たちと共におられ、私たちの内にいてすべてのことを教えてくださる聖霊を通してイエス様とつながっていると言えるでしょう。

聖霊の声に耳を澄ませ、それに従って歩む時、私たちは霊の実を結ぶことができます。では、どんな実を結ぶのでしょうか?そこで次に、その「実」について考えてみましょう。イエス様は、行ってすべての人を弟子としなさいと言われましたから。実を結ぶとは努力の結果、教会員が増えるということでしょうか?それとも、ビジネスで成功し、教会の献金を増やし、貧しい人に施すことでしょうか?確かに結果としてそういうことも起きてくるかも知れませんが、イエス様はもっと内面的な成長を「実」と表現されているように思います。

パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で霊の結ぶ実として次のように説明しています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」いいですか。霊の結ぶ実を九つの言葉、すなわち、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制で表しています。どれをとっても私たちが素晴らしい人生を送る上で大切なことのように思います。私たちはイエス様とつながって、聖霊の力により、これらの実を結ぶことができるようになるのでしょう。

どうですか、皆さん。教会に集っている皆さんが、イエス様につながって、こうした実を結んでいたらどうでしょう。その集いに参加したくなりませんか?愛に溢れ、喜びに満たされ、平和を愛し、互いを受け入れ、柔和で誠実な人の集まりが教会であったらどんなに素晴らしいでしょう。

そんな教会でありたいと思いませんか?良し、頑張ろう。と、自分で作ろうとしてもできません。牧師がどんなに汗を流しても、出来るものでもありません。私たちの力ではできないんです。でも、イエス様につながっているとできるんです。教会に集う一人一人がイエス様につながっていれば、豊かな実を結び、素晴らしい教会ができると確信しています。

今日のイエス様の言葉はそのことを私たちに教えてくれています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」私たちに向かって、あなたはわたしの枝だよ。と、イエス様が言ってくださっている。そうは聞こえませんか?既にイエス様とつながっている私たちを、ご自身の枝として、用いてくださる。そして、たくさんの実を結ぶように、イエス様に似た者として霊の実を結ぶようにしてくださるのです。

まずは、イエス様にしっかりつながりましょう。いつも共にいてくださるイエス様を意識し、イエス様の言葉を常に心にとめながら生活していきましょう。聖書の言葉を蓄えることも大切です。河野宗利さんが聖句をすらすらと暗唱されていたのを今でも思い出します。聖句はイエス様とつながるための基本ですから、是非心に蓄えていきましょう。そうすれば、わたしたちはきっと豊かな実を結び、キリストの香り漂う教会へと成長していけるでしょう。 最後に今日の聖句の中で、イエス様がどうしても伝えたいメッセージがあります。今日司式者に読んでいただいた中でも2度繰り返されている言葉です。それは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟であり、命令である。」と、言われた言葉です。私たちはついついこの命令の部分だけを取り出して、イエス様が愛されたように私も人を愛そうと頑張ります。そして限界を感じ、落ち込みます。どうか、私たちが枝のように不完全な存在だということを忘れないでください。イエス様につながっていなければ実を結ぶことのできない枝なのです。しかし、イエス様につながっていれば、豊かに実を結び、主の掟を守ることができるようになります。イエス様を見つめ、イエス様につながっていきましょう。そうすれば、多くの実を結び、父なる神様に栄光を帰すことができます。

関連記事

  1. 2025年9月21日主日礼拝「終わりから始まる物語」

  2. 2026年2月1日主日礼拝「神の導き」

  3. 2022年11月20日メッセージ「古いわたしを手放して」

  4. 2025年2月23日主日礼拝「燃え尽きない柴」

  5. 2023年3月5日メッセージ「信じて、手を伸ばそう」

  6. 2023年12月3日礼拝メッセージ「クリスマスどころじゃないあなたへ」…

  7. 2025年11月30日主日礼拝「沈黙から始まるクリスマス」

  8. 2025年5月18日主日礼拝「顔を上げよ、声を上げよ」

行事カレンダー

2026年 2月
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28

主日礼拝

祈祷会