聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書11章1節〜4節。
新共同訳新約聖書127ページです。
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
「祈り〜つながる恵み〜」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日もまず、子どもメッセージからしたいと思いますが、今日のテーマは、お祈りです。
お祈りについて、考えたいと思います。
みなさんは、お祈りをしたことがあるでしょうか。
どんな時に、どんな言葉で、お祈りしているでしょうか。
まず、教会に来た時、お祈りすることがあると思います。
教会では、たくさんお祈りをします。
礼拝の中にも、お祈りがあります。
教会学校の時もお祈りをします。
毎週水曜日には祈祷会って、みんなで集まって、お祈りをする会もあります。
そんなふうに、教会に来ると、お祈りすることが、たくさんありますが、それ以外にはどうでしょうか。
教会にいる時以外で、祈ることはあるでしょうか。
ご飯を食べる時に、お祈りをしているっていう人もいると思います。
それから、夜寝る時に、お祈りをしているっていう人もいるかもしれません。
小さい頃、私は、夜、眠れない時に、よくお祈りをしていました。
寝る前に、怖いテレビを見ちゃったり、次の日に大事な試合があって緊張して眠れなくなった時に、よくお祈りをしていました。
それ以外にも、心配なことがあった時、困ったことがあった時、テストの前とか、試合の前とか、上手くできますようにって、よく祈っていました。
みんなは、どうでしょうか。
聖書を読んでみると、イエス様も、よく祈っています。
イエス様は、何を祈っておられたんでしょうか。
イエス様の祈りって、どんな祈りだったんでしょう。
今日の箇所には、そのイエス様のお祈りが、記されています。
「主の祈り」って呼ばれるお祈りです。
みなさんも、知っていると思います。
ちなみに、よく祈る「主の祈り」は、マタイによる福音書の版の主の祈りです。
今日は、ルカによる福音書の主の祈りなので、ちょっといつものとは違いますけれども、でも、内容は、ほとんど変わりません。
毎週、礼拝の中で祈っている祈りですが、改めて、読んでみると、とても大事なことに気づかされます。
今日は、その中から一つだけ、覚えておきたいことがあります。
それは、主の祈りが、「わたしたち」のお祈りだってことです。
「わたし」じゃなくて、「わたしたち」のお祈り。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」
主の祈りは、「わたし」一人の祈りじゃありません。「わたしたち」の祈りです。
この「わたしたち」の中には、たくさんの人たちがいます。
何よりもまず、イエス様がいます。
主の祈りは、イエス様のお祈りですから、「わたしたち」の中には、まずイエス様がいます。
それから、この主の祈りを受け継いできた、教会の人たちがいます。
もちろん、大分教会だけじゃありません。
日本中の教会、いや、世界中の教会の人たちがいます。
教会の人たちだけでしょうか。・・・そうではありません。
「必要な糧を毎日与えてください」だから、食べ物を求めている人たち。
「罪を赦してください」だから、罪の赦しを求めている人たち。
「誘惑に遭わせないでください」だから、苦しみの中を頑張って生きている人たち。
そのような人たちも、「わたしたち」の中にいます。
主の祈りを祈るっていうのは、そういう人たちの中に入っていくってことです。
そういう人たちの仲間になるっていうことです。
どんなに一人ぼっちだったとしても、「主の祈り」を祈ることで、私たちは、仲間になれる。
どんなに部屋の隅で、一人で祈ったとしても、「主の祈り」を祈ることで、私たちはつながれる。
世界中の人たちと、そしてイエス様と、つながることができる。
主の祈りっていうのは、そういう祈りなんだってことを、今日は、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・祈りを学ぶ
子どもメッセージに続き、今日は、祈りについて考えたいと思います。
祈りは、ごくありふれた行為です。
信仰者はもちろん、特別信仰を持っていない人も、祈ったり、願ったりすることがあるでしょう。
8月でいえば、8月6日と9日。
広島、そして長崎の原爆の日に、そのことを覚えて、祈られた方が、たくさんおられたでしょう。
あるいは、夏の甲子園。
今年は、107年ぶりに慶應高校が優勝しましたけれども、応援している高校が勝つように、あるいは、応援している選手が活躍するように、手を合わせていた人たちもいたと思います。
そのように、特別教わらなくても、みんな、自然に祈っているわけですが、
しかし、どう祈るべきかを知っている人は、そう多くはないと思います。
今日の箇所で、イエス様が、「祈る時には、こう言いなさい」と教えてくださっていることは、大変ありがたいことです。
時に私たちは、どう祈ったらいいかわからない現実に置かれることがあります。
祈る言葉もわからないし、祈る元気も湧いてこない。
祈ったって、何にもならない。祈っても、無駄だ。
そう思ってしまって、祈りたくても祈れない時があります。
そんな私たちにも、祈りが与えられている。
自分の中から言葉を絞り出さずとも、祈る言葉が与えられている。
これは、とてもありがたいことだと思います。
今日は、そのイエス様の祈りに学びたいと思います。
・主の祈り
教えられている祈りは「主の祈り」と呼ばれています。
先ほども言いました通り、よく祈られている「主の祈り」は、マタイ版のものでありまして、ルカ版は、それよりも短くなっています。
どちらがオリジナルかということについては、諸説ありまして、確かなことはわかりません。
大事なのは、その祈りにおいて、教えられている中身を理解することです。
宗教改革者のマルティン・ルターは、主の祈りのことを「教会史上最大の殉教者」と呼び、「唱えられることはあっても祈られることがない」と言いました。
非常に大切な指摘だと思います。
主の祈りは、キリスト教会において、最も有名な祈りです。
教会では、ことあるごとに、この主の祈りを祈ります。
礼拝でも、祈祷会でも祈りますし、集会を閉める時に、主の祈りを祈るというようなことも多々あります。
そんな祈りですから、教会に通っているうちに、自然と暗記してしまうもので、私も、小さい頃から、覚えておりました。
でも、意味内容を理解し、心を込めて祈っていたかと言われると、そうではなかったと思います。
特に、私が覚えておりました主の祈りは、古ーい、文語訳の主の祈りでした。
「天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせ給え、御国を来たらせ給え、御心の天に成る如く地にもなさせ給え」「汝のものなれば成り」とか、普段使わない言葉がたくさんありました。
確かに、ルターが指摘したように、祈るというよりも、呪文のように唱えていたという方が、近かったと思います。
大分教会では、新共同訳聖書に書かれている主の祈りを祈っています。
そちらの方が、わかりやすい言葉だと思います。
大分教会に来て、最初は、慣れ親しんだ主の祈りと違ったので、しっくりこないことが多かったのですが、意味内容を理解するとか、心を込めて祈るということを考えると、現代語で祈るということは、大変重要なことだと思っています。
主の祈りは、呪文ではありません。
漠然と唱えるのではなく、心を込めて祈る者でありたいと思います。
そのためにも今日は、主の祈りの中身に、心を向けたいと思います。
・主の祈りの内容
主の祈りは、3つの部分に分けることができます。
神への呼びかけと、神についての祈り、そして、人についての祈りです。
それぞれに、重要なポイントがあります。
①呼びかけ
まず呼びかけですけれども、イエス様は、神様に対して「父よ」と呼びかけています。
これは、アラム語で「アバ」という言葉だそうです。
それは、乳離れした子どもが、最初に教わる言葉だと言われています。
私たちの感覚で言うと「パパ」とか「お父ちゃん」とか、そういう言葉に当たるでしょう。
イエス様は、神様のことを、そのように、非常に親しく呼んだのです。
そして、私たちにも、そのように呼びかけることを教えておられます。
つまり、私たちも、イエス様と同じように、親しく神様を呼んでいいということです。
幼子のように、自分のペースで、呼びたい時に呼んでいい。
神様の顔色を伺ったり、神様に気を使ったりしなくていい。
私たちが、幼子に呼ばれて嬉しいと思うのと同じように、神様も、私たちが呼ぶ声に喜んで耳を傾けてくださるのです。
主の祈りに連なることによって、私たちは、そんなふうに神様と、親しくつながることができるのです。
②神についての祈り
この呼びかけに続いて、まず、神についての祈りが教えられています。
「御名が崇められますように。御国が来ますように」という祈りです。
御名というのは、神様の名前のこと。
御国というのは、神様の国のことを言います。
それが、崇められるように、神様の国が来ますようにと祈るということは、つまり、神様の名前が汚されている現実があるということ、あるいは、悪魔的な支配が終わっていないということを示しています。
それは、次の、人についての祈りにつながっています。
そこでイエス様は、「必要な糧を与えてください」「罪を赦してください」「誘惑に遭わせないでください」と祈っています。
この祈りは、必要な食べ物を持たない人たちの祈りです。
今日得られても、明日得られるかどうかわからない、そんな生活を強いられている人たちの祈りです。
あるいは、罪を赦されず、罪の中に生きる人たちの祈りです。
やり直すことが赦されない、立ち返ることも赦されない。そんな絶望の中を生きる人たちの祈りです。
そしてまた、この祈りは、誘惑に怯えている人たちの祈りです。
幾度となく、試練に襲われ、耐えられず、不安を覚える人たちの祈りです。
神の名が汚されている現実、神ならざるものが支配している現実とは、まさに、そのような現実です。
食べ物がない人たちがいるという現実。
やり直すことが赦されない人たちがいるという現実。
辛いことが次から次へと起こり、怯えている人たちがいるという現実。
イエス様は、そのような現実の只中にいて、苦しむ人々と一緒に、この祈りを祈っています。
主の祈りを祈る時、私たちは、そのような世界の現実、そこに生きる人々とつなげられるのです。
・「わたしたち」の祈り
子どもメッセージで言いました通り、主の祈りの主語は「わたし」ではなく、「わたしたち」です。
私の願いや、私の想いではなく、「わたしたち」の願い、「わたしたち」の想いで祈る。
これは、日頃、自分の願いや自分の思いばかりを祈っている者にとって、とても重要なことであると思います。
例えば皆さん、台風が来た時、どんなふうに祈るでしょうか。
今年も、大きな台風が来ました。
沖縄をはじめ、九州も本州も、大きな影響を受けました。
8月初めに起こった台風は、本当に、おかしな進路の台風でした。
一旦沖縄から離れたのに、また戻ってきて、そして、九州全域を覆うように北上していく。
ちょうどその時期に、関東から来る友人たちと、旅行に行く計画がありましたので、私は、「どうか台風がそれますように」と祈っていました。
すると、次第に台風の進路が西へ西へとずれていきまして、朝鮮半島の方へと抜けていきました。
私はそれを見て、良かった、ありがとうと思いました。
本当に、自分のことしか考えていない。
私は良かったとしても、そのことによって、台風に襲われている人たちがいる。
そのことに、想いを向けられない。
そんな私たちが、時にいるのではないでしょうか。
主の祈りは、そんな自己中心的な私たちを、他者へと解放します。
つながりへと、導いてくれます。
「私は食べる物があるから大丈夫」ではなく、食べるものがない人たちのことを思う想いを与えてくれます。
「自分は、赦されているから大丈夫」ではなく、罪人の赦しを求める想いが与えられます。
そうやって、イエス様と繋がり、誰かとつながって祈る時、自分もまた一人じゃないことに気付かされます。
誰かのために祈る時、自分もまた、誰かによって祈られている存在であることに気づくわけです。
自分で自分のことを祈るよりも、誰かに祈られることの方が、何倍も力になります。
以前、祈祷会の時に、ある方から、「なぜ祈りの課題を分かち合うんですか?」と聞かれたことがあります。
それは、祈られることが、嬉しいことだからです。
祈祷会で、参加者同士で祈り合う時間がありますが、自分のことを祈られると、とても嬉しくなりますし、とても励まされます。
私のために祈ってくれている人がいる。
私は、一人じゃない。
そのことを覚えるだけで、力が湧いてきます。
主の祈りは、そのことを、教えてくれる祈りです。
・つながる恵み
主の祈りを祈る時、私たちは、イエス様とつながり、神様とつながり、そして、世界中の人たちとつながることができます。
そして、そのことによって、私も、祈られている。
私が誰かのために祈っているように、私も、誰かによって、祈られている。
そのことを教えられます。
このつながりこそが、祈りの、とりわけ、主の祈りの恵みなのだと思います。
主の祈りを、祈りましょう。
互いを覚え合いながら、食べ物のない誰かのために、赦しを求める誰かのために、不安を覚える誰かのために、祈りましょう。
そして、自分も祈られている。
自分は、決して一人じゃない。
そのことを、覚えるものでありたいと思います。
お祈りします。