聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書24章13節〜27節。
新共同訳新約聖書160ページ〜161ページです。
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者 でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
「せまい、せまい!」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、イースターです。
イースターって何の日か知ってますか?
そう、イースターっていうのは、イエス様が復活された記念日、お祝いの日です。
そのことを覚えて、今月は、「きゅうこんのなかには」って讃美歌を歌います。
さっき、みんなで歌いましたが、どんな歌だったか。
もう一度、1番の歌詞を、読みたいと思います。
球根の中には 花が秘められ、
さなぎの中から いのちはばたく。
寒い冬の中 春はめざめる。
その日、その時をただ神が知る。
これは、チューリップの球根です。
なんか玉ねぎみたいですけれども、この玉ねぎみたいな球根から、綺麗なチューリップの花が咲きます。
これは、モンシロチョウのさなぎです。
これはなんか木の枝みたいですけど、でも、このさなぎから、こんな綺麗な蝶が生まれてきます。
チューリップも、モンシロチョウも、こんなのから生まれてくるの?って思うようなところから生まれてきます。
同じように、イエス様も、お墓の中から、復活されました。
イエス様のお墓は、こんなお墓だったようですが、
お墓ってどんな所ですか?ーお墓っていうのは、死んだ人が、収められている所ですよね。
そんな場所から、人が出てくるなんて、あり得ないことですが、
でも、イエス様は、お墓の中から、復活されたんです。
球根の中から、チューリップの花が生まれてくるように、イエス様も、お墓の中から復活された。
こんなのから生まれてくるの?って、そう思うようなところから、命は芽生えるってことです。
だから、諦めるなって、聖書は、私たちに言っているんだと思います。
もうダメだ。もう無理だ。
生きていると、そんなふうに思ってしまう時があります。
私は、受験に失敗した時、そう思いました。
合格発表の日に、自分の番号がなかった時、自分の人生は終わったって、本当にそう思いました。
そんなふうに思ってしまう時が、みんなにもあるかもしれない。
そんな一人一人に、聖書は、そこから始まることがあるって、教えているんです。
球根の中から、チューリップの花が咲くように、
お墓の中から、イエス様が復活されたように、
もうダメだ、人生お終いだって思う、そこから、新しい歩みが始まる。
お終いだって思う、そこが、実は、新しいスタートなんだって、聖書は教えているんです。
キーワードは、「おわりが、はじまり。」です。
お終いだって思う、そこが、新しいスタートなんだ。
そのことを、今日は、心に覚えながら、1週間の歩みを、始めて行きましょう。
お祈りします。
・十字架で終わらない
イースターおめでとうございます。
今日は、イースター、イエス様の復活をお祝いする日です。
キリスト教の行事で、一番有名なのはクリスマスだと思いますが、
信仰の成立ということで言いますと、イースターは、クリスマスよりも、重要な記念日です。
イースターがなければ、弟子たちの歩みは、十字架で終わっていたかもしれない。
イースターがなければ、教会の歴史も、きっとなかったでしょう。
イースターがあった。
十字架で終わらなかった。
十字架という苦しみを受けられたイエス様が、復活という栄光を与えられた。
そこに、キリスト教信仰の根本があるように思います。
つまり、苦難は苦難で終わらないという信仰です。
私たちの歩みは、絶対に、苦しみで終わらない。
苦しんだ者は、必ず、栄光へと導かれていく。
それが、復活の信仰です。
今日はその、十字架で終わらない、苦難は苦難で終わらないという信仰を、あらためて、心に覚えられたらと思います。
・目が遮られていた
今日の箇所には、復活したイエス様と出会った、二人の弟子たちの話が、記されています。
注目したいのは、二人の弟子の目です。
その目は、遮られていたと書かれています。
「遮られる」というのは、ご存知のように、「邪魔をされる」とか、「妨げられる」という意味の言葉です。
「雲に遮られて、月が見えない」とかですね、
「高いマンションに遮られて、太陽が見えない」とか、そんなふうに使う言葉ですが、
16節見てみますと、二人の弟子は、目が遮られていて、イエスだとわからなかったと、書かれています。
目の前にイエス様がいるのに、わからない。
話もしているのに、相手がイエス様だって、気づけない。
どういうことでしょうか。
だって、二人は、イエス様の弟子だったわけです。
イエス様と、寝食を共にしながら、一緒に旅をしてきた弟子だった。
それなのに、イエス様だってわからない。
何が、彼らの目を、遮っていたのでしょうか。
どうして二人は、イエス様に気づけなかったんでしょうか。
それは、きっと、二人にとってイエス様が、すでに死んだ人だったからです。
・この数日の話
今日の箇所は、「ちょうどこの日」という言葉で始まっていますが、
これは、イエス様が十字架に架けられてから三日目を指します。
二人は、エルサレムからエマオに向かって、話しながら歩いていました。
話というのは、もちろん、イエス様のことでした。
何でイエス様は死んだのか。
何で、議員たちは、イエス様を、十字架に架けたのか。
そんなことを、永遠話し合いながら、二人は、歩いていたわけです。
するとそこに、イエス様が近づいて来られた。
そして、二人の話に入っていくわけです。
イエス様は、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と、二人に尋ねました。
二人は、暗い顔をして立ち止まり、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」と、答えます。
「あなただけはご存知なかったのですか。」
なんかこう、怒りを感じる言葉ですね。
「エルサレムにいたのに、この話がわからないなんて、そんなのあなただけだ!」
「あなたは、そんなことも知らないのか。」っていうニュアンスですね。
それでもイエス様は、とぼけたように「どんなことですか」と繰り返し問うわけです
そんなイエス様に、二人は、「この数日」に起こったことを話すわけです。
イエスは、行いにも言葉にも力のある預言者だった。
それなのに、祭司長や議員たちは、十字架につけてしまった。
あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていのに、十字架につけてしまった。
特徴的なのは、全部、過去形だということです。
「こうでした。こうでした。」って、すでに終わったことのように、語っています。
力のある預言者だった。
イスラエルを解放してくださると望みをかけていた。
望みをかけていたんだけれども、だめだったっていうことを、言っているわけです。
・この数日じゃ見えない
それを聞いてイエス様は、こういうわけです。
25節「ああ、物分かりの悪い者たちだ。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
とぼけたようなことを言っていたイエス様が、突如として、厳しい言葉を言い始める。
「なんて物分かりが悪いんだ。
あなた方、何もわかってない。」
そう言って、イエス様は、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明し始めたと、記されています。
ここが、今日の大事なポイントです。
「この数日」のことを話した弟子たちに対して、イエス様は、モーセとすべての預言者から初めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明し始めたわけです。
話している内容は、両方ともイエス様のことなんですが、イエス様を見つめる視野の広さが、全然違うんです。
弟子たちは、「この数日」から話しているのに対して、イエス様は、モーセとすべての預言者から、語っているんです。
モーセって、イエス様の時代から、1000年以上も前の人ですよ。
でも、そこから話さないと、イエスはわからないって、イエス様は言われるわけです。
つまり、イエス様が指摘しているのは、「弟子たちの視野の狭さ」です。
弟子たちの目は、「この数日」に注がれていました。
「この数日」というのは、イエス様が十字架にかけられるに至った数日のことです。
その数日だけを見て、彼らは絶望していた。
その数日だけを見て、望みは尽きたって、判断していた。
それじゃだめだって、イエス様は言いたいわけです。
そんな狭い視野で見ているから、見えないんだ。
もっと広い視野で、モーセから始めないと、見えないんだって、イエス様は、そう言われるわけです。
お前たちが見ているのは、たったこれだけ。
そうじゃなくて、もっと広い視野で見ないと、真実は見えない。
子どもメッセージで、「きゅうこんのなかには」の話をしましたけれども、弟子たちが見ていたのは、まさに球根の状態です。
球根だけ見て、綺麗じゃないからって、捨ててしまうようなものです。
弟子たちは、「十字架からもう今日で三日目になる」って、言っています。
もう三日目だって言っている。
それに対して、イエス様は、まだ三日目じゃないかって、言っているんです。
結論を出すには早すぎる。
まだ、三日目じゃないかって、そう言われているんです。
・復活信仰に生かされて
私たちはどうでしょうか。
狭い視野で結論を出していないでしょうか。
目の前のことだけを見て、判断してしまっていないでしょうか。
子どもメッセージで言いましたように、私は、高校受験に落ちた時、人生が終わったと思いました。
受験に落ちただけで、人生の結論が出たかのように、思ってしまった。
当時の私にとっては、受験に落ちただけ、なんてとても思えなかったんです。
狭い視野でしか、自分の人生を見れなかった。
でも、人間みんな、そうなんじゃないでしょうか。
どんなに人生経験の深い人であっても、イエス様のような見方をすることは、できないと思います。
球根の中に、花が秘められているというのは、知っていますので、できますけれども、
墓の中に、命を見出すなんてことは、できないことです。
私たちの目に、墓は墓としか見えないし、十字架は、十字架としか見えないわけです。
だから、信仰を持つことが、大事なんです。
イエス様を信じる信仰。
その信仰の目で、見つめ直すということが、必要なのです。
イエス様の言葉、イエス様の視点をかりて、見直してみる。
その時に、墓の中に命が隠されていること、
絶望にしか見えない十字架に、希望が隠されていることを、見ることができるのです。
私たちの目や、この世の知恵で見えないことを、イエス様の言葉から、見直す。
私たちが、毎週教会に集って、聖書を読んでいるのは、まさに、そのためなのだと思います。
私たちの目では、望みがないとしか思えない状況を、イエス様の言葉を聞いて、信仰の目で見直す。
そして、希望をいただいていく。
そのために私たちは、教会に集い、イエス様の言葉に聞いているのだと思います。
今日、イエス様は言われます。
人生は、十字架で終わらない。
人生は、苦しみで終わらない。
苦難は復活に、苦難は栄光につながっている。
墓の中に、復活の命が隠されていたように、絶望の中に、希望が隠されている。
苦しみの中に、喜びが隠されている。
そう信じて、苦しい時も、生きていきましょう。
復活の信仰に、生かされて参りましょう。
お祈りします。