聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書18章1節〜8節。
新共同訳新約聖書143ページ〜144ページです。
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
「山を動かす、小さな祈り」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
皆さん、おはようございます。
今日も、まず子どもメッセージからさせていただきたいと思いますが、今日は最初に、短い絵本を読みたいと思います。
1、「ハチドリのひとしずく」という絵本です。
このお話は、南アメリカに伝わる、小さなハチドリのお話です。
「ハチドリのひとしずく」
2、森が燃えていました。
3、森の生き物たちは われさきにと逃げていきました。
4、でもクリキンディという名のハチドリだけは、行ったり来たり。
5、口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは、火の上に落としていきます。
6、動物たちはそれを見て、「そんなことをして、いったい何になるんだ」と笑います。
7、クリキンディは、こう答えました。
8、「私は、私にできることをしているだけ。」
火事になった森に、一滴ずつ水を運ぶ、ハチドリのクリキンディの話でしたが、皆さんは、このクリキンディのことを、どう思ったでしょうか。
周りの動物たちは、「そんなことをして、いったい何になるんだ」と笑ったそうですが、皆さんは、どうでしょうか。
そんなことしたって無駄だ、意味がないって、思ったでしょうか。
確かに、クリキンディのしたことは、途方もないことです。
燃え広がる森に、水一滴垂らしたところで、状況は、何にも変わらないと思います。
でも、そんなこと、クリキンディは、よくわかっていました。
自分のしていることが、どれだけ途方もないことか。
どれだけ、効果のないことか。
クリキンディはよくわかっていた。
それでも、クリキンディは、水を運んだんです。
なぜか。
それが、クリキンディにできることだったからです。
時に私たちは、大きな問題にぶつかることがあります。
その問題が大きすぎると、「もうだめだ」って諦めてしまったり、無力感、「自分にできることは何もない」って思ってしまったりすることがあります。
例えば、戦争とか、環境破壊とか、飢餓の問題。
今も世界では、9人に1人が食べ物がなくて、苦しんでいます。
そういう世界規模の問題を知る時、問題があまりにも大きくて、自分にできることは何もないって、思ってしまいます。
そんな私たちに、クリキンディは、「本当にそう?」「あなたにも、できることがあるんじゃない?」って、言われているように思います。
私たちが生きるこの世界には、いろんな問題があります。
戦争もそう、環境破壊もそう、飢餓の問題もあるし、差別の問題もあります。
でも、もっと大きな問題は、そういうことに対して、「私にできることはありません!」って言って、目をつぶってしまうことじゃないでしょうか。
確かに、私たち一人ひとりにできることは、小さいかもしれない。
でも、決して、無力ではありません。
どんな小さいことでも、必ず、できることがある。
自分にできることを考え、行動していく時、それがどんなに小さいことでも、神様は、ちゃんと見ていてくださるし、一緒に働いてくださる。
今日の聖書の箇所には、そう教えられています。
自分にできる小さいことを大事に生きる人は、いつか、神様の働きを見ることができます。
だから、クリキンディのように、どんな問題があっても、諦めずに、行動できる人になりたいと思います。
クリキンディの物語は、ここで終わっています。
この後、この森は、どうなったでしょうか。
クリキンディの努力も虚しく、燃え尽きてしまったでしょうか。
それとも、・・・。
自分にできること、どんなにそれが小さいことであっても、それを大事にする人に、神様は、奇跡を見せてくださる。
そう信じて、諦めずに、自分にできることをしていく人になっていきましょう。
お祈りします。
・祈れない人へ
今日のテーマは祈りです。
イエス様は、弟子たちに、気を落とさず、絶えず祈りなさいと、言われました。
それは、きっと、弟子たちが、気を落として、祈れなくなっていたからだと思います。
皆さんはどうでしょうか。
祈れなくなったことが、あるでしょうか。
祈っても祈っても、聞かれない
どんなに祈っても、何も変わらない。
そんな状況が続くと、祈っても意味があるんだろうか。
祈っても無駄なんじゃないかと、そう思ってしまうことがあるんじゃないでしょうか。
祈りに対して真剣な人ほど、このような問いを持つものではないかと思います。
祈ることに疲れを覚え、祈れなくなっている人。
祈る意味がわからなくなっている人。
そんな一人一人を励ますため、
そんな一人一人の心に、祈りを回復させるため、イエス様は、あるたとえ話を語られました。
それが、2節~5節に記されていますたとえ話です。
・たとえ話
どんな話かというと、それは、あるやもめの話でした。
ある町に、1人のやもめがいました。
彼女は、不当な扱いをされて、苦しんでいました。
そのことを裁判官に訴えますが、全く取り合ってもらえません。
それもそのはず、この裁判官は、神を畏れず、人を人とも思わないひどい裁判官でした。
でも、彼女は諦めず、訴え続けました。
何度追い払っても、ひっきりなしにやって来る彼女に、とうとう裁判官は、負けてしまいました。
「うるさくてかなわない。このまま放っておいたら、いつか、酷い目に遭わされるに違いない。」
そう言って、裁判官は、彼女のために、裁判をすることになりました。
まあ、彼女のためと言っていますが、正しくは、自分のためです。
1日も早く、やもめから解放されたい。
酷い目に遭わされたくない。
そう思って、裁判官は、裁判をすることにしたという、そういう話です。
たとえ話と言われているように、この話は、イエス様の作り話ですが、その内容は、現実に即したものだったようです。
イエス様が生きられたユダヤ社会において、やもめは、最も弱い立場に置かれていました。
旧約聖書には、繰り返し「やもめを虐げてはならない」と教えられています。
これはその一部ですが、
出エジプト記22章
22:21 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。
22:22 もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。
申命記10章
10:17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、
10:18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
詩編68編
68:6 神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。
このように、旧約聖書には、やもめの権利を守りなさいという教えが、たくさん記されています。
でも、その教えは、守られていなかったようです。
たとえ話に登場するような不正な裁判官が力を振るっていました。
彼らは、賄賂を受け取り、権力者の都合の良いように裁きを行っていました。
そんな中、多くのやもめたちは、夫の残した土地や財産を奪われても、泣き寝入りするしかありませんでした。
イエス様は、それでも諦めず、訴え続けたやもめを、たとえ話の主人公として語りました。
そして、彼女の姿を通して、絶えず祈り続けることの大切さを、教えておられます。
・神様は祈りに応えてくださる
祈りは願いです。
祈りが尽きるということは、願いが尽きるということであり、現状を受け入れるということを意味します。
受け入れるしかない現状もあるでしょう。
一方で、受け入れてはならない現実もあると言われているように思います。
やもめが、どんな現実に置かれていたのか、詳しくは分かりません。
でも、彼女が必死に訴えたのは、きっと、そこにしか、生きる望みがなかったからでしょう。
彼女が、訴えることをやめるというのは、生きるのをやめるということを意味した。
だから、簡単に引き下がることはできなかったのです。
でも、弱い立場に置かれた人が、声を上げるというのは、どれだけ勇気のいることでしょうか。
たとえ話に登場するやもめも、諦めるタイミングは、何度もありました。
何度訴えても取り合ってもらえない。
その度に彼女は、「言っても無駄。
どうせ聞いてもらえない。
何度訴えても、何も変わらない。」
そういう想いに襲われたことでしょう。
しかし、諦めずに、彼女は、訴え続けました。
その結果、不正な裁判官を動かすことに、なっていきました。
こんな酷い裁判官でも、やもめの訴えを聞かれるのだから、神様が、叫びをあげている人々のために、裁きを行わないということがあろうか。
絶対にない。
イエス様は、そう仰っています。
訴え続けること、祈り続けることは、決して無駄に終わらない。
必ずや、神様は、その叫びに応えてくださる。
だから、祈ることを諦めてはならない。
気を落とさず、絶えず祈りなさいと、励ましているのです。
・小さな一歩を
祈りは、現実を変えていくための、小さな一歩です。
その小さな一歩を、神様は決して軽んじられません。
祈りの相手である神様は、不正な裁判官などではありません。
むしろ、弱く小さい祈りにこそ、耳を傾け、共に働いてくださるお方です。
その神様を信頼し、諦めずに、私にできる小さな祈り、小さな一歩を積み重ねていく。
その小さな積み重ねは、やがて、山を動かすほどの大きな力になっていくと、そう教えられているのだと思います。
4年前、新型コロナウイルスによって、緊急事態宣言が出されました。
集まって礼拝することができないという状況で、何かできないということで始めたのが、YouTubeによるメッセージ配信でした。
YouTubeを見れる人は、限られている。
やっても、見る人は、少ないだろうとは思っていました。
実際やってみると、思っていた以上に、見る人は少ないものでした。
YouTubeには、視聴回数というのが出まして、何回再生されたかがわかるようになっているんですが、昨日確認しましたら、視聴回数が3回という動画がありました。
これやって意味あるんだろうか。
もうやめようかなと思ったこともありました。
そんな時に、一本の電話がありまして、出ますと、YouTubeでメッセージを見てくださっている方で、
教会に行くことは難しいけれど、聖書について学びたいということで、訪問させていただくことになりました。
その関わりは、今年で3年になります。
その方だけでなく、他にも何人かの方々が、YouTubeを見て、この教会につながってくださっています。
そういう出会いを通して、私は、大変励まされましたし、教えられました。
見られている回数は少なくても、見てくださっている方がいる。
かつては、その一人一人を想像することはできませんでした。
回数しか見ていませんでしたけれども、インターネットによってつながってくださっている方々いることを、具体的に知ることができました。
その経験を通して、私は、小さな積み重ねが、どれだけ大事かということを、教えられました。
子どもメッセージで、一雫の水を運ぶクリキンディの絵本を読みました。
「そんなことをして、何になるんだ」という動物たちに対して、クリキンディは、「私は、私にできることをしているだけ」と言いました。
問題が大きければ大きいほど、自分にできることの小ささを痛感させられます。
できることがあっても、「そんなことをして、何になるんだ」「そんなことをしたって意味がない」そういう声が、自分の内からも、外からも、響いてきます。
でも、今日の礼拝の最初に読んでもらいました箇所にありましたように、イエス様は、からし種一粒ほどの信仰があれば、山が動くと言われました。
山というのは、動かないと思われるものの象徴です。
それを動かすのは、からし種一粒の信仰なのです。
小さいことに、どれだけ大きな力が秘められているかを、心に覚えたいと思います。
意味がないとか、無駄だとか、決めつけずに、自分にできることをしていく。
それがどんなに小さいことに思えても、できることをしていく。
そういう人が、神のわざを見るのだと思います。
自分にできることを大事に、行っていく者でありたいと思います。
どんな状況に置かれても、私たちには、できることがあります。
祈りは、その代表です。
どんなに貧しくても、どんなに体が動かなくても、祈ることはできます。
祈りを諦めないというのは、私にできることを諦めないということです。
祈ることから始めていきましょう。
そして、「ハチドリのひとしずく」の想いで、自分にできることを献げていきましょう。
お祈りします。