聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、マルコによる福音書15章33節〜37節。
新共同訳新約聖書96ページです。
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
「イエスの叫び」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
皆さんは、教会をイメージする時に、何を思い浮かべるでしょうか。
教会と聞いて、思い浮かべるものといえば、なんでしょうか。
おそらく、多くの人は、十字架を思い浮かべるのではないでしょうか。
十字架は、教会のしるしです。
私たちの教会にも、もちろん、十字架があります。
どこにありますか?
そう、講壇の後ろと、それから・・・、屋根の上に、十字架があります。
実は、他にも、十字架があります。
そう、礼拝堂の入り口の窓とか、教会の玄関の窓なんかにも、十字架があります。
もしかしたら、他にも、十字架があるかもしれません。
見つけたら教えて欲しいと思いますが、そんなふうに、教会は十字架を掲げています。
教会には、いろんな建物があります。
いかにも教会って感じの建物もあれば、家と同じようなつくりの教会もあります。
どんな建物の形をしていても、そこに十字架があると、「あ!教会だ!」って思います。
そんなふうに、教会といえば十字架、十字架といえば教会というほど、教会にとって、十字架は、欠かせないものだと思います。
でも、この十字架、そもそも何の道具だったか、知っていますか?(絵を出す)
実は、これは、犯罪者を処刑するための道具でした。
この絵にあるように、犯罪者は、この十字架に架けられ、処刑されていきました。
なぜ、そんな恐ろしいものが、教会のしるしなんでしょうか。なぜでしょう。
それは、この十字架に、希望があるからです。
イエス様は、この十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、死んでいきました。
なぜ、私を見捨てるのか。
なぜ、私を助けてくれないのか。
なぜ、何も言ってくれないのか。
なぜなんだ神様!って、そう叫んで死んでいきました。
何の救いもない、最悪の終わり方です。
でも、そのイエス様が、復活させられていくんです。
十字架に架けられたイエス様に、もう一度、命が与えられていく。
これが、私たちの信じている希望です。
十字架は、苦難のしるしです。でも、同時に、希望のしるしです。
どんな苦しみの中にあっても、神様は共におられる。
神様は、決して、見捨てない。
神様は、必ず、私たちの祈りに、応えてくださる。
十字架は、そのしるしです。
苦しい時、辛い時。
神様いるのなら、何でこんなことが起こるのか。
なんで、助けてくれないのか。
なんで、何も言ってくれないのか。そんなふうに思う時、神様は、私たちと一緒におられる。
そして、私たちを、救いの道へと導いてくださっている。
十字架は、そのしるしです。
今週は、この十字架を、心に覚えながら、新しい一週間の歩みを、はじめていきましょう。
お祈りします。
・
キリスト教の暦では、今日から受難週に入ります。
受難週は、特に、イエス様が受けられた苦難に心を向ける時です。
今週金曜日の夜7時から、受難週の特別祈祷会を行います。
毎年行っているものでありますが、今年も、イエス様が、十字架に向かって歩まれた、最期の一週間の歩みを、聖書を読みながら、振り返ります。
お時間許される方は、どうぞ、お越しください。
今日は、そのようなことを念頭におきながら、聖書を読んでいきたいと思います。
選ばせていただいた箇所は、まさにイエス様が、十字架上で息絶える場面です。
そこには、イエス様の叫びが、記されています。
34節、三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエス様は、十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれました。
これが、イエス様の、生前最期の言葉でした。
神の子として、神に従い、神と共に生きられたイエス様が、大声を張り上げて「なぜ」と叫ばれた。
なぜ、見捨てるのですか。
なぜ、応えてくださらないのですか。
なぜですか。
そう叫ばれました。
しかし、神様からの応えはありませんでした。
居合わせた人々の中には、「エリヤを呼んでいる」という人もいました。
エリヤというのは、旧約聖書に登場する預言者の名前です。
生きながら、天に引き上げられていったという伝説の預言者で、終末の前に再臨すると信じられていました。
周りの人々は、イエス様が、そのエリヤを呼んでいると思ったようです。
「エロイ、エロイ」「我が神、我が神」という言葉が、「エリヤ、エリヤ」と呼んでいるように聞こえたのでしょう。
そして、エリヤが彼を降ろしにくるかもしれない。
何か、奇跡が起こるかもしれないと思ったのです。
でも、何の奇跡も起こりませんでした。
そして、イエス様は、再び大声を出して、息を引き取られました。
・
イエス様の歩みには、いつも奇跡がありました。
神様が、イエス様と共にいて、奇跡を起こしてこられました。
嵐の時には、イエス様が「静まれ」と言った途端、風がやみ、嵐がおさまりました。
重い皮膚病の人は、イエス様が「清くなれ」と言った途端、癒されました。
五つのパンと二匹の魚で5000人以上の人々のお腹を満たしたこともありました。
そのように神様は、いつも、イエス様と共にいて、困難な出来事を解決へと導いてこられました。
それなのに、この場面では、何の奇跡も起こそうとされません。
イエス様の叫びは、そんな神様に向けられています。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
イエス様は、神様がいるかいないかを問うているのではありません。
神様はいる。
確かに、共にいる。
「我が神、我が神」「私の神様、私の神様」イエス様は、十字架上においても、確かに神様と繋がっていました。
でも、だからこそ、わからないのです。
なぜ、私を、お見捨てになるのか。
神様はおられるのに、なぜ、何もしてくれないのか。
なぜ、助けてくれないのか。
なぜ、何も言ってくれないのか。
それが、十字架上で、イエス様が叫ばれた叫びでした。
・
このイエス様の叫びは、私たちの叫びでもあるのではないでしょうか。
昨日、ロシアのモスクワのコンサートホールで、武装した集団が、観客を銃撃するという事件が起こりました。
コンサートホールには、当時、6200人の人たちがいたそうですが、そのうち、少なくとも133名がお亡くなりになり、145名以上が負傷したと言われています。
なぜ、こんなことが起こるのでしょうか。
この事件に対して、ロシアのプーチン大統領は、この武装集団が、「ウクライナに向けて逃亡しようとした」、「ウクライナとの国境を越えるための窓口が用意されていた」と、会見でそう述べたそうです。
事実は分かりませんが、この言葉を聞きながら、この事件をも戦争に利用するのか。
殺害された人々のことなど、もはや、見えていないのかと、そう思わされました。
ロシアとウクライナの戦争、ミャンマー国軍による空爆、イスラエルによるガザ地区攻撃。
それによって、今も、多くの人々の命が奪われています。
神様がいるのなら、なぜ、こんなことになっているんでしょうか。
今年の1月1日に起こった、能登半島地震では、241人の方が亡くなられ、4名の方々が、未だ、行方不明となっています。
イエス様の叫びを聞く時、地震で家族を亡くされた方々の言葉が、重なって響きました。
なぜ、こんなことにならなければならないのか。
神様がいるのなら、なぜ、戦争は起こるのか。
なぜ、神様は、殺している人たちを、止めてくださらないのか。
なぜ、彼らをしたいようにさせているのか。
なぜ、罪もない人たちが、死ななければならないのか。
なぜ、こんなことにならなければならないのか。
これは、私たちの中にある叫びでもあると思います。
・
この叫びに対して、神様は、何もお応えになりませんでした。
そして、イエス様は、息を引き取られました。
でも、これが、終わりでないことを、私たちは知っています。
「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、叫んで死んでいったイエス様が、復活させられていくのです。
神様は、見捨ててなど、おりませんでした。
ここに希望があります。
・
祈っても、叫んでも、何の助けもない。
何の応えもない。
その沈黙の中で、苦しむことが、私たちにもあるでしょう。
いや、むしろ、そういうことの方が多いと思います。
聖書に記されているような、奇跡は、容易に起こることではありません。
祈っても、聞かれない。
叫んでも、誰も応えてくれない。
そんな時が、あるかもしれません。
でも、そんな時、そこに、イエス様はおられます。
祈っても応えられない。
叫んでも、助けがこない。
その沈黙の中に、イエス様はおられます。
苦しむ人々と共に、イエス様は、叫んでおられます。
マザーテレサは、「苦しみは、共に担われる時、喜びに変わる」と言いました。
一緒に叫んでいる人がいる。
一緒に苦しんでいる人がいる。
私は一人じゃない。
その想いは、私たちが生きる力となり、支えとなります。
イエス様は、今も、十字架にいます。
「なぜ」と叫ぶ人々と共におられます。
そして、神様は、そのイエス様と共に、苦しみ、叫んでいる人々を、どん底から、引き上げてくださるのです。
苦しい時、辛い時、祈っても、祈っても、応えが見出せない時、イエス様の叫びに心を向けましょう。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
一緒にそう叫びながら、イエス様は、共にいてくださいます。
そして、その叫びは、叫びで終わらない。
必ず、その先に、復活がある。神様の応えがある。
来週は、イースター、イエス様の復活を覚えて礼拝を献げますが、誰が復活させられていったのか。
十字架に架けられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、息を引き取られた、そのイエス様が、復活させられていったということを、忘れないでいたいと思います。
苦難は、苦難で終わらない。
苦しみを受けた者に、復活の命が与えられていく。
そのことを心に留めて、歩んでいきましょう。
お祈りします。