聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書11章14節〜28節。
新共同訳新約聖書128ページ〜129ページです。
11:14 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
11:15 しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、
11:16 イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
11:17 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。
11:18 あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。
11:19 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
11:20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
11:21 強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
11:22 しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。
11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
11:24 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
11:25 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
11:26 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
11:27 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房 は。」 11:28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
「祈りは無駄に終わらない」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の聖書の箇所には、イエス様が、悪霊を追い出していたって書いてあります。
どんな悪霊だったかというと、口を利けなくする悪霊だったって書いてあります。
口を利けなくするっていうのは、話すことができなくするっていうことです。
言いたいことがあっても、言えない。話せない。
それは、どれだけ辛いことでしょうか。
みなさんは、どうでしょうか。
言いたいことを、言えていますか。
自分の想いを、ちゃんと言うことが、できているでしょうか。
あるいは、みんなの言葉を、ちゃんと聞いてくれる人がいるでしょうか。
「へいわってどんなこと?」っていう絵本があります。
平和について考える時に、よく読む絵本です。
私たちの礼拝の中でも、何度か読んできた絵本ですが、この絵本の中には、平和ってこんなことじゃないかってことが、色々書かれています。
たとえば、「戦争をしない」。
「ばくだんなんかおとさない」。
「いえやまちをはかいしない」。
それから「おなかがすいたら、だれでもごはんが食べられる」。
「ともだちといっしょに、勉強ができる」っていうことも書いています。
いろんな平和が書いてあるんだけど、その中に「いやなことはいやだって、一人でも意見が言える」って書いています。
「いやなことはいやだって、一人でも意見が言える」。
自分の意見を言うってこと自体、そう簡単なことじゃないと思います。
「こんなこと言ったら、どう思われるだろう。
嫌われちゃったらどうしよう。
傷つけるようなことを言ってしまったらどうしよう。」
言葉は、時に、人を傷つけます。
だから、注意して使わないといけません。
でも、そんなことを考えると、怖くて言葉が出てこないということがあります。
私も、毎週、こうやって、みんなの前で話していますが、正直とても怖いです。
私の言葉で、誰かを傷つけちゃうんじゃないかって、とても怖いです。
だから、メッセージをする時には、お祈りをします。
「どうか、神様の言葉を、ちゃんと伝えられますように。
そして、聞いた人たちが、少しでも、元気とか、勇気を持って生きようって、思ってくれますように。」って、いつも祈っています。
司式者の人にも、祈ってもらっています。
司式者のお祈りの中で、メッセージを語る私のために祈ってくれていると、とても励まされますし、勇気が湧いてきます。
そんなふうに、自分の意見を言うとか、人の前で話すと言うのは、それだけでも勇気がいることです。
まして、その意見が、みんなと違う時。
みんなが「そうだそうだ」って言っている時に、「いや、僕は違うと思う」って言うのは、もっと勇気がいることです。
でも、そういう意見が言えるってこと。
そういう意見を言っても、大丈夫な世界。
意見を言っても怒られないし、ちゃんと聞いてくれる人たちがいる。
それが、平和なんだってことです。
イエス様は、そんな平和な世界を目指しておられたんだと思います。
口を利けなくする悪霊、意見を言えなくする力っていうのは、私たちの中にあります。
意見を聞かない。怒る。馬鹿にする。これは、意見を言えなくする力です。
あるいは、自分の意見なんてつまらない、価値がない。私の意見なんて、言っても無駄だ。
そうやって、自分で自分の口を封じてしまうっていうこともあるかもしれない。
イエス様は、そういう力によって、苦しんでいる人たちを、解放していかれました。
「いやなことはいやだって、一人でも意見が言える」。
そのために、私たちにできることはなんでしょうか。
まず、自分が意見を言う側の場合は、自信を持って意見を言うっていうことも一つでしょう。
「自分の意見なんてつまらない、価値がない」って決めつけない。それも、大事なことだと思います。
意見を聞く側の場合は、どうでしょうか。
怒らない。馬鹿にしない。プレッシャーをかけないってことも大事でしょう。
聞き方次第で、話せない人が、話せるようになるって言うこともあるかもしれません。
障がいや病気によって、話すことが難しい人たちもそうです。
そういう人たちの言葉も、聞き方次第で、受け取ることができます。
そうやって、どんな人でも、自分の意見が言えるようにしていく時に、平和は実現していくんだ。
イエス様は、そういう世界を求めておられるんだっていうこと。
今日は、そのことを、心に覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・悪霊とは何か
今日の箇所には、イエス様が悪霊を追い出しておられたと記されています。
それも、口を利けなくする悪霊だったと記されています。
悪霊と聞きますと、病的なものを想像される方が多いかもしれませんが、必ずしも、そうとは限らないと思います。
先日、「福田村事件」という映画を見ました。
今からちょうど100年前、関東大震災が起こった時に、千葉県の福田村、現在の野田市で起こった事件を題材にした映画です。
どういう事件だったかというと、香川から訪れた15人の行商団の内、妊婦を含めた9名が、朝鮮人と間違われて殺害されるという事件です。
関東大震災があった時に、朝鮮人による放火や暴動、井戸に毒を入れたなどのデマが流されました。
なんの根拠もないデマだったわけですが、その情報をもとに、政府から戒厳令が出され、各地に自警団が組織されました。
そして、実際に、多くの罪のない朝鮮人や中国人が、殺害されるということがありました。
福田村事件も、そのような状況の中で起こった事件の一つです。
映画では、行商団の人たちが、朝鮮人だと決めつけられていく様子が描かれています。
その様子を見た時に、私は、これこそまさに、悪魔的な力だと感じました。
根拠のないデマを、信じる人たち。
それに対して、おかしいと言えない空気感。
おかしいと言えば、非国民扱いされ、村八分にあう。
そのことを恐れて、何も言えない人たち。
普段は、家族想いで、優しい人たちが、鬼の如く、行商の人たちを追いかける姿を見ながら、これこそまさに、悪霊に取り憑かれていた人の姿ではないかと、そう思わされました。
そのように、悪霊という力は、病的なものに限らず、もっと広く、人々を苦しめる力と考えて良いと思います。
口を利けなくする悪霊というのも、周囲の人たちの抑圧的な力のことだったかもしれない。
何も言えない、言わせない、そういう空気感によるものだったかもしれない。
そう思って読んでいくと、群衆たちの中に、イエス様の行為をよく思わない人たちが出てきても、おかしくないように思います。
・
イエス様は、口が利けなくされていた人たちを解放し、話せるようにしました。
それは、話すことができるようになった人たちにとって喜びの出来事であり、そして、何より、神の国が来ていることの証しでした。
しかし、そのことに水をさすように、イエス様にいちゃもんをつける人たちがいました。
彼らは、イエス様のことを、悪霊の頭だと言ったり、イエス様に対して、天からのしるしを見せろと言ったりしました。
「口の利けない人々を話せるようにしたからといって、良い者とは限らない」と、そう言って、イエス様を排除しようとしたわけです。
・
これに対してイエス様は、まず二つの反論をしています。
一つは、悪霊の頭が悪霊を追い出すなんておかしいじゃないかということ。
それでは、内輪揉めしていることになるだろうと、彼らの言っていることの矛盾をつきました。
もう一つは、「もし私が、悪霊の頭の力で、悪霊を追い出しているするなら、あなたたちはどうなんだ。
あなたたちの仲間にも悪霊を追い出している人たちがいるけれども、彼らは、一体何の力で追い出しているのか」というものでした。
イエス様と同じことをしながら、悪霊の頭とは言われず、良い評価を受けている人々がいる。
そのことの矛盾を指摘し、彼らの愚かさを、あらわにされました。
・
その上で、イエス様は、もっと目を向けるべきことがあると語ります。
そんな、足の引っ張り合いをしている場合じゃない。
もっと、大事なことがあるんだということです。
それは何かというと、悪霊が戻ってくるということです。
11章24節から、
11:24 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
11:25 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
11:26 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
イエス様によって追放された悪霊が、帰ってくる。
つまり、口が利けないという問題が、再び起こり得るということです。
イエス様が、何の力で、悪霊を追い出していたかということは、もはやどうでもいい。
何の力であったとしても、話せなかった人が話せるようになったというのは事実で、大事なのは、その人たちである。
その人たちが、再び、悪霊によって苦しめられないこと。
そのことを考えるべきだと、イエス様は、仰っているのだと思います。
考えるべき論点が、ずれていってしまうということは、よく起こることです。
お昼ご飯を、うどんかそば、どっちがいいか話しているのに、ラーメンが好きだとか、スパゲティーがいいとか、もはや麺類でもなく、ハンバーグがいいとか、どんどん論点がずれていってしまう。そんなことがないでしょうか。
今日は、午後に、執事役員会が予定されていますが、執事会でも、時々、話がずれていくことがあります。
たとえば、教会堂の修繕について、建築会社から提案された案について話をしていた時に、十字架の根本の塗装はやってもらえるんですかとか、会堂の外だけじゃなくて、中も修繕しなくていいんですかとか、廊下のシートが破れているとか、ホールのカーペットが汚れているとか、もちろん大事な話ですが、決めなきゃいけないことから、どんどん話がずれていってしまう。
そういうことが、よく起こります。
物事には、順番があって、今話し合うべきこと、今目を向けなきゃならないことというのがあるわけです。
特に、命に関わることには、敏感でいなければならないと思わされます。
今日の箇所で言うならば、話せるようになった人たちの今後について。
話せるようになったからと言って、安心はできない。
再び、話せなくなると言うことが起こりうる。
だから、備えないといけない。
同じ苦しみを繰り返さないために、どうしたらいいかを考えなければならない。
イエス様が、何の力によって追い出しているかなんて、論争している場合じゃないわけです。
何の力であったとしても、話せなかった人たちが、話せるようになったというのは事実で、
大事なのは、問題が繰り返されないように備えることだということです。
・
では、その備えとは、なんでしょうか。
悪霊に支配されず、自分の想いを言い表すためには、どうしたら良いのでしょうか。
そのことを考える上で、今日の最後に記されていますイエス様の言葉。
「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」というイエス様の言葉は、とても重要な、備えの言葉であると思います。
27節、28節の話は、文脈的には繋がりのよくわからない、一見なくても構わないかのように見える箇所ですが、「神の言葉を聞き、それを守る」というイエス様のメッセージを伝えたい。
きっと、そのために、ここに置かれているのだと思います。
「神の言葉を聞き、それを守る」という生き方。
それは、一見すると、堅苦しい生き方、不自由な生き方に思うかもしれません。
その通りだと思います。
「神の言葉を聞き、それを守る」というのは、神と結ばれて生きるということであり、神の支配に生きるということです。
何にもとらわれず、自由奔放に生きるというのとは違います。
なぜ、イエス様は、自由に、思いのままに生きろと言われないのか。
なぜ、自由奔放ではいけないのか。
それは、自由奔放という生き方が、自分に捕らわれた生き方だからです。
自分で自分を縛り付けてしまう。
自分で自分を抑えつけてしまう。
子どもメッセージの中で、「自分の意見なんてつまらない、価値がない」そう決めつけて、自分で自分の口を封じてしまうことがあるって話をしました。
私が、私を抑圧する。
私が、私の悪霊になり得るということです。
自由奔放という生き方は、実は、自由な生き方ではなく、自分に捕らわれた生き方なのです。
問われているのは、誰の、どういう言葉を信じて、生きるかということです。
イエス様は、「神の言葉を聞き、それを守る。それこそ、幸いな生き方だ」と教えています。
「神の言葉を聞き、神の言葉を生きる。」それは、神と結ばれて生きるということであり、神の国を生きるということです。
その時に、私たちは、私たちを縛り付ける、様々な不自由さ、思い込みや決めつけからも、解放されていくことができるのです。
そして、生きる望みに、与っていくことができるのです。
「神の言葉を聞き、神の言葉に生きる。」
そこに、捕らわれからの解放があり、真の自由がある。
そのことを覚えて、新しい1週間の歩みに出掛けていきましょう。
お祈りします。