聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書8章26節〜39節。
新共同訳新約聖書199ページ〜120ページ。
8:26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
8:27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとして いた。
8:28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」
8:29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていた が、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
8:30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
8:31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
8:32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
8:33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。
8:34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。
8:35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足 もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。
8:36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。
8:37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、 イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
8:38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。
8:39 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
「解放〜新しいものとの出会いを通して〜」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の箇所には、長い間、悪霊に取り憑かれていた人がでてきます。
悪霊に取り憑かれるって、一体どういうことでしょうか。
取り憑かれるっていうのは、乗り移られるとか、操られるってことです。
自分ではない何者かに、操られる。
そのせいで、自分の思い通りにできなくなってしまう。言葉も行動も。
本当は、そんなこと言いたくないのに言っちゃうとか、本当は、そんなことやりたくないのにやっちゃうとか。
全然、思い通りにできなくなってしまう。
イエス様と会った時、この人は、服を着ていませんでした。
本当は服を着たいのに、着ていられない。
もしかしたら、破いてしまっていたのかもしれません。
手は鎖でつながれていて、足には、足枷もされていたって書いています。
まるで、牢屋に入れられていた囚人のようですが、
きっと、そうでもしないと、暴れ回って大変だったのでしょう。
人を叩いたり、ものを壊したり、そんなこともあったのかもしれません。
本当は服を着たいのに、着ていられない。
叩いたり壊したりなんてしたくないのに、そうせずにはいられない。
そのせいで、友達もいませんでした。
家族とも一緒にいられなかった。
結果、彼は、墓場を住まいとしていたって、書いてあります。
お墓に住まなければならなかった。
怖かったでしょう。寒かったでしょう。
でも、誰も会いになんてきてくれる人はいない。
たった独りで、墓場に住まなければならなかった。
そんな彼のもとに、イエス様はやってこられるんです。
向こう岸から、舟で、こちらに近づいてこられる。
そして、彼と出会われるんです。
でも、彼は、せっかくイエス様と会ったのに、「かまわないでくれ。」って言っちゃうんです。
本当は、「助けて」って言いたいのに、悪霊のせいで、そう言えない。
「俺にかまうな」って言ってしまった。
でも、イエス様は、彼のもとを動きませんでした。
それは、イエス様が、彼の本当の気持ちをわかっておられたからです。
「かまうな」っていうのは、本当の彼の言葉じゃない。
本当は、助けてほしい。
痛いし、苦しい。助けて。
それが、彼の本当の気持ちだって、イエス様はわかっておられた。
だから、イエス様は、彼のもとにとどまり、彼から悪霊を追い出したのです。
イエス様は、わかっていてくださる。
それが、今日みんなと一緒に覚えたいメッセージです。
イエス様は、わかっていてくださる。
私たちの苦しみや痛みを、わかっていてくださる。
声には出せない「助けて」って心の声を、聞いてくださっている。
みんなは、本当の気持ちを、素直に言えているでしょうか。
親とか兄弟とか、友達とか。
自分の気持ちを素直に言える人がいるでしょうか。
私は、みんなぐらいの頃、うまく言えませんでした。
苦しいことがあっても、「大丈夫」って言ってみたり、
本当はそばにいてほしいのに、「俺にかまうな!」って言ってしまったり。
今日の人じゃないけど、私も苦しい時期がありました。
そんなふうに、本当の気持ちを言えずに、苦しい想いをしている人たちに向けて、聖書は、イエス様はわかってるよ。
あなたの本当の気持ちを知っているよ。
そして、そんなあなたと一緒にいるよって、語りかけています。
このメッセージを、今日はぜひ、一緒に覚えたいと思います。
そして、信じて、イエス様と一緒に、歩み出していきましょう。
お祈りします。
・
先ほどは、悪霊に取り憑かれた人と出会われたイエス様の姿から、イエス様がわかっていてくださるということ。
私たちの声にならない声も、ちゃんと、聞いていてくださるという話をしました。
後半は、ちょっとポイントを変えまして、渡ってきてくださるイエス様に注目したいと思います。
前回、私たちは、「向こう岸に渡ろう」と言って、イエス様が、弟子たちと共に、向こう岸に渡っていかれた様子を読みました。
途中、嵐に襲われながらも、イエス様の導きによって、やってきた向こう岸。
そこに広がっていたのは、自分たちの生きる世界とは違う、異邦人の世界でした。
福音書の舞台であるユダヤ教の世界とは違う、異教の世界。
宗教も価値観も違う人々が生きる世界でした。
そのしるしとして、今日の箇所には、ユダヤ教世界には、あり得ないものが、登場しています。
それは、豚と豚飼いです。
豚は、ユダヤ教では、汚れた動物とされています。
旧約聖書のレビ記11章にそのことが書かれています。
食物規定と言われている箇所ですが、そこに、「あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれいて、しかも反すうするものである。」と書かれています。
豚の場合、ひづめは分かれていますが、反すうしません。
それで、豚は汚れたものとされているわけです。
ですから、ユダヤ人は、豚を食べませんし、飼育することもありません。
豚飼いなんて職業は、ユダヤ教世界にはあり得ないということです。
そんな豚と豚飼いが出てくるということは、そこが、異教世界であるというわかりやすいしるしであるわけです。
そんな場所に、イエス様は渡っていかれた。
そして、悪霊に取りつかれている人と出会っていかれました。
言葉も行動も思うようにならない。
町の人々からも恐れられ、鎖で縛られ、足枷をはめられ、監視されながら、墓場に住まわされていた。
誰も近づこうとしない。
そんな独りぼっちの彼とイエス様は出会われ、悪霊から解放されました。
・
このストーリーを読みながら、私は、この話に、イエス様の生涯が要約されていると思いました。
この話は、イエス様の生涯そのものであると、そう思ったのです。
パウロは、イエス様がこの世に来られた次第について、手紙の中で、次のように書いています。
フィリピの信徒への手紙2章6節~7節
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
「神の身分でありながら」というのは、要するに、神だったということです。
神だったのに、そのことに固執しなかった。
留まろうとか、居座ろうとしなかった。
むしろ、自分を無にして、神の身分を捨てて、人となられた。
それが、イエス様なんだと、語られています。
神の身分を捨てて、人となられた。
そうすることで、神の住まいである天を離れて、人の世界であるこの世に来られたのです。
まさに、向こう岸に渡られたのです。
それは、捕らわれている人に解放をもたらすためでした。
「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
そのために、イエス様は、天と地の境界を超えて、この世に来られたのです。
このようにイエス様は、捕らわれている人々を解放するため、渡ってきてくださるお方なのです。
どんなに遠くても、どんなに壁があっても、超えてきてくださる。
そして、私たちを、解放してくださるお方なのです。
・
でも、そんなイエス様に対して、町の人々は、「出ていってもらいたい」そう願ったと書かれています。
向こう岸から渡ってきてくださって、悪霊に取り憑かれていた人を解放してくださったイエス様に対して、「出ていってもらいたい」とお願いした。
なぜか。
恐ろしかったからだと記されています。
悪霊を追い出す力。
得体の知れないその力に、町の人々は、恐怖したのです。
理解できない。わからない。それが、彼らの恐怖の源でした。
悪霊に取り憑かれていた人が正気を取り戻した。
本来それは、喜ぶべき出来事のはずです。
でも、なんでこの人は、服を着ているのか。
なんで、落ち着いて、座っているのか。
わからない。
どうやって、正気を取り戻したのか、わからない。
彼が正気を取り戻した代わりに、豚の群れが溺れ死んだという知らせも聞かされて、自分たちにも何か、悪いことが起こるんじゃないか。
悪霊を追い出したイエスという人は、本当に信用していいのか。
この人は良い人なのか、それとも悪い人なのか。わからない。
向こう岸からやってきた、得体の知れない人。
見たこともないような力を持っている人。
それが恐くて、受け入れることができたなかったのです。
・
皆さんはどうでしょうか。
初めて会う人や、違う考えを持った人を避けたり、心を閉ざしてしまうことはないでしょうか。
以前、ある研修会で、新来者に対する接し方について、話し合ったことがあります。
その中で、同じグループになった方が、自分は新来者と接するのが恐いと言われました。
何が恐いのかと言いますと、やはりそこで言われていたのが、わからないということでした。
どう接して良いかわからない。
「よくきたねと、どこからきたの?」と、話しかける方がいいのか。
それとも、何も話しかけず、向こうから話しかけてくるのを待っている方がいいのか。
人によって、話しかけてほしい人もいれば、そっとしておいてほしい人もいる。
でも、それを見分けることは難しい。
だから、基本、自分は関わらないようにしていると、言われていました。
話を聞いていて、とてもよくわかると思いました。
初めて会う人に、自分から声をかけるのは、とても勇気のいることです。
相手から、どう思われるだろう。
この人は、どんな人だろう。
とてもどきどきします。
でも、初めてきた人は、その何倍も、どきどきしながら、教会に来られるのだろうと思います。
勇気を出して、向こう岸にわたるつもりで、この教会に来られる。
受け入れ方に正解はないかもしれませんが、せめて、きてくれてありがとうという気持ちは、持っていたいと思います。
そういう出会いを喜び、受け入れていくところに、解放の出来事は、起こされていくのです。
・
解放は、常に、向こう岸、つまり、私たちの外側からもたらされるものです。
違う価値観、違う者との出会いの中で、それまで持っていた考えや価値観が解かれていく。
絶対だと思っていたものが、柔らかくされていく。
自分を縛り付けていたものに、気付かされていく、そういうものです。
だから、恐れず、出会っていきましょう。
新しいものとの出会いを、恐れず、受け入れていきましょう。
向こう岸から渡ってくるものに、心を開いていきましょう。
そのような生き方へと、私たちは今日、招かれています。
もちろん、うまくいかないこともあるかもしれません。
出会いに傷はつきものです。
自分が傷つくということもあれば、相手を傷つけるということもあるかもしれない。
でも、その傷は、決して痛みだけに終わりません。
どんな出会いの中にも、イエス様が共にいてくださって、解放の実りをもたらしてくれます。
以前、実家で、柴犬を飼っていたことがありました。
サスケという名前で、私が高校生の頃、我が家に来たんですが、とても警戒心の強い犬でした。
近づくだけで、ウーっとうなったり、手も何回も噛まれました。
でも、そういうことを繰り返しながら、私も学んでいきました。
どうやったら噛まれないか。
どうやったら、恐怖を与えずに、触れられるか。
ま、結論として学んだことは、サスケはなぜられるのが好きじゃないということでした。
でも、だからと言って、私が嫌いなわけじゃないようで、帰ってくると、いつも尻尾を振って、喜んでくれました。
そうやって、出会いを通して、私たちは、気づきを与えられ、価値観が広げられ、心が柔らかくされていくのです。
傷つくことを恐れて、わからないにとどまるのでなく、イエス様が共におられることを信じて、一歩踏み出していきましょう。
その勇気は、決して無駄に終わることはありません。
イエス様と共に、出会っていく者となっていきましょう。
お祈りいたします。