2024年3月3日主日礼拝メッセージ「見つけ出してくださる神」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書15章8節〜10節。

新共同訳新約聖書138ページ〜139ページです。

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

「見つけ出してくださる神」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

先週から、イエス様のたとえ話を読んでいます。

先週は、迷い出た1匹の羊を、見つけるまで探す羊飼いのたとえ話でした。

今日は、その続きで、無くした銀貨を、見つけるまで探す女の人の話です。

どちらの話にも、共通しているのは、見つけ出すまで探すってことです。

イエス様は、この二つの話を通して、神様が、私たちを探してくださる。

どんなに私たちが迷子になっても、一生懸命探してくださる。

そして、必ず、見つけ出してくださるんだということを、伝えています。

みんなは、迷子になったことがあるでしょうか。

私は、迷子になった記憶はないんですが、でも似たような経験をしたことがあります。

みんなは、かくれんぼが好きでしょうか。

私は、小さい頃、かくれんぼが得意でした。

ある時も、良い隠れ場所を見つけて、長い間隠れていたんですが、いつまでたっても鬼が来ないんです。

あまりに長い時間、鬼が来ないので、次第に、心が不安になってくる。

「あれ、ちゃんと探してくれているのかな。」

見つからないように隠れていたのに、だんだん、見つけてほしいって思うようになってくる。

そして、我慢できず、ひょこって顔を出してみると、もう誰もいませんでした。

あまりに見つけられなかったので、みんな、帰っちゃったんです。

私は、とても寂しい気持ちになりました。

「みんなどこにいるの。ちゃんと見つけてよ。」って気持ちになりました。

神様は、どんなに私たちが、離れていってしまっても、一生懸命探してくださる。

絶対に途中で諦めたりしない。

必ず見つけ出してくださる。

そして、私たちと共にいてくださるんだって、イエス様は教えています。

私たちが神様を見つけるんじゃない。

神様が私たちを見つけてくださるって、言われています。

だから、神様どこにいるのって、探す必要もないってことです。

前に、神様の握手っていう話をしたことがあります。

覚えているでしょうか。

普通の握手は、手と手を繋いでします。

この握手では、どちらか一方が手を離してしまうと、簡単に離れてしまいますが、神様の握手は違います。

神様の握手は、手ではなく、腕を掴んでします。

腕を掴んでいるので、どちらか一方が離しても、離れることはありません。

これが神様の握手です。

私たちは、気分とか調子によって、神様の腕を掴んだり、離したりしてしまいます。

でも、神様は、決して、私たちの腕を離しません。

どんなに私たちが、手を離してしまっても、神様が繋いでくださっている限り、私たちが、神様から離れることはありません。

どんなに私たちが離れても、神様は決して離れない。

神様は、いつも、私たちと共にいてくださる。

それほどに、神様は、私たちのことを大切に思っておられるってことです。

今日は、そのことを、心に留めたいと思います。

お祈りします。

先週は、1匹の見失った羊を探し求める羊飼いのたとえ話を聞きました。

たとえ他に99匹いたとしても、1匹を探し求める、決して1匹を諦めない羊飼い。

その姿を通して、神様が、一人一人をかけがえのない存在として、大切に思ってくださっていること。

私たち一人一人が、代わりのいない、特別な存在なのだというメッセージを聞きました。

今日は、その続きで、無くした銀貨を見つけるまで探す女性のたとえ話が記されています。

とてもよく似たたとえ話ですけれども、今日は、この話を通して、「悔い改めとは何か」ということと、「一緒に喜ぶ」ということについて、考えてみたいと思います。

先週に続き、今日のたとえ話も、ファリサイ派や律法学者たちに向けて語られました。

彼らは、罪人たちを迎えて食事をしているイエス様に、「なぜあんな人々を迎えて、食事まで一緒にしているのか」と言って、不満を漏らしていました。

先週も言いました通り、当時の人々にとって、食事をする目的というのは、単にお腹を満たすためだけではありませんでした。

むしろ、食事というのは、人と人、神と人との間の親しさの表現であったと、言われています。

共に食卓を囲むことで、人々は、つながりとか、共に生きるということを、確認していたということです。

そんな食卓を、イエス様は、罪人たちと共に、囲んでいました。

そのことが、ファリサイ派や律法学者たちには、理解できなかったのです。

「なぜ、イエスは、あんな人々と一緒に食卓を囲んでいるのか。

そんなことをしたら、罪人たちと同類にみなされてしまうのに、なぜ、進んで彼らと食卓を共にするのか。」

そうやってつぶやく人々に対して、イエス様は、今日のたとえ話を語られました。

そこでイエス様が伝えようとしておられるのは、何よりもまず、神様が、失われたものを見つけるまで、必死に探すお方であるということです。

決して、失われたままでいることを、望んでなどおられない。

無くした銀貨を、見つけるまで探す女性のように、神は、失われた人々、すなわち罪人たちを、見つけるまで探すお方である。

無くした銀貨を探す女性は、ランプに火を灯し、家を掃いて、見つけるまで念入りに探すと言われています。

ランプに火を灯すのは、夜だからではありません。

1世紀のパレスチナの家は、昼間でも暗く、ランプを灯さなければ、探し物もできなかったと言われています。

なぜそんなに暗いのかというと、窓がなかったからだそうです。

窓というのは、贅沢品だったそうで、調べてみますと、窓の数で、税金が取られていたという記述もありました。

ですから、貧しい庶民の家には、窓などなかったのです。

そんな暗い家で、銀貨1枚を見つけるのは、大変なことだったでしょう。

女性は、ランプに火を灯し、さらに家の中を掃くと言われます。

当時の家の床は、土を固めたり、石を敷き詰めたりして、作られていました。

土のひび割れの隙間、敷き詰められている石の間まで、念入りに探すためには、箒で掃いて、銀貨を転がし、その音を聞かなければならなかったのです。

そうやって女性は、暗闇の中に光を灯し、銀貨の音に耳を澄まして、注意深く探すのです。

世の光として、この世の暗闇に入っていかれたイエス様。

そして、そこに生きる人々の声に耳を傾けたイエス様の姿と重なるように思います。

そのようにして神様は、失われた人々を探しておられるということです。

暗闇の中で、迷い、叫んでいる人々の叫びに耳を傾けながら、懸命に探しておられる。

決して、失われたままでいることを望んでおられない。

その一人を見つけるまで、懸命に探しておられるということです。

ここで注目したいのは、罪人が、無くした銀貨にたとえられているということです。

そこには、人間の無力さが語られているように思います。

もちろん、銀貨には、手も足もありません。

自分の力で、主人のもとにかえることはできません。

同じように、人間も、自分の力で、神に立ち返ることはできないということが、言われているのだと思います。

銀貨と同じように、私たちも、神様によって見出してもらわなければ、神のもとにかえることはできないのです。

にもかかわらず、このたとえ話の結論には「このように、一人の罪人が悔い改めれば」と記されています。

ここで大事なのは、悔い改めの意味です。

ここで言われている「悔い改め」とは何でしょうか。

自分の力で、神に立ち返ることでしょうか。

聖書を読み、礼拝に参加し、奉仕と献金を献げ、そうやって自らの意志と力で、神に立ち返っていくことでしょうか。

そうではないと思います。

むしろ、そうできない自分を認め、見つけ出してくださる神を受け入れることではないでしょうか。

自分は、失われた銀貨と同じ。

自分の力で、神のもとに戻っていくことなどできない。

神に見つけられなければ、失われたままの存在であった。

そのことを認め、神に見つけられたことを喜び、感謝して生きる。

それが、今日の箇所で言われている、罪人の悔い改めではないでしょうか。

私たちが神様を探すのではなく、神様が私たちを探してくださる。

そして、見つけてくださる。

そうやって、神に見出された者として、感謝に生きることが、今日の箇所に示されている悔い改めの姿なのだと思います。

これに対して、ファリサイ派や律法学者たちは、自分の力で、神の前に正しい者であろうとしました。

そうできると考え、そうできない人々を見下し、彼らとの関わりを避けていました。

でも、イエス様から見れば、彼らもまた、失われた銀貨に他ならない。

彼らもまた、神に見出されなければ、失われたままの人間に他ならなかったのです。

もし彼らが、神に見出される恵みに、少しでも目が開かれていれば、イエス様の食卓に、不満を漏らすことはなかったでしょう。

むしろ、その喜びの食卓に、彼らも共に、あずかることができたはずです。

「自分たちは正しい人間だ」「罪人たちとは違う」という思い上がりが、彼ら自身を、イエス様の食卓、喜びの食卓から、遠ざけてしまっていたのです。

イエス様は、言われます。

9節「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」

私たちは、この招きにどう応えるでしょうか。

私たちも、神様に見出された者の一人として、失われたものが見出される喜び、その重大さを心に留めたいと思います。

失われた者が見つけられる時、神の国では、祝宴が起こる。

それぐらい、神は、失われた者が見つかった時、喜ばれるということです。

喜びを、自分の中に留めておくことができないほど、

喜びが溢れて、天で宴会を開くほど、その喜びは大きいのです。

それだけ、私たちは、神に喜ばれる存在だということです。

そのような者として、私たちも、互いに、その存在を喜びあえたらと思います。

神様は、そのように、私たちを招いておられます。

お祈りします。

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