2024年5月19日主日礼拝メッセージ「断たれることのないつながり」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書17章11節〜19節。

新共同訳新約聖書142ページ〜143ページです。

17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。

17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、

17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。

17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。

17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。

17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

「断たれることのないつながり」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日は、神様との繋がりということをテーマに、話をしたいと思いますが、ちょっと初くんに手伝ってもらいたいと思います。

初くん、前に出てきてもらえますか。

握手をしてもらっていいですか。

これは、人の握手です。

人の握手は、どちらか一方が、手を離してしまうと、どうなりますか。

そう、離れてしまいます。

じゃあ、離したくないって思って、強く握ると、どうなりますか。

そう、相手を傷つけてしまう。

でも、だからと言って、優しく握っていると、間に誰かが入ってきた時、簡単に、離れてしまいます。

こんなふうに、人と人とのつながりというのは、離れやすいし、壊れやすいものです。

じゃあ、今度は、神様の握手をしてみてください。

そう、神様の握手はこうじゃなくて、こうです。

手を握るんじゃなくて、腕を捕まえていてくださる。

そうするとどうなるかというと、ちょっと離してみてください。

離しても、離れないですよね。

どんなに、私たちが手を離しちゃっても、決して離れない。

誰かに切られてしまう心配もない。

これが、神様との繋がりです。

この繋がりを、忘れないでいたいと思うんです。

ありがとうございました。

席に戻ってください。

今、初くんに手伝ってもらって、人の握手と神様の握手をしました。

このことを通して伝えたかったのは、神様との繋がりは、決して、切れないということです。

私たちには、この、決して切れることのない繋がりが、与えられています。

この繋がりを知っているということは、私たちにとって、とても大きなことだと思います。

私は、この繋がりから、いつも勇気をもらいます。

どういう勇気かというと、人と出会う勇気です。

私は、よく人の顔色を気にしてしまいます。

人に良く思われたい。嫌われたくない。

そう思って、どこかびくびくしながら、人と接してしまったり、そもそも人との関わりを避けようとしてしまうことがあります。

嫌われて傷つくぐらいなら、いっそのこと、関わらない。

そうやって、人との関わりを避けようとしてしまうことがあります。

でも、そんな時はいつも、神様との繋がりがあるってことを思い出します。

たとえ、その人とうまくいかなかったとしても、大丈夫。

私は、決して独りじゃない。

そう思うと、不安や恐れも減っていって、肩の力も抜けて、自分らしく、その人と出会っていくことができる。つながっていくことができる。

決して切れない繋がりがある。

そのことを知っているからこそ、人と出会っていくことができる。

恐れや不安を持ちながらも、人と出会っていくことができるのだと、そう思います。

自分には、切っても切れない繋がりがある。

どんな時も、私は決して、独りじゃない。

そう信じて、人と出会っていく、関わっていく人になっていきましょう。

お祈りします。

今日の聖書の箇所には、10人の重い皮膚病を患っている人たちが癒やされる話と、癒やされた後、10人のうちの1人が、イエス様のもとに帰ってくる話が記されています。

今日は、このイエス様のもとに帰ってきた人を中心に、与えられている箇所を読んでいきたいと思います。

改めて言いますが、彼は、重い皮膚病を患っていました。

彼は、同じように、重い皮膚病を患っている人たちと一緒に、遠くにいるイエス様に、声を張り上げて言いました。

「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」

ここで一つ、疑問が湧いてきます。

なぜ、この人たちは、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げたんだろうか。

なぜ、イエス様に近づいていかなかったのかということです。

ここには、近づけない理由がありました。

重い皮膚病は、ヘブライ語で「ツァーラト」という言葉で、その意味は「打たれた者」です。

それは、神に罰せられ、打たれた者がかかる病気だと考えられていたからです。

祭司が、その病気の判定をしていました。

祭司によって病気だと判断された人は、「汚れた者」と言われ、共同体から隔離されました。

通行人が近づかないように、自ら「私は汚れた者です。汚れた者です」と言って、知らせなければならないという決まりまでありました。

だから、10人の重い皮膚病を患っていた人たちは、遠くから叫ばなければならなかったのです。

近づきたくても、近づけなない。

近づいてはならないとされていたのです。

そうやって、彼らは、生まれ育った町や村からも切り離され、人との関係を切られて生きていたのです。

でも、彼らは、独りではありませんでした。

10人の仲間がいました。

同じように、重い皮膚病を患い、町や村から切り離された人たち。

同じ苦しみを抱える人たちが、集まっていました。

これは、イエス様が通られた場所とも、関係があると思います。

11節見てみますと「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と書いてあります。

サマリアとガリラヤの間、はざま、そういう場所には、町や村にいられない人たちが、いたのではないでしょうか。

そこを、イエス様が通られたというのは、非常に重要なことだと思います。

ただ、イエス様は、彼らの声に気づきながらも、近づいていこうとはされませんでした。

遠くから声が聞こえて、彼らを見て、そして、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。

同じ、ルカによる福音書の5章にも、重い皮膚病を患っている人を癒す話しが記されていますが、そこでは、手を差し伸べて、その人に触れ、「清くなれ」と言われたと、記されています。

すると、その人は、癒やされたとそのように語られています。

その場面に比べると、今日の箇所のイエス様は、何だか冷たいなと思ってしまいます。

触れるどころか、近づこうともしない。

癒すのではなくて、祭司たちのところに行けと、そう言われました。

これを聞いて、10人の人たちは、どうしたか。

続く箇所には「そこへ行く途中」と記されています。

「そこへ行く途中」ですから、イエス様の言うとおり、祭司たちのところへ行ったんだと、そう読めるんですが、でも、私はそのことに、強い違和感を感じました。

どこに違和感を感じたかというと、それは、10人のうちの1人は、サマリア人だったということです。

サマリア人は、イエス様の言葉にもあるとおり、外国人とみなされていました。

もともとは、ユダヤ人と同じ、イスラエルの民でした。

サマリアは、北イスラエル王国の首都でもありました。

しかし、北イスラエル王国が、アッシリアに滅ぼされた後、異邦人が移住してきたことによって、強制的に彼らは、混血の民とされました。

それ以来、純血を良しとするユダヤ人たちから、異邦人とみなされ、関わりを避けられていたのです。

もちろん、祭司による清めの儀式なんて、受けられるはずがありません。

それなのに、祭司のところになど行くだろうかと思ったのです。

それで調べてみますと、違う訳の可能性があることを知りました。

「そこへ行く途中」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「ヒュパゴウ」という言葉で、その意味は、「立ち去る、帰る、退く」だそうです。

他の訳の中にも、「去って行く途中」と訳しているものがいくつかありました。

つまり彼らは、イエス様に言われて、祭司のところに行ったのではなく、立ち去って行ったということです。

イエス様の言葉を聞いて、立ち去って行った。

彼らは、イエス様に癒したもらいたかった。

5章で、重い皮膚病の人を癒したように、自分たちも癒して欲しかった。

それなのに、「祭司のところへ行け」と言われて、突き放されたように感じたのだと思います。

癒やされてもいないのに、祭司のところへ行ったって、意味がない。

サマリア人に至っては、祭司のところへ行くことすらできない。

そんな中で、彼らは、その場を立ち去って行ったわけです。

きっと、下を向きながら、残念そうに、立ち去って行ったのでしょう。

でも、そこに、奇跡が起きるわけです。

立ち去って行く途中で、彼らの病が清くされた、つまり、癒やされたということです。

このことから、改めて教えられるのは、イエス様の救いが、恵みだということです。

救いは、行いに対する報酬ではありません。

何か良いことをしたら救われるというのではない。

救いは、イエス様からの贈り物、恵みであるということです。

この恵みを受けて、大声で神を賛美しながら戻ってきた人がいました。

それが、今日、注目したいサマリア人です。

恵みを受けて戻ってきたのは、彼だけでした。

他の9人は、立ち去ったまま、恵みを受けても、戻ってきませんでした。

これに対して、イエス様は、言われます。

17節、18節「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。

この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

たった1人しか戻ってこなかった。

そのことに対する寂しさを感じる言葉です。

なぜ、9人は戻ってこなかったのか。

同時に、なぜ、サマリア人は、戻ってきたのか。

両者の違いはどこにあったのでしょうか。

そのことを考える時に、わざわざ聖書が、「この人はサマリア人だった」と語っていることに、大事なヒントがあると思いました。

1人は、サマリア人で、後の9人は、ユダヤ人だった。

ユダヤ人たちには、行く場所がありました。

彼らは、イエス様が言ったとおり、祭司たちのところへ行ったのではないでしょうか。

清くなったというお墨付きをもらいに行ったのではないでしょうか。

対して、サマリア人はどうだったかというと、先ほど言ったように、彼は外国人とみなされていましたので、祭司のところへは行けませんでした。

行くところがなかった。

だからこそ、イエス様のところに戻ってくることができたのではないでしょうか。

彼は、病によって、家族をはじめ、故郷の人たち、あらゆる人たちとの関係を断たれてしまいました。

それは、彼にとって、どれだけ辛い経験だったでしょうか。

でも、彼は、孤独ではありませんでした。

ガリラヤとサマリアの間で、同じ境遇の仲間たちと出会うことができました。

ユダヤ人とサマリア人という反目しあっていた両者でしたが、同じ病に苦しむ者として、一緒にいることができました。

それなのに、病が癒やされた途端、9人はいなくなってしまいました。

サマリア人だということで、彼らと一緒に行くことができなかったのです。

こうして彼は、病によって、さらに、サマリア人であるということによって、つながりを断たれてしまったのです。

唯一彼が帰れた場所。

病が癒やされた喜びを、知らせに行くことができた人。

それが、イエス様だったんじゃないでしょうか。

だから彼は、イエス様のもとに戻ってくることができたんじゃないでしょうか。

9人とも一緒に行けないし、故郷にも帰る場所がないと思った。

だから彼は、イエス様のもとに戻ってきたのではないでしょうか。

彼は、病によって、あるいはサマリア人であるということによって、つながりを断たれていきました。

でも、そのことを通して、イエス様につながることができた。

イエス様とのつながりという、決して切れることのない、真のつながりを、見出すことができました。

そんな彼に、イエス様は、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。

彼の信仰、それは、イエス様のもとに戻って行ったという信仰です。

イエス様のところなら戻れる。帰っていける。そういう信仰です。

この信仰によって、彼は、イエス様とのつながりという、断たれることのないつながりを、見出すことができました。

あらゆる関係を断たれてきた彼ですが、それによって、断たれることのない、真のつながりを、見出すことができた。

ここに、救いがあると、言われているのだと思います。

イエス様は、彼に「立ち上がって、行きなさい」と言われました。

故郷へ帰れということでしょうか。

あらゆる関係を断たれ、排除されてきた彼が、再びその世界に戻って行くということは、決して簡単なことじゃなかったと思います。

病が治ったからと言って、前のように、受け入れてくれるかもわからない。

いつまた病になるかもわからない。

その恐怖は、病が癒やされてもなお、彼を苦しめていたと思います。

そんな彼にとって、イエス様との繋がり、断たれることのない繋がりを知ったことは、とても大きいことだったのではないでしょうか。

絶対的な繋がりがある。

切っても切れない繋がりがある。

だから心配するな。「立ち上がって行きなさい。」そうやってイエス様は、彼を、押し出して行ったのではないでしょうか。

私は、あなたを離さない。

どんなことがあっても、私は、あなたと共にいる。

だから、立ち上がって行きなさい。

イエス様は、私たちにも、そのように語りかけておられるのだと思います。

このイエス様のメッセージを、心に留めたいと思います。

子どもメッセージでも言いましたけれども、出会うとか、人と関わるというのは、とても勇気のいることだと思います。

まして、今日の主人公のように、そのことに傷ついた経験のある方は、尚更です。

というか、人間関係における傷というのは、大なり小なり、誰にでもあると思います。

それだけ、人と人とのつながりというのは、切れやすいし、壊れやすいし、傷つきやすいということです。

でも、イエス様は、私たちに、「立ち上がって行きなさい」と、言われます。

人と出会って行きなさい。

つながって行きなさい。

人を愛する者になって行きなさいと言われます。

それはきっと、そこに、平和があり、幸いがあるからだと思います。

だから、「立ち上がって、行きなさい」と言われます。

でも、ただ、「立ち上がって行け」と言われるだけじゃない。

私があなたと共にいる。

この約束を前提に、派遣されるのです。

私は、あなたを離さない。

どんなことがあっても、私は、あなたと共にいる。

だから、大丈夫。立ち上がって行きなさい。

このイエス様のメッセージを心に留めて、新しい一週間の旅路に、歩み出して行きましょう。

お祈りします。

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