聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ローマの信徒への手紙5章6節〜8節。
新共同訳新約聖書279ページです。
5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
「罪ゆるされて」と題して、武宮陽子姉神学生に、メッセージをしていただきます。
子どもメッセージ
今日の聖書の箇所は難しくありませんでしたか。
わたしたちが,生きている世の中では、罪をおかしたら、罰というものをうけなければいけませんね。例えば、人のものを盗んだり、傷つけたりしたら罰せられるのは当たり前です。それは、法律という決まりごとが社会にはあって、法律をやぶったら罰をうけることになっているからです。
けれども、心のよごれからでくる、お父さんやお母さんに嘘を言うことや、おともだちの悪口を言っても、おまわりさんに、つかまえられることはありませんね。
それでは罰せられないから、そのままでいいのでしょうか。ちがいますね。
実は、世界と人間の心をおさめていらっしゃるのは、神様なのです。
旧約聖書の創世記1章というところに神様は、太陽や月、空や海、動物などをおつくりになったとあります。人間も神様がおつくりになりました。
この神様は、きよいおかたですから、人間の心のよごれをそのままにして見過ごすことができません。私たちが神様を知らない人のように、うそ一つ言っても、神様は心を痛めて罪を滅ぼそうとしておられます。
だけど、神様は私やあなたを罰しようとはされないで、ひとり子イエス様をかわりに十字架につけて罰せられました。
このイエス様の血は人間の心のよごれ、罪をきよめてくださいます。
神様が人間を愛する子と呼んで、すべての人が喜んで生きることができるようになるためです。このことを「福音」、ギリシャ語で「ユーアンゲリオン」と言います。
人間を罪から救い、神様と元どおり親しくなる「良い知らせ」のことです。どうぞこのことを聞いて、心の中に受け入れてください。
マラソンをしたことがありますか。とても長い距離を走る競技ですね。
昔ギリシャという国でペルシャと戦争があって、ギリシャがマラトンというところで勝ちました。マラトンの戦いでの勝利を、42.2キロ離れた首都のアテネまで、少しでも早く走って知らせる人が選ばれました。このことを「伝令」といいます。この伝令が伝えた「勝利の知らせ」のことも「ユーアンゲリオン」と言います。WBC野球が行われていますけれど、野球でも監督の指示を選手に伝える人のことを、「伝令」と言うそうです。私たちも、良い知らせを伝える人になりましょう。
お祈りします
つくり主である神様、新しい一週間をありがとうございます。
イエス様が、わたしの心のよごれをきれいにするために、十字架におかかりになり、死んでくださったことを感謝します。そして、今もいつも私たちといっしょにいてくださることも、ありがとうございます。このことをもっと信じることができるように導いてください。今、村田先生は、ご旅行中です。どうぞ、帰りの道もおまもりくださいますように。このお祈りをイエス様のお名前によって、お祈りします。
礼拝メッセージ
皆様、おはようございます。
村田牧師は休暇で、本日は札幌へ帰省しておられます。
先生とお会いしたいと思われていた方、ごめんなさい。来週日曜日は村田牧師のメッセージですので、来週もぜひ教会へきてください。
さて私は、九州バプテスト神学校の神学生でした。
この度卒業をゆるされまして、先週、卒業式に行ってまいりました。家事や仕事と勉強の両立は大変ではないですかとよく聞かれましたが、それよりも知らないことを学べる喜びのほうが強く、本当に感謝な日々でした。皆様からお祈りと励ましをいただき、心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
前置が長くなりました。
今日は、「キリストの愛」について考えたいと思います。キリストの愛とはどのようなものでしょうか。
聖書には、さまざまな形で、キリストの愛が語られています。
あなたを置き去りにせず見捨てないキリストの愛(へブル13:5)、あなたを回復させるキリストの愛(マタイ11:28-30)、あなたの必要をすべて満たすキリストの愛(フィリピ4:10)など、たくさんの愛があります。
パウロが言うようにキリストの愛は(エフェソ3:18-19)広く、長く、深いものです。それは、少しずつ滴り落ちるのではなく、圧倒的な勢いでわたしたちに押し寄せ、だれも止めることができないくらい、あふれるほどに注がれている愛です。
気が付いていらっしゃらないかもしれませんが、あなたはその愛にすっぽりと包まれています。
聖書を読めば読むほど、そのことを教えられます。そのような中で、今日の聖書に書かれているキリストの愛とは、どのようなものでしょうか。
一言でいえば、それは、罪人のために命を献げる愛です。
大事なのは「罪人のために」というところです。
7節には「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」とあります。
なるほど、どちらを愛しますかと言われたら、正しい人よりも善い人かなと思わされます。どちらにしても、正しい人も、善い人も愛される理由があるように思います。
でも、罪人はどうでしょうか。
罪人に与えられるのは、本来、愛ではなく裁きや罰です。
それが、この世の常識だと言って良いでしょう。でもキリストはそうではないのです。キリストは罪人を愛され、罪人のために命を献げるのです。
一般的には罪を犯した人を「罪人」と呼びます。
けれども、聖書では罪を犯すのは結果であって、その原因は罪の性質を持っているからで、すでに、それゆえに「罪人」であるといいます。
川の源流が汚れていたら、下流はきれいにならないのと同じですね。
余談ですが、聖書には2種類の罪が書かれています。ここでパウロが言う罪は、一つ一つ数えることができない単数形・英語sinです。
ですから、キリストが死なれたのは、神の前に失われた人間の根源的な罪を回復するためであったということになります。
複数形の罪sinsは例えば、マルコ2章の「あなたの罪は許された」に出てくるような、数えられる罪、律法違反の罪という理解になります。
自分のことで恐縮ですが、以前の私は平安と喜びと自由がない人間でした。
でも、聖書によって思い煩わない秘訣を見出しました。
私はずっとこの世は、自分の力で生きなければならないと、教えられてきました。
誰にも迷惑をかけないで、一生懸命生きることが素晴らしいことだと信じていました。若いころ「一生懸命生きましょう」と遺言のような言葉を残して亡くなった友人の分も、がんばらなくてはと思って生きていました。
家事も育児も趣味も一生懸命に取り組もうとしていました。でも、思うようにはいかないことばかり、悲しくなったり、時には落ち込んで、自分を責めることもありました。
そんな時、子どもたちのキリスト教幼稚園の教会学校に誘われました。
あくまでも私の場合ですが、牧師からヨハネの福音書1章を聞いたときは、神様が触れてくださったようで嬉しかったですね。その箇所を少し朗読させていただきます。
「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらず、成ったものは何一つなかった。言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」14節「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
自分が努力して信じようとしなくても、神が言となり、同じ人間になって私たちのところへ降りて来てくださったということがわかったのです。
私が何かをなしたわけでも、強制されたわけでもありません。
神を知らなかった私に、イエス・キリストの光が指し示されたことによって、心の暗闇が照らされ、自分中心に生きてきた罪が明らかになりました。
「このように生きるべきである。」から「生きていてよい。生きることを許されている。」と思えるようになったのです。
この、一方的に愛していてくださっているキリストの愛を知った時は、心からホッとしました。
正しく生きようとしなければ、善い人にならなければ、そう願いながらも、できない。
そのような私をキリストは、そのままで受け止めてくださっていました。
愛してくださっていました。そんな私のために十字架にかかってくださったのです。
無理をしなくても、このままで受け止められている・・・。私の生き方が変えられていきました。出エジプト体験でした。
皆様の中には、正しく生きなければ、良い人にならなければと、頑張っている方がいるかもしれません。
それは。決して悪いことではありません。
ただ、完璧な人間などいません。どんな人にも、必ず弱さや欠けがあるものです。
正しく生きようと思っても、そうできない時もあるものです。ましてや、不安を抱きながらも、前を向いて自分の足でしっかりと立ち、それどころか喜んでいることは、自分ではどうすることもできません。でも、あなたは、あなたのままでよいのですと、神様は言われます。
ベツレヘムで生まれ、不信心な者のため、ゴルゴタで十字架につけられた、イエス・キリストの語りかけを聴く時には、本当にそのことがゆるされています。
キリストご自身が私たちの弱さの只中に踏み入って『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか』と叫ばれたのは、キリストが死んで、まさに世が勝つためでした。
十字架は私のためと感謝して受け取るなら、恵みとなります。
神様を「天のお父様」と呼ぶことができるように変えられます。
神様の方から「愛する子よ」と手を差し出してくださるのを、ただ「ありがとう」と受け取るだけで良いのです。
訪れの時、新しい時の始まりなのです。
そのままを、キリストは受け止めていてくださいます。
キリストに愛されている者として生きていきましょう。
失敗したとき、ダメだなぁと思う時、そんな自分をキリストは愛してくださっています。その「キリストの愛」のことを思い出しましょう。「ありがとう」と言って、感謝して生きていきましょう。
お祈りします。
天のお父様、今日も生きることができるのは、あなたの賜物です。
あなたのすべての慈しみを、いよいよ深く感謝する心をお与えください。
あなたは私たちに愛を尽くしてくださいました。
これまで、片時もあなたの恵みに守られなかったことはありませんでした。
どんな時にも、自分一人の力によって立つように命じられたことはありませんでした。
自分のことに気を取られて、あなたを忘れていた時にも、あなたは全宇宙を収める方でありながらも、なお、小さい者を覚えていてくださいました。
今、み前にひざまずく私たちを、キリストの十字架に生かされ、救われた人々の群れに加えてください。
世々にわたって、主のみ苦しみから流れ出た救いの力を、今、私たちのたましいにも注ぎ込んでください。
受難節にあなたに思いを寄せ、あなたの大いなる愛に、罪のゆるしを見出すことができますように導いてください。
キリスト、神の子羊よ、主イエス・キリストに栄光がとこしえにありますように。
アーメン