2024年3月17日主日礼拝メッセージ「無償の愛」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書15章25節〜32節。

新共同訳新約聖書139ページ〜140ページです。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と 宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

「無償の愛」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も、まず、子どもたちと一緒に、聖書のメッセージを聞いていきたいと思いますが、今日の聖書のお話は、先週の続きです。

先週は、イエス様が話されたたとえ話を、紙芝居で読みました。

そこには、お父さんの大切な財産を、いとも簡単にお金にかえて、無駄遣いしてしまった息子の話が書かれていました。

1、これは、息子が、お父さんから、財産を受け取る場面ですね。

2、息子は、それをお金に変えて、遠い国に旅立ち、

3、そのお金で、遊んで暮らしていました。

4、でも、すぐにお金が無くなってしまった。

5、豚の世話をする仕事を見つけますが、それでも、全然食べていけない。

追い込まれた息子は、父のもとに帰っていきます。

お父さんの財産を、全部、無駄遣いしてしまったとんでもない息子ですが、

6、お父さんは、その息子を見つけると、走り寄って、

7、抱きしめました。

こんなお話でした。

先週は、このお話から、帰る場所はあるって、メッセージを聞きました。

帰る場所はある。

このお父さんのように、神様は、私たちの帰りを、いつも、待っていてくださる。

どんなに私たちが失敗しても、どんなに道を外れても、喜んで迎えてくださる。

教会は、そんな神様のお家だって、話を聞きました。

でもですね、実は、このお話、ここで終わりじゃないんです。

紙芝居には、もう一枚、前回見なかった絵があるんです。

それは、こんな絵です。

これは、お父さんが、帰ってきた息子を喜んで、宴会をしている場面です。

注目して欲しいのは、この人です。

なんか、みんなと顔つきが違います。どんな顔をしていますか?ー怒った顔!

そう、明らかに怒っています。

この人、実は、帰ってきた息子のお兄さんなんですが、なんでお兄さんは、怒っているんでしょうか。

このお兄さんは、お父さんに向かって、こんなことを言っています。

「お父さん、僕は、これまで、一生懸命、あなたに従ってきました。

畑の仕事もしてきたし、家の手伝いだってやってきた。

でも、子ヤギ一匹、もらったことはありません。

それなのに、弟のためには、こんなにすごいパーティーをしている。

こんなの、おかしいじゃないか!」

一生懸命頑張ってきた自分には何にもないのに、散々遊んできた弟には、盛大なパーティーをしてあげる。

おかしいじゃないか!

皆さんは、どう思うでしょうか。

お兄さんの気持ちが、痛いほど伝わってきますが、

しかし、本当に、このお兄さん、何ももらってなかったんでしょうか。

お話の最後に、お父さんは、お兄さんに、こう言っています。

「息子よ、お前は、いつも、私と一緒にいる。私のものは、全部、お前のものだ。

子牛だけじゃない。この家も、あの畑も、すべてお前のものだ。私は、お前を愛している。」

お父さんは、お兄さんのこと、忘れてなんていませんでした。

それどころか、いつも一緒にいて、見守ってきた。

お兄さんは、何ももらったことがないって言っていますが、お父さんは、全部お前のものだって言っています。

それほど、このお父さんは、お兄さんのことを、大切に思ってきたということです。

お兄さんは、愛されていなかったのではなく、わからなくなっていたんです。

お父さんに愛されていることが、見えなくなってしまっていたんです。

なぜか。それはきっと、お兄さんの中で、当たり前のことになっていたからだと思います。

お父さんが一緒にいるのは当たり前。

家を受け継ぐのも当たり前。

むしろ、それが重荷ぐらいに、感じていたかもしれません。

どんなに深い愛情も、どんなに大きな恵みも、当たり前と思った途端、わからなくなってしまいます。

毎日、食べられるのは、当たり前。

安心して寝られるのも、当たり前。

生きているのは、当たり前。

本当にそうでしょうか。

当たり前だと思っていることを、今一度、見直してみなさいって、言われているように思います。

きっと、そこに、大きな恵みがあるって、イエス様は、今日、呼び掛けているのだと思います。

当たり前だと思っていることに、今一度、目を向けていきましょう。お祈りします。

・兄はなぜ怒ったか

先週に続いて、今日は、放蕩息子のお兄さんの話を読んでいます。

彼は、放蕩息子のためにひらかれた祝宴を見て、怒ったと記されています。

なぜ彼は、怒ったのでしょうか。

今一度、お兄さんの怒りに、注目したいと思います。

そこで重要になってくるのが、彼の言葉です。

お兄さんは、お父さんに対して、こう言っています。

29節・30節

しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と 宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

真面目に仕えてきた自分には、子ヤギ一匹くれないのに、遊び放題の弟には、肥えた子牛を屠っておやりになる。

ここに、お兄さんを怒らせたポイントが二つ語られています。

何がお兄さんを怒らせたのか。

一つ目は、肥えた子牛です。

イエス様の時代、肥えた子牛を屠るというのは、最高のもてなしだったそうです。

王様の食卓にのぼることはあっても、一般家庭の食卓にのぼることは、まずない。

あるとすれば、村をあげての催し、村全体のお祝い、そういうところで、だされるものだったそうです。

そんな特別な子牛、もちろん、お兄さんは、もらったことなどありません。

子ヤギ一匹すら、もらったことがない。

それなのに、弟には、屠っておやりになった。

これが、お兄さんが怒った、第一のポイントです。

第二のポイントは、その子牛が、放蕩息子である弟のために、屠られたということです。

もしこれが、大事なお客さんのためだったら、お兄さんも、文句はなかったでしょう。

放蕩息子である弟のためだったからこそ、怒りに燃えたのです。

その証拠に、お兄さんは、弟に対して、ひどい言葉を使っています。

そもそも、弟とも呼んでいません。

「あなたのあの息子」なんて言い方をしています。

さらに、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来た」と言っています。

お兄さんが、弟のことを、どれだけ下に見ていたかが、伝わってきます。

これは、嫉妬の典型的な例です。

嫉妬をするには、条件があるそうです。

それは、相手を自分よりも格下と思うことです。

格下と思っている相手が、自分よりも、優れたものを持っている。

そのような時に、羨ましいという気持ちが憎しみに変わり、嫉妬となるのだそうです。

兄が怒ったのは、放蕩息子の弟が、真面目に仕えてきた自分よりも、良いものを与えられていると思ったからです。

これが、兄の怒りの原因です。

こう考えると、確かに兄は、怒って当然だと思うかもしれません。

でも、ここで、父親は言います。

31節「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」

何ももらっていないかのように言っていたお兄さんですが、実際は、弟の何倍ももらっていました。

まず財産ですけれども、財産の分前をもらったのは、弟だけじゃありません。

12節見てみると、「父親は財産を二人に分けてやった」と書いています。

ですから、このお兄さんも、財産をもらっています。

しかも、彼は、長男です。

長男は、他の子の二倍、相続する権利を持っていました。

ですから、彼は、少なくとも弟の二倍、財産をもらっていたはずです。

さらに、お父さんは、いつも、彼と共にいました。

彼は、お父さんのもとで、守られ、養われていたわけです。

でも、お兄さんには、その恵みがわからなかった。

きっと、彼の中で、当たり前のものとなっていたのだと思います。

当たり前と思う者に、恵みの大きさは、わかりません。

ローマの信徒への手紙4章4節には、「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされる」という言葉があります。

お兄さんは、自分を、働き者だと思っていました。

「何年もお父さんに仕えてきた。言いつけに背いたことは一度もない」と言っています。

この「仕える」という言葉は、「奴隷」を意味する言葉の動詞形で、「奴隷として働いてきた」ということだそうです。

それくらい、忠実に、仕えてきたという自信があったわけです。

これは、弟と自分を比べて、言っているセリフです。

放蕩息子である弟に比べれば、自分は奴隷だ。

それくらい、忠実に仕えてきたんだと、そう思ったわけです。

この気持ちが、与えられている財産の大きさや、注がれている愛の大きさを、わからなくさせたのだと思います。

お兄さんにとって、それは、もらって当然のもの。

自分の働きに対して、当然支払われるべき報酬だと、そう思ってしまったんだと思います。

ここに、父親との、決定的なズレがあります。

確かに、お兄さんは、何年も真面目に仕えてきたかもしれない。

でも、だから父親は、彼を愛していたのではありません。

もし彼が、放蕩息子と同じことをしたとしても、父親は、同じように愛情を注いだでしょう。

いや、お兄さんも人間なら、当然、間違いを犯したことも、迷惑をかけたこともあったでしょう。

それでも、絶えず注がれ続けてきたのが父の愛なのです。

この父の愛こそ神の愛です。

この愛は、働きに対して支払われるものではありません。

働きにかかわらず注がれるものです。

どんなに、道を外れても、放蕩息子であっても注がれる。

私たちがどうなったとしても、決して、失われることがないし、変わることもない。

神様の愛は、どんなことがあっても、決して揺らぐことのない愛です。

この神様の愛を、当たり前だとか、不公平だとか思うのではなく、恵みとして受け取るために、必要なこと。

それは、神様と向き合うことです。

今日の箇所を見てみますと、お兄さんは、弟しか見ていません。

お兄さんの言っていることは、全て、弟との比較です。

弟と比べて、自分は頑張ってきた。

弟よりも、自分は優れている。

それなのに、弟よりも、自分はもらっていない。

弟の方が、良いものをもらっている。

「隣の芝生は青い」ということわざがあります。

他人が持っているものが、自分の持っているものより、良く思えてしまう。

その反面、自分の持っているものの良さには気づかず、悪い面ばかりが気になってしまう。

皆さんも、そういうことがあるんじゃないでしょうか。

人間というのは、ないものねだりな生き物で、自分にないものに目が行ってしまうものです。

放蕩息子のお兄さんにとって、それは、肥えた子牛でした。

肥えた子牛なんてもらったことがない。

確かに、肥えた子牛は、もらったことがなかったかもしれません。

でも、もっと良いものを、たくさんもらっていたと思います。

土地、畑、仕事、何より、父親は、彼とずっと一緒にいました。

一緒にいる間、彼は、父親から、たくさん愛情をもらったいたはずです。

それなのに、もらったことのない子牛を、放蕩息子である弟がもらっている。

そのことに目が奪われて、自分に与えられている良いものも、見えなくなってしまった。

何も与えられていないとすら、思えてしまったわけです。

私にも、よくそんなことがありました。

私も、二人兄弟で、4つ上の兄がいるんですが、兄が持っているもの、もらっているものが、いつも羨ましく思っていました。

象徴的なのが、クリスマスプレゼントです。

ある年のクリスマスプレゼントに、私は、野球のバットとボールをもらいました。

もらった時は、とても嬉しかったんですが、ふと隣に目をやると、兄が、ゲームのソフトをもらっているのが見えた。

途端に、嬉しさが消えて、羨ましさが湧いてきて、終いには、何にももらっていないと泣き始めてしまった。

そんなことがありました。

聞いてみると、兄も兄で、私を羨む気持ちがあったそうです。

お父さんもお母さんも、弟には甘いと、そう思っていたそうです。

まあ、それは、思われてもしょうがない面が、多々あるように思いますが、

そのように、私たちは、ついつい他人と比較してしまう。

そして、他人を羨んだり、妬んだりして見えなくなってしまうわけですが、その時に、ぜひ、考えてみたいと思うんです。

本当に、自分には何もないのか。本当に、何も与えられていないのか。

確かに、ないものもたくさんあります。

でも、良いものも、たくさん与えられているはずです。

他人と比べて、自分を見つめるのではなく、神様の前に立って、与えられている恵みを数えたいと思います。

そうやって、他人との比較で生きるのではなく、神の前に生きる時、私たちは、妬みや憎しみから解放されて、恵みに生きることができるんだと思います。

自分にないものを、誰かが持っていたとしても、関係ない。

その人はその人。自分は自分。

自分にも、ちゃんと、与えられているものがある。

その恵みに、生きていくことができるのだと思います。

妬みや憎しみにとらわれて生きることは、大変苦しいことです。

その苦しみから、解放されていくためにも、他人との比較に生きるのではなく、神の前に生きていきたいと思います。

神の前に立てば、どんな人も、放蕩息子です。

完全ではいられません。

そのことを知った時に初めて、私たちは、神に愛されていることの恵みに気づくことができるのだと思います。

他人との比較に生きるのではなく、神の前に生きる。

神の恵みの中に生きる。

そのことを、心に覚えて、新しい一週間の歩みを始めていきましょう。

お祈りします。

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