聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書8章16節〜18節。
新共同訳新約聖書118ページ〜119ページです。
8:16 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
8:18 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
「ともし火」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
先週は、イエス様の言葉を、心に留める。その大切さを、覚えました。
今わからなくても、今すぐ信じられなかったとしても、心に留める。
いつか、そのみ言葉が役に立つ時が来る。
いつか、たくさんの良い実を結ぶって、イエス様は、教えておられました。
今日はその続きです。
今日の箇所でも、イエス様の言葉について、語られています。
先週は、イエス様の言葉が、植物の種にたとえられていました。
植物の種が、知らない間に芽を出し、成長し、実を結んでいくように、
イエス様の言葉も、私たちの心の中で、知らない間に成長し、やがて、たくさんの実を結ぶ。
良い結果をもたらしてくれるって、教えられていましたが、
今日の箇所では、また、別のものにたとえて、教えられています。
それは、何かというと、これです。
聖書には、ともし火って書いてあります。
イエス様の言葉は、ともし火である。
ともし火というと、みんなは、どんな火を思い浮かべるでしょうか。
火にもいろいろあります。
料理を作るときのコンロの火もあれば、
焚き火のように、勢いよく、激しく燃えるような火もある。
それから、ろうそくの火のように、暗いところを、優しく照らすような火もあります。
イエス様が言われた、ともし火というのは、どんな火だったんでしょうか。
今日の箇所を読んでいくと、それは、家の中に置いて、部屋を明るく照らすための火だったって、言われています。
そう聞くと、ろうそくの火じゃないかって思う人が多いかもしれませんが、
イエス様の時代は、ろうそくよりも、ランプがよく使われていたそうです。
この写真のように、土でつくられた器の中に、オリーブ油を入れて、そこに火をつけていたそうです。
だから、イエス様が言われたともし火も、こんな火だったんじゃないかなって思います。
決して、強くはない。
優しく、でも確かに、暗いところを照らしている。
そんな火を、私たちの心の中に灯すために、イエス様は、言葉を語っておられるんです。
さっき言ったように、この火は、焚き火のように、強く激しい火ではありません。
だから、明るい時には、わからない。
心が元気な時、楽しい時、充実している時、そういう時には、その大切さはわからない。
でも、人間というのは、いつも元気ではいられません。
暗くなる時があります。
友達とか、家族と、喧嘩してしまった時とか、
テストが近づいてきた時とか、
うまくいかない時、なんかわからないけどイライラする時、そんな自分が嫌になったりして、心が暗くなる時。
イエス様の言葉は、私たちのその暗い部分を、優しく照らしてくれるのです。
こうしろ、ああしろって、強く言うんじゃなくて、
大丈夫。あなたは一人じゃないよ。私が共にいる。
疲れたら休めばいいし、悲しい時には泣いたらいいって、そうやって、私たちを、優しく励ましてくれる。
そのともし火を、心の中に持っていて欲しい。
あなたの心が暗い時、私があなたを照らすからって、イエス様は、言っているんです。
だから、イエス様の言葉、イエス様が与えてくださるともし火を、心の中に持って、生きていきましょう。
悲しい時、辛い時、心が暗く沈む時、きっと、私たちが生きる力になります。
だから、イエス様の言葉を心に留めて、生きていきましょう。
お祈りします。
・ともし火
先週は、種まきのたとえから、イエス様の言葉を、心に留めて生きるということの大切さを学びました。
今日は、その続きで、引き続き、神様の言葉について、語られています。
この箇所から、今日は3つのことを覚えたいと思います。
一つは、神の言葉が、「ともし火」であるということ。
二つ目は、神の言葉が、秘められたままで終わらないということ。
三つ目は、神の言葉を持って生きていこうという招きです。
順番に、見ていきたいと思います。
まず1つ目は、神の言葉が「ともし火」であるということですが、私は、この「ともし火」という言葉に、心惹かれました。
調べてみますと「ともし火」というのは、暗いところを明るくするための火のことだそうです。
漢字で書くとよく分かりますが、
ともし火を漢字で書きますと、「灯」です。
これは、「電灯」の灯でもありますし、「街灯」の灯でもあります。
こんな言葉もあります。「提灯」読めるでしょうか。
これは、「ちょうちん」ですね。
じゃ、これは、どうでしょうか。「行灯」。
これは、「あんどん」だそうです。
今でも、ホテルの和室なんかに泊まりますと、置いてあることがあります。
電灯も、街灯も、ちょうちんも、あんどんも、どれも、暗いところを照らすためのものです。
そうやって、暗いところを明るくする。
それが、ともし火です。
神様の言葉がともし火であるというのは、神様の言葉が、暗闇を照らす光であるということです。
まさに、招詞で読んでいただいた、詩編の言葉の通り。
詩編119編5節
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」
み言葉の使命というのは、人間を照らすことなんだ。
私たちの歩みを照らす光なんだ。
イエス様は、暗闇の中を歩む人々に、希望の光を灯すため、
そのために、み言葉を語っておられたのです。
イエス様の語られたみ言葉。
様々な言葉がありますが、中でも、その中心として語られているのが、「インマヌエル」神は、あなたと共におられるというメッセージです。
どんなに弱く、欠けた者であっても、神様は、私たちのそのままを愛し、赦し、共にいてくださっている。
ユダヤ人であっても、異邦人であっても、
奴隷であっても、主人であっても、
男であっても、女であっても、どんな性別の人であっても変わらず、神は共にいてくださる。
これこそ、イエス様がもたらしてくださった「ともし火」です。
イエス様は、この「ともし火」を「燭台」の上に置きなさいと言われています。
それはつまり、みんなが見えるように、輝かせなさいということです。
イエス様が生きておられた時代、神様の言葉の光は、みんなが見える場所に置かれては、いませんでした。
み言葉の光は、ユダヤ人であり、かつ、律法を守っている人々にしか、見えないものでした。
人は、すぐに条件をつけます。
良い子にしてたら、プレゼントをあげるよ。
テストで100点とったら、欲しいものをあげるよ。
同じように、当時、み言葉の権威と言われた、律法学者やファリサイ派の人々も、律法を守ったら、神様に愛される。
正しく生きた人だけが、御国に入れると、そう教えていました。
これこそまさに、イエス様が言われた、「ともし火」を器で隠す行為です。
ユダヤ人じゃないとダメ、律法を守ってないとダメ。
そう言って、み言葉の輝きを、覆い隠してしまっていた。
み言葉の輝きにあずかれるのは、ほんの一握りの人たちだけ。
他の大多数の人たちには、見えないようになっていた。
イエス様は、そのみ言葉を、燭台の上に置きなさいと言われます。
みんなが見える場所に、みんなが、その光を受けられる場所に置きなさいということです。
異邦人だけじゃなく、ユダヤ人にも、
律法学者だけじゃなく、病人や徴税人や子どもたち、それに犯罪者。
男も女も関係なく、全ての人が、無条件に、受け取れるように置きなさい。
あれこれ条件をつけて、限られた人にだけ見えるようにするというのではなく、すべての人に見えるようにしなさい。
なぜなら、み言葉の光は、すべての人を照らす、恵みの光だからだ。
イエス様は、そのように仰っているのです。
これは、まさに、大分教会が、チャレンジしようとしていることです。
この1年間、私たちは、これからどうするのか。
何を大事にしていくのかを、みんなで話し合ってきました。
その中で、たどり着いたのが、「教会の敷居を下げる」ということでした。
しかもそれは、単に、教会の働き人を増やすためじゃない。
もちろん、教会を建てあげる仲間が与えられることは、私たちの祈りです。
でも、それ以上に、一人でも多くの人たちと、福音を分かち合いたい。
イエス様の言葉の光を、一人でも多くの人たちと喜び合いたい。
自分の居場所を求めている人たち。
仲間を求めている人たち。
先が見えず、不安の中を歩む人たち。
生きる望みが見えない人たち。
そういう人たちが見えるように、み言葉の光を掲げていく。
これこそ、まさに、今日、イエス様が仰っていることです。
・真実はいつかあらわになる
み言葉の光を掲げていきましょう。
その光こそ、人間を照らす、人間を活かす、命の光であると信じて、み言葉の光を、掲げていきましょう。
そのみ言葉が真実であるということが、いつか、すべての人にわかる日がきます。
今は、信仰の目でしか見ることができませんが、
「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」
いつか、はっきりと、明らかになる日が来るということです。
使徒パウロも、手紙の中で、
「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」という言葉を残しています。
迫害の時代、本当に神様は共にいるのかと、そういう叫び声が響く時代。
パウロは、信徒たちを、そのように励ましたのです。
私たちも時に、信じたくても信じられない。
神様どこにいるのと、そう思わずにはいられない時があります。
でも、神様は共にいる。
それが真実であるということが、いつか必ず、あらわになる日が来る。
だから、どんな状況に置かれても、
どんな状況に置かれている人たちに対しても、み言葉の光を掲げ続けなさい。
そうイエス様は、言われるのです。
・み言葉を持って、生きていこう
だから、み言葉を持って、生きていきましょう。
私たち一人一人が、み言葉という「ともし火」を輝かす、燭台になっていきましょう。
イエス様は、言われます。
「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
持っていない人とは、持たなくても生きていけると思っている人たちのことでしょう。
才能や富、地位や名誉があるから、生きていけると思っている人。
み言葉なんてなくても、平気だと、
そんなものに頼らなくても、自分は生きていけると思う人。
確かに、富や才能、地位や名誉を、永久に持ち続けられるならば、生きていけるかもしれません。
でも、残念ながら、そういうものは、はかなく、もろいものです。
才能も、富も、力も。
その炎は、私たちが燃料をくべ続けないと、消えてしまいます。
頑張って、努力して、燃料をくべ続ける。
それでも、時に、消えてしまう。
そんな儚く脆い火を、握りしめて生きるのではなく、イエス様の与えてくださったともし火を持って生きていきていきましょう。
イエス様のともし火は、燃料をくべ続けないと、消えてしまうような火ではありません。
むしろ、誰にも奪えないし、誰にも消せない。
変わることも、なくなることもない。
ペトロの手紙1章25節
「草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」と、記されている通りです。
そのみ言葉を信頼し、
ともし火であるみ言葉を持って、生きていきましょう。
お祈りします。